書籍・雑誌

「まるで波の静かな大海原を彷彿とさせるような」

Minami
・・・確かに、詩的な表現をしたところでなんのフォローにもなってませんな。ということで、井上堅二『バカとテストと召還獣』から島田美波。本当は秀吉を描こうかと思ったのですが、「基本的に女性キャラしか描かない」という拙ブログの数少ないポリシーに抵触する虞があるので(笑
#しかし、ライトノベルの文体は日々進歩しているのですね。なんというか、擬音の使い方や改行の作法など、いろいろな点での洗練を感じます。『バカテス』の卓抜した文章センスは、一昔前だと火浦功の<スターライト・シリーズ>に感じたような軽やかさですね。
##毎回「バカテスト」の教師のコメント(という名のツッコミ)には脱帽です。個人的には、3巻の「ジョンです」が好き(笑

『トーキングヘッズ叢書』は、なかなか店頭において目にすることが無い本で、私自身も数冊しか手元に持ってはいないのだが(ちなみにゴス特集とか(笑))、ある日秋葉原のとらのあなに赴いた際に平積みになっており、いささか当惑させられた。特集は「胸ぺったん文化論序説」、確かにとらのあなに並べられてしかるべき本ではあるが、内容はいつもの『TH』らしくサブカル色の濃い記事で占められており(特集にあたっての序言が「源氏物語」千年紀や「テロとの戦い」などに言及するのがいかにもそれっぽい)、果たしてどんな客層が手にするのか、いささか気になるところではあった。
#『國文學』が「萌えの正体」と特集したときにもとらのあなで取り扱いがあったので、私のような斜に構えた需要はあるのだろうが・・・。
さて、この特集においてキーワードとされているのが、「フラジリティ(脆弱さ)」と「ネオテニー(幼形成熟)」である。この二つの要素の交点に「かわいい」という価値の順接的な肯定が定位されることには、おそらく異論は生じないであろう。まさしく「かわいい」は「正義」だということになるが、この「正義」の内実が、伸絵の視線によって美羽らが「主体性を剥奪された、眺められる客体と化されている」ことの正当化であるという指摘には同意せざるを得ない(寺澤梟木<書評>『苺ましまろ』、以下の記事は全て同書所収)。フラジリティは、この文脈においては確かに、価値の欠落、虚焦点としての想像性を強く帯びた、ジェンダー的な「欲望装置」として機能することになるであろう(志賀信夫「微乳礼賛」)。
しかし問題はおそらく、フラジリティとネオテニーが必ずしも順接的に結びつかない概念であるということである。とりわけ後者に、「幼いままでいること」の肯定的価値を読み込むとすれば、そこに「脆さ」が伴わない蓋然性は無論ある。この点で、少女人形作家埜亞の創る人形を「あえて子供らしい顔」を作っているのではなく「成長していく姿というのはあまり思い浮かべることができなくて、もうこれで十分成熟しきっているイメージがある」と評する森馨の指摘は示唆的である(埜亞×森馨~少女人形作家 少女論放談(なお勿論、森薫とは別人である。為念))。ここには、欠落ではなくむしろ「充足」としての「ネオテニー」を評価する視点が含意されているが、この省察の後景に「成長すること」の価値の相対化を帰結する<近代の物語>の失効を読み取ることは、それほど困難なことではないであろう・・・とはいえ、「より積極的なネオテニー化の受容」としての「大人に変身せずにかわいくなる魔法少女」に「力ある者の暴力的支配の否定」と「エコロジーと共鳴する部分」を見出すのは、いささか読み込みすぎだと思うが(笑)(沙月樹京「小さき者たちへの賛歌--アニメ等にみる胸ぺた萌えの心理学」)。
#お前が言うな、という批判は甘んじて受けます(笑

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里芋で呑むのに早すぎればそばでビールを(光は東方より・15)

