日記・コラム・つぶやき

三角締めの良い資料がありませんでした

Triangle
・・・いや、探せばあるんですけど(多分)、最近は純粋な形の「三角締め」を使う選手は必ずしも多くないのかな、という印象を受けます。で、ベスト・オブ・ザ・スーパージュニア優勝記念、ということで、井上亘のフィニッシュホールドのトライアングルランサーを仕掛ける本田透の「脳内妹」、本田悠ちゃん(決勝戦で金本をタップさせた変形型で、足をロックしてエスケープしにくいようになっています)。
#モノクロ一枚絵だけを見て描いているので、色指定違ってたらすみません・・・つーか、いつのまにかツリ目がえらく苦手になってしまいました(泣

またしてもずいぶん間が空いてしまったが、先般、数年前に出版されてひとしきり話題となった、本田透『電波男』が文庫化されたので、良い機会だと思い一読してみた。無論、氏が展開している言説については間接的に知っており、ネット上を中心にさまざまな議論となったこともおおよそ知悉してはいたのだが、改めて原文に触れてみて想起したのは、意外なことに、近時の歴史的言説をめぐる「記録/記憶」の問題系に関する議論、とりわけ、歴史学方法論についての篤実な仕事を重ねている大門正克による、阪神・淡路大震災をめぐる一連の文章であった(『歴史への問い/現在への問い』)。
大門は、これらの仕事の中で「小さなもの」(この問題系には、二宮宏之の「ソシアビリテ論」が接続される)へのこだわりについて強調し、「経験」に即した語りを実践することによって、<グランド・セオリー>解体後の言説空間における歴史的な「語り」を補強しようとしているようである。この問題意識は、おそらく、例えば「受苦者の連帯」を語ろうとする山之内靖のスタンス、あるいは、ややベクトルは異なるかもしれないが、ネグリ=ハートが主体として立ち上げようとする「マルチチュード」とも軌を一にするように見える。
これに対し、同じように震災体験を経た本田の言説は、<恋愛資本主義>と名指しされるようなオイディプス的(!)関係を鋭く批判するものであるが、その批判は大門のような「小さなもの」や「経験」への着目という戦略ではなく、敢えて<恋愛資本主義>と対置されるような、別の<グランドセオリー>を構築しようとする方向に向かっているようである。しかし、その対抗言説は、本田自身も自覚的であるように、「トラウマ」や「ルサンチマン」といった(ラカン的な)<近代>の道具立てにより構築されている。それは無論、強固で説得力のある構築物ではあるが、<グランドセオリー>の解体とはそもそも、価値観の共有という前提そのものを疑わざるを得ない事態のことではなかったか。
おそらく本田の言説は、その説得力と雄弁さにより、<近代>的な諸価値を前提とする<恋愛資本主義>に対する極めて有効なアルタナティヴとして機能してきているのであろう。しかし、この「アルタナティヴ」を立てるという方法論自体に、今の「オタク」たちは乗ってこないのではないか、という危惧も同時に見え隠れする・・・「オタクの可能性」は、例えば、東浩紀が賭けようとするような、現代社会において不可視化する権力が非対称的に「テーマパーク」になろうとする際、その権力主体の意図とは無関係に「データベース」を(「動物的」な消費の結果として)構築してしまう、という範囲のものでしかないのかもしれない、というのは(東浩紀・稲葉振一郎「ポストモダン以後の知・権力・文化」(東『批評の精神分析』))、あるいはペシミスティクに過ぎるだろうか?

