三角締めの良い資料がありませんでした
・・・いや、探せばあるんですけど(多分)、最近は純粋な形の「三角締め」を使う選手は必ずしも多くないのかな、という印象を受けます。で、ベスト・オブ・ザ・スーパージュニア優勝記念、ということで、井上亘のフィニッシュホールドのトライアングルランサーを仕掛ける本田透の「脳内妹」、本田悠ちゃん(決勝戦で金本をタップさせた変形型で、足をロックしてエスケープしにくいようになっています)。
#モノクロ一枚絵だけを見て描いているので、色指定違ってたらすみません・・・つーか、いつのまにかツリ目がえらく苦手になってしまいました(泣
またしてもずいぶん間が空いてしまったが、先般、数年前に出版されてひとしきり話題となった、本田透『電波男』が文庫化されたので、良い機会だと思い一読してみた。無論、氏が展開している言説については間接的に知っており、ネット上を中心にさまざまな議論となったこともおおよそ知悉してはいたのだが、改めて原文に触れてみて想起したのは、意外なことに、近時の歴史的言説をめぐる「記録/記憶」の問題系に関する議論、とりわけ、歴史学方法論についての篤実な仕事を重ねている大門正克による、阪神・淡路大震災をめぐる一連の文章であった(『歴史への問い/現在への問い』)。
大門は、これらの仕事の中で「小さなもの」(この問題系には、二宮宏之の「ソシアビリテ論」が接続される)へのこだわりについて強調し、「経験」に即した語りを実践することによって、<グランド・セオリー>解体後の言説空間における歴史的な「語り」を補強しようとしているようである。この問題意識は、おそらく、例えば「受苦者の連帯」を語ろうとする山之内靖のスタンス、あるいは、ややベクトルは異なるかもしれないが、ネグリ=ハートが主体として立ち上げようとする「マルチチュード」とも軌を一にするように見える。
これに対し、同じように震災体験を経た本田の言説は、<恋愛資本主義>と名指しされるようなオイディプス的(!)関係を鋭く批判するものであるが、その批判は大門のような「小さなもの」や「経験」への着目という戦略ではなく、敢えて<恋愛資本主義>と対置されるような、別の<グランドセオリー>を構築しようとする方向に向かっているようである。しかし、その対抗言説は、本田自身も自覚的であるように、「トラウマ」や「ルサンチマン」といった(ラカン的な)<近代>の道具立てにより構築されている。それは無論、強固で説得力のある構築物ではあるが、<グランドセオリー>の解体とはそもそも、価値観の共有という前提そのものを疑わざるを得ない事態のことではなかったか。
おそらく本田の言説は、その説得力と雄弁さにより、<近代>的な諸価値を前提とする<恋愛資本主義>に対する極めて有効なアルタナティヴとして機能してきているのであろう。しかし、この「アルタナティヴ」を立てるという方法論自体に、今の「オタク」たちは乗ってこないのではないか、という危惧も同時に見え隠れする・・・「オタクの可能性」は、例えば、東浩紀が賭けようとするような、現代社会において不可視化する権力が非対称的に「テーマパーク」になろうとする際、その権力主体の意図とは無関係に「データベース」を(「動物的」な消費の結果として)構築してしまう、という範囲のものでしかないのかもしれない、というのは(東浩紀・稲葉振一郎「ポストモダン以後の知・権力・文化」(東『批評の精神分析』))、あるいはペシミスティクに過ぎるだろうか?
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