Patchouli
・・・こんな風に年齢を重ねて行きたいものですね、ということで、種村季弘のエッセイ「小京都」(『徘徊老人の夏』所収・・・以下種村さんのテクストはすべて同書から)から(北陸のさるJR支線の奥にある町のエピソードとのこと)。種村さんの描く酒の風景は実に旨そうで、発作的に飲みに行きたくなってしまいます。「夕方六時きっかりに鴉がカアと鳴く。するとそれまで我慢していた缶ビールの口をペラリと開ける。またカアの一声で最初の一口をぐっと飲る」(「鴉男」)・・・銘柄とかにあまりこだわらないのも種村さんらしいなあ、と思います。ああビール飲みたい。
#絵柄のパチュリーは実は内容にはほとんど関係がありませんが、まあこれは仕様ということでひとつ。

私の読書経験の土台は基本的にはホラーによって構成されているが、それを具体的に構築するに当たって多くを負っているのは、創元推理文庫の『怪奇小説傑作集』、河出文庫・白水ブックスの国別の『怪談集』『幻想小説傑作集』などの、高校~大学時代に触れたアンソロジーであったように思う。そして、その訳者・編者としての印象が大きいからか、私にとっては、澁澤龍彦はフランスの、種村季弘はドイツの幻想への扉を開いてくれる導き手としてまず立ち現れた。その後、やはり河出文庫に収められていたそれぞれのエッセイに耽溺する、というのは、少なくとも私の世代においては典型的な「アウトサイダー型」の読書の遍歴であろう。むろん、今はそれぞれ全集に収められているものだが、通学の時に片手で持ちながら読んだ経験からか、やはり河出文庫に私は愛着がある。
#もっとも、澁澤龍彦による文庫でもっとも印象深いのは中公文庫の『少女コレクション序説』だが(笑
しかし、長じて少し周辺領域の学などをかじると、「フランスの異端」としての澁澤龍彦、「ドイツの異端」としての種村季弘、という布置には、一定の違和感が生じるようにもなってきた。これは具体的には、澁澤龍彦の文章のイメージが、私の「フランス学」のイメージとずれる、というところに発する違和感のようである・・・おそらく、言語の問題からのイメージなのだと思うが、フランス的なもの、とは、私にとって、ポワン・ヴィルギュでだらだらと(というのがいささか問題であれば)、自由に連結していく営為であり、澁澤龍彦の訳業や著作は、この意味における自由さとはかなり異なる位相にあるように思われるのである。
印象深いのは、それぞれが晩年に遺した文章のコントラストである。澁澤も種村も、それぞれ大病を患ったこともあってか、その生涯の終わり近くに生産されたテクストは、ある意味「丸く」なっているところがあるが、澁澤がそれでも「もともと私は身辺雑記を書くことを好まない」と述べる時の「身辺」とは、実際には「人間関係のごたごた」であり、「書くべきテーマ」はこれではない、と厳格に区分を行う(「随筆家失格」(『都心ノ病院ニテ幻覚ヲ見タルコト』所収・・・以下澁澤のテクストは全て同書から))。この区分には、ファンタジックなものを書くときの「構え」のようなものが直裁に反映されているように思われるが、この「構え」は、種村がその「徘徊」をごくやわらかく描きながら、そこにファンタジックなものを見出そうとしているのと、かなり異なるように私には感じられる。
#勿論、自らを襲った大病について、澁澤が「自殺の中でもっとも安易な手段というべき、あの首吊り自殺が私には永久に不可能になってしまった」のが「なにより私にとって残念でたまらない」と述べ(「穴ノアル肉体ノコト」)、種村が「自宅から泉鏡花取材のために金沢に旅に出たまま観念的にはそのまま南イタリアやイスラームの聖地メッカにまで足を伸ばして、なかなか家に帰ろうとしない」自分を「このまま行ったっきり、も悪くないな」と述べるあたり(「徘徊老人その後」)、さすがに、というところがある。
ところで興味深いのは、そのような「構え」を見せる澁澤においても、このような記述が時折見られるところであろうか。すなわち、『聊斎志異』の紹介を交え、そのエピソードを踏まえる形で澁澤は、「もし私のところにもお化けがたずねてきたら、私は躊躇せずに冷や酒でお化けを歓待してやろうと思っている」と述べた上で、「いや、まず最初は缶ビールにするかな」と書き添えるのである(「ホラーの夏 お化けの夏」)。やはり夏はビールが美味いということについて、恐らく澁澤も異論がなかったらしいことを窺わせる、微笑ましい一節である。

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確かに略せば「もえたん」ですが(せっかくだから有効活用・4)