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タンメンとワンタンメンはちがうものだ

Dona
・・・いや、特にタイトルに深い意味は無いのですが、OYSTER『男爵校長』(ウムラウト省略)からドナさんのお気に入りの台詞(何故ドナさんなのかは以下で明らかに・・・なるか?)。いやまあ、アリカの振る舞いも、小夜子さんの常識人っぷりも良いのですが。

* * *

星野陽さまからブログにて挑戦を受けてしまいました。挑戦は受けるのが宿命ですので(笑)、以下果敢にも応えることにします。お題は「無条件バトン」・・・ここでいう「無条件」というのはカサブランカ会談でルーズヴェルト大統領が語った例のアレではなく(以下略)
※今回は以下も口語体です。

1.無条件でときめく○○な人3人
・ 以前どっかで書いた気もしますが、大学生のころ友人と東横線に乗っていた時、前に座っていた妙齢の女性がブレイロックの『ホムンクルス』を読んでいたので、ひそかに驚き慌てていたところ、その女性が電車を折り際に一言「・・・面白いですよ」と言い残していったのにはときめきましたなあ。
・精神が年寄りなので、良い意味で「動物的」に元気な娘さんにはときめき、というか眩しさを感じますね。
・ミルフィーユ・桜葉。

2.無条件で嫌いな3つ
・価値相対主義的な言説の通じない場。「無条件で嫌い」を想定するような場はこれにあたりそうですが(笑
・精神論(あ、これ上のと被るか)。
・夏。

3.無条件でお金をかけられるもの3つ
・敢えて行っている自己言及的行為。
・まあ、書物でしょうか。
・最近、なんとなく見続けてしまった深夜枠アニメの主題歌CDを買うようになってしまいました。『一騎当千DD』とか(笑

4.好きな○○(行動)3つ
・舌先だけで人を惑わす衒学。
・古書店めぐり。
・惰眠。

5.無条件でこのバトンを受け取ってくれそうな(いただきたい!)5人
これはまあ・・・自発的に受け取る人がいれば。元のバトンには「その5人を色にたとえると」という設問もあるのですが、これは受け取っていただいた人に個別攻撃で。
#「挑戦はうちからすべきことだ!」

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キャスティングの時点でオチを予測できます

Croix
私は自宅にいるときは(あまりいないけど)テレビを点けっぱなしにしていることが多いのですが、各週の行動パターンが大体決まっているので、期せずして大体いつも同じ番組を見てしまいます。金曜午後10時からの「美の壺」(NHK教育)もその一つな訳ですが、この番組、ナビゲーターが谷啓なのです(だから見てる、というところもありますね)・・・賢明な読者諸兄にも予測がついたかと思います(笑
イラストは、正月に浮かれてつい購入してしまった『MicroSister UNI』のクロア。「活発系女の子」とキャプションがついてますが、そのわりに安産型の体型なのが味があるところでしょうか(イラストでは画力の関係で再現できませんでしたが(泣))・・・ちなみに附属の<ミクロシスター>はとてもよく出来ています。さすがだ。

読み通すのに非常に時間がかかる竹本泉の『いろいろぶっく』の中に「マニアはツボをいろいろ持っています」という一文がある。ちなみに竹本泉自身のツボについては「メガネとかおさげとかそばかすとか」という地の文の記載に加えて、20年近く前のノートを発掘して、「こんな大昔からネコ耳がツボ」であったと述懐する件がある。
この件を読みながら、多分に自己言及的な自分自身の振る舞いの中に、このような形での明示的な「ツボ」が発見できるだろうか、とふと考えてみた。例えば、『MicroSister UNI』にはヴァージョンが二つあり、手元にあるクロアと一緒に並べられていたのは「おしとやか系女の子」のアウラだったのだが、そこでクロアの方を意識的にか無意識的にか手に取ったのであるから、そこには何か「ツボ」があったのだろうか・・・などと考えながら過去の落描きデータを見ていたら、こんなものが目に入った。元ネタからするに数年前のものである。
Kondou2
・・・おぼろげな記憶なのだが、かつて『ガルフォース』の設定資料(本編ではなく、続編だったように思う)を見ていた際に、腕のラインとグローブ部分の段差のところに園田健一が「ここが重要!」と書き込んでいたのに妙に感心したのを覚えている。例えばこういうものを指して「ツボ」と呼ぶのだろうか?大方のご叱正を賜りたい次第である(笑
#少し前に『グローブ・オン・ファイト』とかもありましたねそういえば(笑


