ゲーム

メタゲームという「ゲーム」の果てに

Netopoyochan_6
最近ネット界隈で話題の電子書籍『ねとぽよ』の第2号を文学フリマで買って来ました。第1号もめっぽう面白かったのですが、2号もなかなか興味深い内容で、かつ、その試み自体も非常に興味深かったので、多少思ったことなどを書き連ねてみます…エントリを書くこと自体が自己目的化している気もしますが、まあそこはそれ。

※おことわり※
この記事には、以下の作品についての(致命的ではありませんが)ネタバレが若干含まれます。未読/未プレイの方はその旨ご了解ください。
『ひぐらしのなく頃に』『ひぐらしのなく頃に解』
『うみねこのなく頃に』『うみねこのなく頃に散』

『ねとぽよ』第2号は実に様々な内容を含むが、その多様なコンテンツを一括りにするキーワードは、明示されているようにやはり「ARG(Alternative Reality Game)」であろう…その語がシンボリックに示すように、このキーワードに導かれたそれぞれの記事は「ゲーム」と「リアル」の「代替可能性」についての思考に、読者を否応無しに巻き込んでいく力を持っている。しかし、私にとって印象深かったのは、本書の冒頭のARGに関する理論と実践についての記事と、本書の末尾の大塚英志へのインタヴューとの間に見られる(ように思われる)これらの語の用法の位相の差異であった。
大塚が適切に答えているように、「ゲーム」と「リアル」に関する理論は80年代においておおよそ構築されているのであれば、上述の位相の差異は「ただインターネットだけがなかった」ことに起因して生じたと理解することが出来るだろう…このことに関連して興味深いのは、『多重人格探偵サイコ』において大塚自身が仕掛けたような「虚実の曖昧さを前提と」した、すなわち「プロレス」的な「ゲーム」によるフィクションへの「リアル」の導入の仕掛けの現代日本社会における効果についての懐疑的な視線と、その要因として言及される「「虚」と「実」の境界線」への「インタビュアー」、すなわち「ねっとぽよく」たちの「執着」である。
補助線として参照するべきは、『リアルのゆくえ』において大塚が隠そうとしない東浩紀への「苛立ち」であろう。「世代論にしていいのかは分からないけれど」と慎重な留保をつけつつ「メタ的な場所」を「当事者にならない自由な場所」として消極的に解する大塚にとっては、(少なくとも当該対談当時の)「メタ物語的な読者/プレイヤーをいかにして物語のなかに引きこむか」という構造に関心を向ける東のスタンスは「居直り」に映らざるをえないことになるのだろう。しかし、物語の構造分析を踏まえてその「動員力」への注意を喚起する大塚と(『物語消滅論』)、ゼロ年代のメタリアルフィクションの典型である『ひぐらしのなく頃に』の「物語のご都合主義とはまったく別の水準」での「非現実的・多幸的」な部分を指摘する東の懸隔は(『ゲーム的リアリズムの誕生』)、少なくとも、フィクションにビルトインされた「ゲーム的」な仕掛けについての関心を共有し、「ゲーム」と「リアル」の関係を分析するという局面においては、それほど大きくはないように見える…大塚と東の距離は、ある意味歴史的な問題であり、構造的な問題ではないように私には思われるのである。
むしろ、この点(「「虚」と「実」の境界線」)における構造的な差異は、東とその次の世代の思想家たちの間にこそ顕著に現れているように見える。例えば、東が「メタリアル・フィクション」として取り上げた『ひぐらしのなく頃に』と、その次に展開された作品である『うみねこのなく頃に』の間には、作者自身が図らずも語っているように、前者は「読み物」、後者は「純粋に読者との「バトル」」という構造的な差異が存在する。そうであるならば、後者における「リアル」の仕掛け、すなわち「ゲーム」は、前者のように作品の中にビルトインされておらず、作品の外に拡散される形で配置されていることになるだろう…村上裕一が適切に指摘するように、「正解」が(メタリアル・フィクションとしてすらも)存在しない『うみねこ』は、もはや「ゴースト」的な想像力によってリアルが補填されるようなメディアなのである(『ゴーストの条件』)。この想像力は、宇野常寛が分析するような、メタリアルな「ゲーム」のルールが自足せずに無限に追加されていく「カードゲーム型」の想像力、<現実>をタグづけすることで「リアル」を補填する「拡張現実」としての想像力と近接している(『リトル・ピープルの時代』)。そして言うまでもなくこの転換は、80年代の大塚に欠けていたインターネット環境によって転轍されたものである(濱野智史『アーキテクチャの生態系』)。
私は、敢えて「戦後啓蒙」を語り直そうとするような理念としての「実」、あるいは、全てが「ゲーム」の果てである以上は全てを「ガチ」として捉えるという現状認識としての「実」のどちらからも距離を取り、限界を引き受けつつもメタゲームの「空虚さ」に立ち向かっていた東の姿勢に一定の共感を抱く…この問題を世代論で語るのは容易いが(私は東とほぼ同世代である)、そのような「外部」を設定するかどうかはある意味倫理的な問題なのかもしれない。