Kirara_1
※おことわり※
このブログには、以下の作品のネタバレが若干含まれています。未読の方は読んでからどうぞ。
竹本健治『キララ、探偵す。』
コナン・ドイル「銀星号事件」
G・K・チェスタトン「見えない男」

最近は「萌える探偵小説」なるジャンルがあるようなので・・・そんなこと言うなら、「萌えるタンガニーカ湖」だって「萌える担保物権」だって「萌える胆大小心録」だって「萌える単側波帯通信」だって「もえたん」ですが(←以上、広辞苑を座右においての戯言(笑))。一体何が起こってしまったのかと思いながら手にとってしまった『キララ、探偵す』のヒロインのキララを「二人のポーズ」から。
竹本健治なんだからきっと何かやってくれるかな、と思いながら読んだのですが、特に何事もおこらなかったので拍子抜けでした(キララが不審者を取り押さえるときの描写に使われた「ストラングル・ホールドに似ているが違う」という、一般人にはさっぱり伝わらない比喩が可笑しかったくらい)。『ウロボロスの純正音律』を買えってことでしょうか。
#ベタな帯のセンスはちょっと可笑しいのですけど(笑)。しかし本当に「史上初の美少女メイドミステリー」なんですかね?『女王陛下のメイド探偵ジェイン』シリーズは・・・あ、「美少女」じゃないってコトか(笑
##どうでも良いですが、氏はロボット三原則を組み替えて「ロボットは法を守らなければならない」というところから説き起こし、この中に「ロボットは所有者の財産なので、それを損壊する行為はこれに反する」ため、この中にアシモフ版三原則第3条が含まれる、と述べていますが・・・所有権の全面性を念頭に置いた議論なんでしょうけど、法律学の立場からはちょっと・・・(笑

有名な「ヴァン・ダインの二十則」には、犯人が「端役の使用人等」であるのは安易なので避けよ、との一項がある。このことは、20世紀初頭の物語作法では、そもそもメイドが「端役」以上の存在として描かれることはむしろ希であった、ということを示すと同時に、少なくとも都市において働くメイドには、使用者側の人間からは「透明」でなければならないという特性があったことを反映していよう。
以前かえんじゅさまのところの同人誌に寄稿した雑文でも述べたことがあるが、この「透明」さは重層性を帯びているように思われる・・・まず第一に、メイドは物理的に、使用人の目に付かないように行動するという空間的・時間的な制約を課されている。例えば、家女中は使用者側の家族が起き出す前に朝の洗顔用の水や暖房用の石炭を準備しなければならなかったことや、バックヤードに専用の通路があったりすることなどがこのレベルの問題である。これらの点は、「フェア」なミステリにおいて重視されるアリバイや「隠し通路」などの厳密さには反する要素になり得るだろう。
しかし、ミステリにおいてより重要なのは、心理的な「透明」さである。同時代的な文献においてはしばしば、「召使は人間であって荷役馬ではない」ことが強調されたというが(Alan Ereira, The People's England, Routledge & kegan Paul, London, 1981, p.55)、このことは単にメイドの労働条件の劣悪さを示すだけではなく、そもそもメイドが「人間」扱いされていなかった、ということを示してもいるだろう。
#この比喩に従うと、メイドが犯人のミステリは「銀星号事件」並みの意外さ、ということになる(笑
その後家電製品に代替される「家政」の構成要素としてのみ認識されていたのであるとすれば、メイドは、例えばある部屋に「出入りした人間は誰もいなかった」という限定をいともやすやすと免れることが出来る・・・何故なら、彼女らはそもそも「人間」ではないのだから。このような「透明」さについてよく引き合いに出されるチェスタトンの「見えない男」よりも、構造的にはその「透明」さはより高いようにも思われる。
無論、現在「ヴァン・ダインの二十則」に則るようなクラシカルなミステリが書かれることはほとんど考えられないが、それでも、かつてメイドが備えていたであろう「透明」さから考えると、探偵役に廻るのはいささか反則気味ではある・・・もっとも、キララは作中でさっぱりメイドらしいことをしないので、「僕たちにはメイドが必要だ。」という帯が想定する「メイド」とは何なのか、その前提自体がもう違うのかもしれないが。