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イノシシノゲンコハヤクオクレ

Inosishi
いや別に誰かに督促されているわけではないのですが、あまり遅くなると賀状の意味を失してしまうので取り急ぎ。ちなみにネタは南方熊楠『十二支考』の「猪に関する民俗と伝説」(確か東洋文庫版が手元にあったように思ったのですが見当たらないので、良い機会なので岩波文庫版を購入しました)・・・ともあれ、明けましておめでとうございます。本年もなにとぞよろしくお願いします。
#物理的に賀状をお送りしている方には重複してしまいますが御容赦を・・・毎年、干支になんとかひっかけて図柄を考えているのですが、イノシシにはあまり連想がはたらきませんでした。むう。

私の場合、郷里にあたる本籍地に墓所があるのだが、「墓参り」には春か秋に赴くのが通例なので、お盆と正月については実はさほど思い入れがあるわけではない(いつも見ているWBSとsakusakuが共に特番に押されて放映されなくなったことで、年の瀬の押し迫ったことを実感したくらいである(笑))。とはいえ、暦通りの休みを利用して、普段なかなか会うことの出来ない知人と会う機会を持つことが出来るのはやはり良いものである。
昨年末には、渋谷で忘年会を挟んでカラオケに興じて(どうでも良いが、しばらく行かないうちにまんがの森と大盛堂書店がなくなってしまい、まったく土地勘が働かなくなって難渋することこの上なかった)「超爆ロボグロイザーX」や「我らの万能潜水艦ノーチラス号(初代)」などを熱唱し、年明けには、神田明神に初詣に出かけた後秋葉原を巡って、『Micro Sister UNI(クロアver.)』、禍々しいステッカー付の『ひぐらしのなく頃に礼』、うっかり手にとってしまった『Mine bluE』などを買い込んだ上でヨドバシの居酒屋で新年会、帰りがけには新宿のとらのあなをもひやかして『決定版!! メイドポーズ集』などを勢いに任せて購入する、という、大変祝祭的な年末年始であった。
ちなみに、これも恒例として、私はここ数年、正月の運試しとして秋葉原で食玩(またはガシャポン)を購入しているのだが(昨年はPSEだったと記憶している)、今年は『おとぎ銃士赤ずきん』のフィギュアコレクションを選んだところ、いばら姫を引き当てたので、きっと今年は良い年になるであろう・・・声沢城みゆきだし(笑
#グレーテルは第一弾にはラインナップされていないので(笑

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ところでジッソーくんはどうして顔の前に物をおくの?

Jissoh1_1
実相寺監督の作品と言うと真っ先に思い浮かべるのは、個人的には「恐怖の宇宙線」なのですが(子供たちがウルトラマンを罵倒する、というのも印象的でしたが、なによりガヴァドンAの可愛らしさがたまりません)、小学校の頃再放送で『ウルトラマン』を見ていた際も、子供心に「空の贈り物」や「怪獣墓場」はなんとなく他の作品と違う、という印象を持ったものです。最近のものでは、『ウルトラQ darkfantasy』の「闇」や「ヒトガタ」が好きでした。
#『姑獲鳥の夏』はまあ・・・予算が少なかったのかな、と(笑
##ちなみに、メトロン星人はともかくとして、なぜシーボーズ少女なのかは問わないでください(笑

一週間ほど前かえんじゅさまから、実相寺監督が他界したとのお知らせをいただいた。少なからぬ驚きと共に、なんともいえない喪失感を覚えたのを記憶している。ある一定以上の年代で、特撮に多少の思い入れのある人間であれば、おそらく同様の思いに駆られるのではないだろうか。
『ウルトラマン』や『ウルトラセブン』における実相寺監督の作品は、特異なカメラアングルと演出にこだわることによって、意識的にか無意識的にかはともかくとして、昭和のウルトラシリーズが構造上抱え込まなければならなかった二項対立的な<正義>の問題を、ある程度相対化することに寄与していたように思う。
#無論、周知のように、実相寺作品でなくとも「小さな英雄」や「ノンマルトの使者」などのように、明示的にこの二項対立構造に言及するものも少なからずあったのだが。
一方、平成ウルトラマンでは、作品自体がこのような二項対立的な価値を意図的に排除する方向を採ることによって、実相寺監督の話は、例えば『ウルトラマンティガ』の「花」や「夢」のように、価値観やイデオロギーを提示することではなく、監督独自の美学を表現することに徹することとなった。おそらくこのことは、ウルトラシリーズにとっても、実相寺監督にとっても、結果としては良いことだったのではないかと私には思える・・・かつて実相寺監督は円谷一監督について、「人間、死ぬときまで子どものときからつちかってきた夢を抱いていられるのは幸せなことではないか」と語ったことがある(『ウルトラマン誕生』)。今はこの言葉を、実相寺監督自身に捧げることが出来ればと思う。

謹んでご冥福をお祈りいたします。

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郵便局を開設しよう

Foucault1
コミティア店番恒例の落描きです。実は、コミティア開催の2週間くらい前に一つ仕事の締め切りがあったので、それが終わったら何かマンガでも描こうかな、と思い、ネタ先行で、当時読んでいたフーコーの権力論を擬人化(「可視化される権力」といったところでしょうか)できないか、と考えていました。左のdicipline(規律・訓練)が妹、監視と処罰が趣味のツンデレ娘、右のbio-pouvoir(生-権力)が姉、一見包容力のある天然さんだけど素で凶悪、とか、姉妹のキャラ設定までは考えたのですが、ストーリーが思い浮かびませんでした(当然か(笑))・・・私にはどうも、クリエイティヴな素養が根本的に欠けているようです。むう。

このような形で、ネタとしてのイラストを掲げ、口語体でコメントを附した後に一応の「批評」を書く、というのがこのブログのスタイルなのだが、上記コミティアの際、かえんじゅさまから大略、そもそもこのブログが「何か意味のある批評をしていたという記憶がない」という手厳しいご意見をいただいた。確かに。ブログ全体を通した一貫する「批評精神」があるわけではなく、あるのは「批評」という形式、あえていうなら「ネタ」を「ネタ」として掲げるアイロニカルなスタンスのみが一貫しているに過ぎないので、内容がない、と言われれば返す言葉もないのである。
私の「批評」のスタンスは、様々な「ネタ」を並列に並べることで対象の意味を相対化する、というのがベースであり、そのため文章中にさまざまな小ネタを仕込んでいる。このネタの仕込み方は、ちょうどタグブラウザのような閲覧形式を想定していて、何かひっかかるキーワードがあったら読者はとりあえずぐぐってみる、という行動を取るだろう、という想定の元に、かなり意図的に不親切にしてある(元々性格が捻じ曲がっているというのもあるが)・・・ところが、これもかえんじゅさまの適切な指摘なのだが、私の駄文についてそもそもそれだけの労を執る読者はほとんどいないであろう。
さすがに、何の意味もない文章を書き連ねるのは徒労感があるので、さしあたっての措置として、別のブログを立ち上げ、各エントリについて自分で注釈(というかツッコミ)を加え、トラックバックしてみることにした。これで、「誤配」の前提としての「郵便的」なシステムが機能し始めれば良いのだが。

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あの頃はケンブリッジ学派に関心が行っていなかったのでしょう

Madchenfuralles
※文字化けしそうなので、以下アクサンとウムラウトは省略します。
私の絵はどうも今ひとつ「引き」が弱いというか華がないので、ネタなのだと割り切っております・・・このイラストも写真を見ながら描いたのですが(といっても、スカート部分は図書館のタグで隠れてしまって良く判らないので適当ですし、何より被写体の女性はガタイの良いおばちゃんです(笑))、いかにも辞典的なカットになってしまったので、塗りも陰影をつけずにそれっぽくしてみました。