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色指定違ってたらすみません

Tamamo
※おことわり※
このブログには、西尾維新<戯言シリーズ>及び麻耶雄嵩 『夏と冬の奏鳴曲』のネタバレが若干含まれています。未読の方は読んでからどうぞ。

いやあ、さすがにスクールカレンダーまでは買わなかったので、ストッキングの色がわかりませんでした…だったらカラーで描かれているキャラを選べば良いようなものですが、<策師>萩原子荻を描いてしまうとなんだか負けという気がしたので(笑)、ここは敢えて「全身突っ込み待ち少女」西条玉藻をチョイス(私が描くと全然<狂戦士>っぽくないのですが)。しかし『零崎軋識の人間ノック』、まあなんというか・・・作者自身も「打ち上げお祭り二次会」って言ってるから、これで良いのかもしれませんが。
#『西尾維新クロニクル』や『ザレゴトディクショナル』を見ると、<戯言シリーズ>は崩子ちゃんのせいで総崩れになる可能性もあったのですな。空恐ろしい話です(自分もかつてネタにしたのでヒトのことは言えませんが)。

先のコミティアで、以前hirさまが日記にて言及していた、<オタキング>岡田斗司夫の講演『オタク・イズ・デッド』が売っていたので、購入して目を通してみた(関係ないが、店番の方がこちらが恐縮するくらい丁寧だった)。内容は(一部ネットで知ってはいたが)題名から想起されるような過激なものではなく、時代の先行者からの次世代への噛み砕いた形での問題提起、といったもので、私はさほど違和感は感じなかった。ただ、岡田がかつての「オタク」に備わっていたスキルとして提示する「自分の好きなことは自分で決める能力」「自分の中に折り合いをつける能力」と、岡田が正確に指摘する「萌え」の「メタ的な視点」は、さほど矛盾しないようにも思われる・・・岡田の「オタク評論」の限界についての言及に私が感じる違和感も、おそらくこのあたりから来るのだろう。多くの「オタク評論」が、モダニティについての議論(特に端的にはギデンズの「再帰的近代」)を踏まえていることからすると、その焦点が「萌え」に向けられることはいわば必然であるように私には見える。
ここで興味深いのは、2002年刊行の『クビシメロマンチスト』について、作者の西尾維新が、葵井巫女子は「萌えキャラであること」がストーリー上の要請(ミスディレクション)という「小賢しい計算」があった旨『ザレゴトディレクショナル』で述べている点である。この手法についてはおそらく、麻耶雄嵩の 『夏と冬の奏鳴曲』が先行するものだと思うが(舞奈桐璃の造形はミスディレクションではないけれど「アンチ」ミステリにするための必然の仕掛けである)、このとき(講談社ノベルス版、1993年)はまだ「萌え」という概念は出来上がっていなかったのだろう。
しかし一方で西尾は<戯言シリーズ>において(「とりあえずライトノベルと呼ばれる作品」に共通の体験として)、作品を創る際にイラストが頭の中にあるかどうかの違いという点から、『クビツリハイスクール』以降はテンションが違う、とも述べている。仮に、グラフィカルな記号こそが線形的な思考を超える記号として端的なものであるとするならば、竹の手によるイラスト以前に造形された「萌えキャラ」である葵井巫女子の位置は、いわば宙吊り状態に置かれてしまう・・・自己言及的な性質を持つことについては恐らく争いがないであろう「萌え」の概念を考える際に、西尾の中にあるこのブレは、興味深い素材となるのかもしれない。

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「耐えがたきを耐え、忍びがたくさん忍び!」(ラノベ時空にひきずりこめ・1)

Taiga_1
乗りかかった船、といいますかなんといいますか、勢いでふたたび幽々子さま・・・じゃなくて竹宮ゆゆこ『とらドラ! 1・2』を買ってみました。標題のネタがちょっと時期を外してしまったのが残念ですが、「勤労怪奇ファイル」と「蘇る勤労」を同列でネタにするのはいかがなものかと(←お前が言うな、という感じですが(笑))。
#個人的には「手乗りタイガー」こと逢坂大河みたいな造形は・・・まあ嫌いではありませんが(笑
##「実測143.5センチ」がやはり大きいか(何が(笑)。