最近になってようやく、ちょっとしたきっかけで(歴史人口学について少し調べる必要があったので)ラスレットの『われら失いし世界』をやや詳しめに読む機会があった。周知のようにラスレットは、近世イギリスに対する歴史人口学的アプローチの一つとして「lifecycle servants」という概念を提示しているのだが、この点について、以前とある同人誌にメイドさんについての文章を寄稿した際に、あまり咀嚼せずに紹介してしまったような記憶がふと思い起こされた・・・ところが、いざ確認してみようとすると、もっぱら知人に頒布してしまったためか手元に現物がなく(引越しの際処分してしまったのかもしれない)、果たして自分がどんな文章を書いたのか定かではない。もっとも、確認したからといって訂正のしようもないのだが。
#自らの浅学につき恥じ入るだけであろうから、これで良かったのかもしれないが(笑
なぜこんなことを唐突に思い起こしたのかというと、語学の訓練の問題と関係している。実は、年度末くらいまでにドイツ語の史料を90ページほど翻訳しなければならなくなってしまったのだが、この仕事は、大学の頃から起算すると私にとって第4外国語になるドイツ語への苦手意識から、なんだかんだと理由をつけながら先延ばしにしてしまっていたものである。
#学部では、当時ラテンアメリカ文学にはまっていたのでスペイン語選択であった。もっとも、当時出身校には鼓直先生が出講されていて、その講義が受けられたので大変感銘を受けたのだが・・・鼓先生も、第1回目の講義のあとにいきなり「コルタサルの作品でまず読むべきものを教えてください」とか質問してくる学生にさぞや困惑されたであろう(笑
##ちなみに「『石蹴り遊び』ですかね」と誠実にお答えくださいました。
そもそも私は語学が不得手で、なかなか読解のスキルが身につかないのだが、ちょうど上掲の同人活動に携わっていた大学院の頃、フランス語のえげつない試験を受ける必要に迫られ(スペイン語の試験はなかったのである)、いろいろ考えた上で「興味があるものだったら読むに違いない」とありきたりな結論に達した末、図書館で借り出してテキスト代りにしたのが、Pierre Guiral, Guy Thuiller, La vie quotidienne des domestiques en France au XIXe siecleと題する書物であった(笑
幸いなことに試験には(何回か落ちたあと)なんとか合格したので、この手法はそれなりに有効だったのであろう・・・というわけで、今回も同じことを試みることにし、今度はDorothee Wierling, Madchen fur allesと題する書物を借り出してきた次第。で、この行動様式を取るうちにラスレットと上記の記憶が結びついたのだから、このプラティーク(笑)の効果は相当なものである。
#英語で言えばmaid for all worksだが、上掲の写真の女性は結構凝ったエプロンを着けている印象である。
同書の序章をわからないながらもちょっと見てみると、イギリスやフランスのメイドさんとは若干異なるあり方が19世紀末のドイツにはあったらしいことが伺え(多分(笑))、なかなか興味深そうな内容である・・・もっとも、私がメイドさんについて付け加えるべき情報は、世紀をまたいだ斯界にはもはやないであろうが(笑

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暗黒星を祭る文

Setsuna
ちょっとばかり時期を逸してしまった上に(『ひぐらしのなく頃に解』にかかりっきりだったのは秘密でもなんでもありません(笑)・・・このネタはまたいずれ)、おそらく全国3000万人くらいがネタにしているかと思うのですが、わりとあっさりと立場をなくしてしまったセーラープルートこと冥王せつなさんを描いてみました。これも久しく描いていなかったので細部忘れてしまったのですが(さすがにこれは手元に資料がない)、こんな感じだったでしょうか。
#「暗黒星」といえば通例は江戸川乱歩ですが、ここではブログの性質上ユゴスのことを指します(笑。
##このニュースが流れた際に、歌詞の中に太陽系の惑星の名前を列挙する歌をどうするのか、といったようなネタが「報道ステーション」で取り上げられていましたが・・・個人的には、真っ先に想起されたのは『宇宙大帝ゴッドシグマ』のEDテーマでしたが何か(笑

それにしても、国際天文学連合が惑星の定義を見直し、冥王星が太陽系の惑星から外れるに至る経緯は、端から見ているとあまりにもあっさりとしたものであったように思う(投票の仕方も『紅白歌合戦』レベルだったような)。確か現在の88星座を確定して、ねこ座とかがちょう座とかハーシェル望遠鏡座とかを星図から追放したのもこの連合だったと思うが、今回の顛末がいかにも唐突に思われたことは、逆に、我々が普段いかに天文について関心を払っていないか、ということの証明にもなるだろう。
#『天文ガイド』とかを購読していれば、惑星の定義見直しについての議論が継続されていたことがわかったのかもしれない。
ものの本によると、冥王星の発見に貢献したパーシヴァル・ローウェルは我が国にも因縁浅からぬ人物で、明治中葉に滞日した際、フェノロサの仲介でラフカディオ・ハーンと知己になったとの由。「冥王星」の名も、ローウェルの死後その遺志をついで海王星外惑星の発見に至ったクライド・ウィリアム・トンボーの苗字(Tombaugh)と、ローウェルのイニシアル(P.L.)を組み合わせて"Pluto"とした、とあるが、なにやらどこまでが都市伝説なのか図り難いような逸話である(山内雅夫『占星術の世界』・・・しかし、手元にもう少し信憑性の高い文献があるかと思ったが、私の天文への関心も所詮はこの程度、ということだろうか)。いずれにせよ、太陽系の最果てに冥王が鎮座する、という、いささか出来すぎな感もしなくはない我々の宇宙観が、今後どのように揺らいでいくのかという点には、若干の関心を覚える・・・松本メーターと共に過去の遺物になってしまうのかもしれないが。

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物流管理(Business Logistics)でもありません

Blgirl
こういう加工のしかたをするからいかんのだ、という批判を受けそうな感じですが、川原泉『レナード現象には理由がある』の中に、「BL」という略語を標題のように誤解する件があったので、シンクロニシティが発生したものとみなしてネタにすることにします。しかし、「BLの代表的存在である安部晋三」という文字列でドキドキするには相当の修行が必要な気がするのですがどうでしょう(笑
#どうせならもっと狙った絵柄にするべきなんでしょうけど・・・しかし、実際イラストに起こすときに、どうしても原画にあるような膝を外向きにしたポーズに出来なかったのは(なんだかバランスがとれないのです)、私の中に染み付いた「ジェンダー・ハビトゥス」の表出なのかもしれません(笑
##しかし、フェミニズム/ジェンダー論の立場からは、BLものってどういう評価なんでしょうね。

仕事柄しばしば関連する言説に触れる機会があるのだが、どうもルールのわからない格闘技を見ているようで今ひとつピンと来ないため、ルールブック代わりに上野千鶴子他『バックラッシュ! なぜジェンダーフリーは叩かれたのか?』を一読してみた。しかし、これだけをルールにすると公平を欠くようにも思えたので、仲正昌樹『ラディカリズムの果てに』も併読(順番としては後者が先だったが)。論者によって強調点が異なる上に、ところどころ立場の違いもあるようでにわかには理解しがたい部分もあるのだが、なんというか、思想系の論争と言うのは、論争の場を設定するのが極めて困難なのだな、という素朴な印象を抱いた。
ある論考について、論者が批判の論考を寄せ、それに対して更に反批判が行われる、という形の「論争」はアカデミズムの世界では日常的に見られるものだが、このタイプの論争は、論者の間にかなりの程度の共通了解がないと生産的なものにはならない。そうでない場合は、反批判の際の論文の引用の仕方が恣意的だ、とか、そもそも学問的批判ではなく人格否定だ、とか、およそ学問的なものとは程遠い罵倒の応酬にしかならないのが通例である・・・であるとすれば、そもそも立脚点を異にする思想系の「論争」が、基本的には罵倒の応酬にしかならないのは、構造的にはいわば必然の結果なのかもしれない。
このブログの問題関心に引き付けると、例えば宮台真司の巻頭インタヴュー「ねじれた社会の現状とめざすべき第三の道」の中で、本田透の一連の著作についてトラウマとルサンチマンの図式として理解し、批評を行う部分がある。ここでの宮台の立場は、あくまで「現実」というものが有意味なものとして存在するという暗黙の前提を維持しつづけているようにも見える。しかし、ソシュールの「有縁性」概念を持ち出して、「萌え記号」と「現実」の連環を強調する宮台のこの言説は、例えば同書の別の論考(斉藤環「バックラッシュの精神分析」)で批判されている内田樹の「身体性」を基軸にした言説と、果たしてどれくらいの距離があるのだろうか?
#わたしはここで、『うる星やつら』で、シュガー・ジンジャー・ペッパーに一服盛られて、ラーメン丼に「美しい・・・」とつぶやくあたるのエピソードを思い起こしたのですが(笑