ラノベ(ライトノベル)というジャンルは、最近かなり一般化しつつあるとはいうものの、それでも私にはまだかなり縁遠い領域に属している。既往の読書遍歴にはおそらく類似のものがあるはずなのだが、『とらドラ!』を読んで痛切に感じたのは、どうやらラノベを読む際には私はそれ相応のモードに入る必要がありそうだ、ということである。そこでそれを仮に「ラノベ時空」と名付け、目に付くものを分析してみようと思い立った次第。
上述の、ラノベに類似する既存のジャンルとしてすぐに想起されるのは、10年ほど前に一連の「ライトファンタジー」を出していた一連のレーベルであるが、今のラノベについては、これらとは現象面においてかなり違った展開が散見される。その一つが、ラノベ原作のアニメが作られるのに加え、これを原作としたコミックスも作られる、という事態である。「ライトファンタジー」は挿絵のウェイトが高い点でラノベと共通するが、それにしても、活字-コミックス-アニメの三者の関係の流動性は、ますます高まっているようである。
#個人的には、いくら挿絵の影響力が大きいとはいえ、活字とコミックスでは情報量に格段の違いがあるようにも思うが。
それからもう一つ、竹宮ゆゆこの前作『わたしたちの田村くん』の読後とはやや位相の異なる感想を抱いた(ちなみにこれもコミック化される由)。『とらドラ!』の1巻では、前作と同じように、あとがきで「バトル分やセカイ分や燃え〔ママ〕分が見当たらない気がするのですが?」「仕様です」と断られており、本作がラノベとしては異色作であるとの自意識が表明されている。しかし、作者のこのような自認にも関わらず、私はむしろ、ラノベの本質的な部分は本作でも十二分に維持されているのではないか、という認識を強くした。「セカイ系」と分類される作品に典型的に見られるように、かつて「ライトファンタジー」では(まがりなりにも「ファンタジー」を標榜する以上は)<物語>の根幹の一部を成していた「非日常性」の介在が、ラノベでは単なるガジェットとして機能するに過ぎなくなってしまっており、(言い方はよくないかもしれないが)極めて近視眼的な人間関係に回収される傾向があるようである(例えて言えば、「セカイの運命を背負っていることによる重圧」と、「複雑な家族関係のため性格が捻じ曲がった」ことが、「ツンデレ」というヒロインの属性として等価に扱われるような感じだろうか(笑)。とするならば、「バトル分」でも「セカイ分」でもなく、この「近視眼的な人間関係」こそが、実はラノベの本質なのではないか、とも思われたのである。
#あ、この項続きます・・・。

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マスカット農家系頭脳明晰属性ってどんなだ

Ayako
タイトルの惹句は岡山娘の千津留ちゃんのものですが・・・もうネタとしてしかとりあげようがない(内容はほぼ読むに耐えないので・・・)『萌える都道府県 もえけん』から、昔住んでいたというだけの理由で「お茶摘み系しっかり者属性」の静岡娘、綾子さんです。「お茶の産地」をやたらと強調した説明が付されているのですが、「内面的傾向」として「東部はどちらかというとのんびり型が多く、西部ではてきぱきと動く女性が多く見られる」と、ひょっとすると統計調査かなにかに基づいたのかもしれない記述も見られます。
#どのみち、茶摘みの風景が見られるのは主として中部なのですけどね・・・。
##あ、でも「ちゃっきり節」は口ずさめるな。なんとなく。