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世にミニスカのタネは尽きまじ

Misaki
清少納言が聞いたら悲嘆のあまり憤死しそうなアレンジですが(元は「世に逢坂の関はゆるさじ」ですねw)、仏さんじょ『ろりぽアンリミテッド』から鎌ヶ谷みさき。こうなったらミニスカメイド縛りでどこまで行けるか挑戦してみたくなるところです(笑
#しかし・・・「サッカーがダメでも、この国にはまだメイド喫茶があるっ・・・!!」凄まじい帯のセンスに脱帽です(笑
##カバー裏の「萌仮面の部屋」もなかなかイカします・・・しかし、「幻の第13話」はやっぱりホントは第12話にしたかったんだろうなぁ。

以前、「萌え」と「オタク」の関係についての分析の際<自己言及性>というタームを用いたが、私のこの概念の理解はルーマンやトイプナーのもの(で自分が理解できた範囲のもの)である。ところで、ものの本によると、この両者の「自己言及」概念は、システム論のうちの第二世代にあたる「自己組織化モデル」、特に「自己触媒」と「ハイパーサイクル」に回収されるレベルのもので、第一世代システム(恒常性)のように時間概念を前提しないというレベルではないが、かといって第三世代システムの「オートポイエーシス」に言及するまでもないのだそうである(河本英夫『オートポイエーシス』)。確かに、社会科学に応用される際の「自己言及」は、よく考えれば第二世代の「自己組織化」概念で十分に説明可能なようにも思える。
例えば『ろりぽアンリミテッド』の場合、「メイド喫茶破り」が「公式なメイドコンペ」として成立する世界観がその背景にある。『Piaキャロットへようこそ』などの作品が「メイド喫茶」そのものを描いていたことに比すと、この作品は視線をメタ化(システム論で言うと「自己による境界設定」)していることになるし、このようなメタ化は確実に「時間」という媒介項を導入しないと行い得ない(メイド喫茶の成立当時には、こういったメタ化が可能になるレベルに至るかどうかは予測不可能であった)。しかも周到なことに、この『ろりぽアンリミテッド』は、作中作として『メイドウェイトレス☆みのりちゃん』なる作品を仮構し、この「オリジナル」を起源とするメイド喫茶の爛熟の歴史をも仮構する・・・作中登場するメイド喫茶「アンリミテッド」は、作中において既にシミュラークルと位置づけられているのである。
#どうでもよいが、『みのりちゃん』というといしかわじゅんのイラストが思い浮かんでしまうのだがどうしたものか(笑
こういった二重三重の視線のメタ化は、「オタク」文化の典型的な「自己言及性」を示しているようにも思う。かつてはこれは「アイロニー」と呼ばれたりした行動様式だが、その「批評精神」が今最も端的な形で見られるのが秋葉原である、というのは、それこそ何かの皮肉なのかもしれない。

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