TVKの朝のローテンション音楽情報番組(私は夜の再放送を見ているのだが)「sakusaku」のパーソナリティが、この3月で木村カエラから中村優へどバトンタッチした。木村カエラのすさまじい天然振りに比すと、新キャラの中村優は利発で知識量も多く(ガンダムは見ていないらしいが・・・18歳だから当然か)、これから番組がどのような方向に向かっていくのか注視しているところである。
ところでこの「sakusaku」は、どういう理由かわからないがやたらと地方ネタが多く、視聴者からのリクエストや製作スタッフの一方的な思い入れなどで地方都市の歌を作ったり(神奈川ローカルなので神奈川県内が多い・・・山北市なんて「ドラクエ2で言えばダーマの神殿~」とか歌われてた(笑))、ゲストやスタッフの出身地について延々としゃべりつづけたりすることがあるのだが、新パーソナリティの中村優は奈良県奈良市出身だということで、さしあたっては鹿と大仏についての対話が交わされていた。『もえけん』もそうだが、対話の土壌としては、やはり県外からイメージ化しやすいものが選ばれるのだな、と思いながら見ていたのだが、「高校生のときの遊び場は?」という質問に、中村優はやや口ごもったあとに「・・・ジャスコ?」と応えていたのが極めて印象深かった。
三浦展『ファスト風土化する日本 郊外化とその病理』では、ジャスコなどの大型ショッピングセンターが地方の独自色を薄め、ローカルな共同体を崩壊させる要因として挙げられている。「地方」について語る際に、一方では鹿や大仏のように、実際にはそこに住む人にとって必ずしも身近ではない事物を象徴として掲げ、一方では日本全国どこにでもあるジャスコやイオンやヨークベニマル(北温泉に行ったときお世話になりました)で日常を過ごす、という、存在の位相のズレのようなものが生じていることを、はからずも「sakusaku」は示してくれたことになる。この位相のズレは、三浦氏にいうように、均質な社会の広がりによる『下流社会』への沈殿、というシナリオを辿るのだろうか?・・・この点で、『もえけん』のプロジェクトの一端に、この均質化とローカリズムを兼ね備えた奇妙なシステムであるmixiが関わっている、というのは興味深い事実であるようにも思われる。

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もはやスズダル中佐はマイヤー様でしかイメージできなくなってしまった

djanne
※おことわり※
このブログには、グレッグ・イーガン『宇宙消失』及び『万物理論』のネタバレが若干含まれています。もし未読の方は読んでからどうぞ・・・例によってほとんど関係ないですけどね(笑
いやその・・・『ねこめ~わく』と<人類補完機構>を両方読んでいないとわからんネタなのですが、火焔樹さまに指摘されて初めて、この二人境遇がそっくりだ、ということに気付いてしまったのです(笑。竹本泉のことだから、ひょっとすると『ねこめ~わく』自体に(直接的でないにせよ)<人類補完機構>の見えざる影響があるのかもしれませんね。
とかなんとか書いておきながら、一応干支なので、全国3000万人の<人類補完機構>ファンが年賀状に描いているに違いない(多分)<殉教者>ド・ジョーンを描いてみました。本当は成長後ヴァージョンにしたかったのですが、服装の描写がなかったので・・・しかし、成長前の彼女、「明るい青のスモック」を着た「年は五つくらい」って描写、なんかこう、いろいろマズくないすか(笑
『ディアスポラ』の評判が良いらしいので、前々から読もう読もうと思いながら未読のままでいたイーガンの作品をつい最近になって読み始めた。一応順序に従って『宇宙消失』→『万物理論』と読み進んだが、少なくともこの二冊は、前評判にたがわず極めて面白く読んだ。私は全くの文系人間で素人なのだが、素人ながらに量子論については前々から若干興味を持ってはいるので、よくよく考えるといろいろ疑問ではあるのだが、いっそこれくらい大風呂敷を広げてもらうと読後感は極めて爽快である。
#個人的には、人間がニュートン的/ユークリッド的宇宙にしかリアリティを感じられないことには、多分それなりの理由があるのだとは思うけど(笑
ところで、イーガンの作品には「人間の改変」というモチーフが(様々なレベルで)出てくるのだが、その改変・解体・変容のありかたがきわめてSF的でかつドラスティックであるにも関わらず、そこには、同じような解体モチーフを道具立てとして持つ<人類補完機構>シリーズに見られるような、「人間」に対するある種冷徹な距離感があまり感じられないように思うのは私だけであろうか。イーガンの作品では、肉体のみならず、記憶や感情すらも操作可能である場合が多いが、このことは逆説的に、人間の肉体や記憶や感情は操作するに値する、という「価値」を含みこんでいるのではないか、とも思える。『万物理論』でしばしば登場するジェンダーの議論と同じく、議論すること自体が既にバイアスの中にいることを証明する、といったような意味での、「人間」という存在の「メタ価値」の匂いを、どうしても私は嗅ぎ取ってしまうのかもしれない。
#書いてきてふと思ったのだが、『宇宙消失』も『万物理論』も、ドラマを駆動する主人公が「ドラマを駆動する」ことを当然の前提としている立場にあるのは偶然なのだろうか?クトゥルフTRPGの経験者なら誰しもが賛同してくれると思うのだが、「元刑事」とか「ジャーナリスト」とかがパーティーの中に一人くらいいないと、大抵話が進まないのである(笑

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電波うさぎは永久凍土の夢をみるか

komaki
※おことわり※
このブログには、竹宮ゆゆこ『わたしたちの田村くん 1・2』のネタバレが多少含まれています(例によって本筋とはほぼ無関係ですが・・・というかミステリじゃないんだからネタバレしてもいいのかな?)。
私は、旅行とか出張に行く際に移動手段の中で読む本をあらかじめ仕込んでおくのですが(旅の醍醐味とかそういうのと遠い感性で生きているので(笑))、数ヶ月前「たまにはライトノベルでも読もうかな」と、本屋のそれっぽい書架のところまで行った際に購入したのが『私たちの田村くん』でした。ちなみに購入理由は「作者のペンネームが『ゆゆこ』だったから」です・・・こんな理由で本選んだの初めてですが(笑)。でまあ、この前まんがの森に行ったら続きが出ていたので、乗りかかった船、ということでこれも読んでみました。なんつーか、30過ぎたおっさんが読むにはいろいろとキツいものがありますな・・・みんなまっすぐでいいやね(謎笑)。
昨今<ライトノベル>は一つのジャンルとして確立している感があるが、果たしてその購買層はどれくらいの厚みがあるのだろうか、と疑問に思うことがしばしばある。かつて「ジュブナイル」と呼ばれたり、「ヤングアダルト」と呼ばれたりしていたものが今の<ライトノベル>にあたるのか、というと、おそらく微妙にズレが生じるようにも思う。今回読んでみた『わたしたちの田村くん』は、作者があとがきで書いているように「剣も魔法もお姫様も超能力もスタンドも、一切出てこない地味な話」、逆に言えば純粋な「ラブコメ」の道具立てに回収され得る作品なのだが、わざわざ「進路調査票に『故郷の星に帰る』と書き続ける不思議少女系」の松澤小巻をヒロインの一人に仕立てることで、スーパーナチュラルな要素を取り込む余地を敢えて作っているようにも見える。
#もう一人のヒロイン「クールなツンドラ系」の相馬広果のエピソードにはその余地はほぼ無いが、こちらはこちらで明確に流行りモノを狙っているところがあるような。
仮に、松澤小巻のようなヒロイン造形が多く<ライトノベル>において見られるのであれば(多くは語らないが、類似の設定は良く見られる)、それは、現在の若者(が仮に読者層なのだとして)が惹かれるドラマトゥルギーとしての恋愛が、従来の「ラブコメ」の道具立てにおいては回収しきれないような、「非日常」を導入しないと語り得ない次元へと異化してしまっていることの象徴なのかもしれない、などとふと考えたりもする。それほどペシミスティックになる必要はないのかもしれないけれども。


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これからはわんこちゃんとお呼びください

houko
※おことわり※
この記事には、西尾維新『ネコソギラジカル 上・中』のネタバレが多少含まれています(メインストーリーにはまったく関係ありませんが(笑))。未読の方は読んでからどうぞ。
いよいよ最終章に突入した<戯言シリーズ>、何が驚いたって、前作『ヒトクイマジカル』の段階で、次は確実に殺されるに違いないキャラ筆頭だった闇口崩子が生き残っているというこの事実(ちなみに、次点は看護婦のらぶみさんだったんだけど、このヒトは「登場人物紹介」にも上がってこないからそもそも数に入っていないのかも)。それでも、中巻であのヒトがあっさり殺されたのは多少驚きました・・・もう少し、なんというか、登場させたキャラクターを文字通り生かすやり方もあっただろうに、とは思うのだけど、姫ちゃん(紫木一姫)の殺され方の、いわば演出としての意味合いからすれば、その延長線上にある手法として止むを得ないのかなとも思います。
#しかし、生き残ったはいいけど、崩子ちゃんはどんどんヘンなキャラになってしまってますが(笑)。絶対狙ってやってるだけに、つい笑ってしまう自分がちと悔しい。
先日、実家に帰って床屋に行った際、待ち時間に地方紙をぱらぱら見ていたら、どういうわけか『ネコソギラジカル中 赤き制裁vs橙なる種』の書評が掲載されていた。基本的には「良く判らないけど売れているらしい」という紹介のスタンスで、「価値観が多様化した現在だからこそ、こういったとらえどころのない物語が支持されているのではないか」という、判ったような判らないような説明が付されていた。『ユリイカ』の特集ともなる位だから、ある程度その内容について語る前提が確立されているのだろう、と勝手に思っていた西尾維新の作品に、こういった素朴な突き放しのスタンスが示されていたことに、なんだか新鮮な驚きの念を抱いたのだが、これは、「都市」と「地方」の差異が、大正期以降のインフラの整備の進展にも関わらず、思ったほどは埋まっていない、ということの反映なのかもしれない。地方に転勤になった友人が、テレビ東京系列の番組が放映されない地域を「外国」と呼称することにも、それなりの理由はあるのだな、と妙に納得してしまったのである(笑)。
#ちなみに私の実家ではテレビ東京は映りません・・・ケーブルテレビを引いていたので私には関係ありませんでしたが(笑)。

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ブルマーと吸血鬼

bloomergirls1
こういうキャッチー(死語)なタイトルは大抵西川魯介が出典です・・・アヤしげな記憶に頼りつつ、これは『エルマーのぼうけん』シリーズのうちの一冊かなあ、と漠然と思っていたのですが(このシリーズでは『エルマーとりゅう』が印象に残ってます。なんかドラゴンが横縞でやたらポップだった(笑))、今ぐぐってみたらそんな巻はありませんでした(笑)。元ネタ何だろ?
先日、本屋の社会学のあたりをぶらぶらしていたら、高橋一郎他『ブルマーの社会史 女子体育へのまなざし』(青弓社)なる本を見つけたので、購入してざっと目を通してみた。基本的にはフェミニズム論・ジェンダー論の視点から、およそ100年に亘る近代日本のブルマーの歴史を多角的に分析するものだが、この手のテーマの本がいたずらに攻撃的な論調になりやすいのにも関わらず、序文でこのタイトルに対する「いかがわしく気恥ずかしい」という自認の弁があったのが好印象であった。内容も比較的価値中立的で、教えられるところが多かったが、興味深かったのは、大正期にブルマーが帯びることになった「脱女性性」のベクトルが、当時の女学生向けの雑誌において、「運動選手への同性愛的まなざし」へと連続していくという文脈である。確かに、ジェンダー論の前提である<近代>の担い手としての男性に特権的に認められていた「運動」の価値(おそらくヘーゲル的な「労働」概念のパラフレーズであろう)が、ブルマーを通じて女性に付与されることにより、そこには擬似的にヘテロセクシュアルな関係が構築される可能性が現出する。しかし、かつてこのブログでも取り上げた「エス」の系譜は、そもそもがヘテロセクシュアルな関係性のみを前提しない、あるいはむしろそれを嫌忌さえする概念ではなかったか?
#ちなみにイラストは、『女学雑誌』第24巻第11号(1924年)に掲載された「庭球選手とのローマンス閃く応援旗の波」と題する読者からの投稿小説の挿絵をそれっぽくアレンジしました(さすがに原典にあたる労力を使う気にはなれなかったので、元絵がカラーかどうかもわかりません・・・昔の職場だったらわりと気軽に確認できたのですが(泣))。
ところで、仕事に使う本は職場に持って行ってしまうため、今私の自宅の本棚のラインナップは、コミックス以外はなんだか妙なものばかりになってしまっている。試みに並べてみれば、『夜想 特集<ゴス>』、ブラム・ダイクストラ『倒錯の偶像』、堀田純司『萌え萌えジャパン』、ササキバラ・ゴウ『<美少女>の現代史』、『Call of Cthulhu』ルールブック(何故(笑))、そしてアレクサンドル・コジェーヴ『ヘーゲル読解入門』(←これは借り物ですが)。少なくとも一つ言えるのは、突然誰かに踏み込まれるような状況にだけは陥らないようにしよう、と強く自戒すべきだ、ということであろうか(笑)。

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