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訳者名が本当にペンネームなのか気になるところです

Sayori
「作者不詳」はまあともかくとして訳者「行方未知」ですから、ペンネームじゃなかったらえらいことですが、ありそうなだけに怖いところです・・・というネタは、ヴィクトリアンポルノの名作?『閉ざされた部屋』の話です。金子國義のカヴァーの方が有名かも知れませんが、これ原題「Man with a Maid」と大変身も蓋もないタイトルなのです。イラストには、1996年の<殻鳥インパクト>(←今適当に思いついた言葉ですw)以前の美少女ゲーム業界におけるメイドさんの立ち位置をある意味非常にシンボリックな形で代表していると思われる、1993年の『禁断の血族』(シーズウェア)に登場するメイドのさよりさんを描いてみました・・・この頃はまだ、ヘッドドレスはメイドさんの記号として確立していなかったようですね(1989年の『ランス』(アリスソフト)や1991年の『スイートエモーション』(ディスカバリー)では後に「ホワイトブリム」と呼ばれるようになるものを付けているようですが、同じアリスソフトの『D.P.S.sg set.2』(1991年)に登場する「小間使い」のテスはヘッドドレスをつけていません)。

久我真樹さんが同人誌において長年にわたって蓄積された仕事が、先般『英国メイドの世界』(講談社)として上梓された。その意義については今更私のようなものが改めて述べるまでもないであろうし、その充実した内容についてもやはり、今後必ず読み継がれるであろう記念碑的な業績であることだけを記しておけば足りるであろう(なので、もし仮に、この文章を目にしていながらまだ落掌していないという御仁は、今すぐに書店に走るべきである)。そこで、その内容に関する評釈や史資料の取り扱いについての言及は専門家に委ねることとし、ここではもっぱら私的な回顧の形で、同書のコンテクストの一部と理解され得る、前世紀末の所謂「美少女ゲーム」におけるメイドの表象について散漫に触れて見ることとしたい。
東浩紀の『動物化するポストモダン』をはじめ、多くの先行業績が現代日本のオタク文化におけるメイドの表象の起源として掲げている『黒猫館』は1986年に作られたOVAであるが、同作は1993年にゲーム化もされている(フェアリーダスト)。ゲーム版『黒猫館』が発売されたのと同じ年には、上述の『禁断の血族』及び『河原崎家の一族』(シルキーズ)、翌94年には『アラベスク』(フェアリーテール)も発売されており、草創期の「美少女ゲーム」におけるメイドの表象はほぼ固定されたように思われる。すなわち、これらの所謂「館物」の作品で描かれるのは、いずれも、古い洋館を舞台にした退廃的な物語であり、そのデカダンスを表象するイコンとしてメイドというキャラクター類型が用いられていたとまとめることが許されよう。そして、そのデカダンスの参照先の一つとしてヴィクトリアンポルノが選ばれたことには、この時代が「生-政治」によってセクシュアリティのコードが解離を見せていたということとあわせて(フーコー『知への意志』)、その解離と反復の故に、同時代のポルノグラフィが反文学性を色濃く刻印されたからであるとの理解も可能かもしれない(「『我が秘密の生涯』のような作品を取り上げ、そこから性的ファンタジーという上部構造を剥ぎ取ってしまうなら、その下にじかに、無意味な空虚が、つまり、人生が無の上に基礎づけられ、それを支えるものなど何もないという意味が見てとれるはずだ」(スティーヴン・マーカス『もう一つのヴィクトリア朝時代』))。
この「反文学性」はおそらく、日本社会においては、「実存」に対して懐疑のまなざしが向けられていた60~70年代からマージナルな想像力として引き継がれたものであるが、私にとってそれはなによりも(もっぱら河出文庫に収められた)澁澤龍彦や種村季弘に代表されるような想像力であった。高校生の時分から両氏のエッセイを読み漁り、かつ、その編による幻想・怪奇小説に耽溺していた私にとっては、1990年代初頭の「美少女ゲーム」の世界はそのようなものの延長線上にあった・・・そして、その中でもとりわけ実験的な『狂った果実』や『ドラキュラ伯爵』(いずれもフェアリーテール)などの作品にデカダンスの表象としてのメイドが登場することに関しては、私は特に違和感を覚えなかった。
#付言すれば、1980年代後半からミステリにおいて展開された「新本格ムーヴメント」への共感も、このデカダンスへの親和性から説明出来そうである・・・ネクスト・ディケイドの若人に対しても伝わるように述べるならば、例えばそれは、奇しくも同じ1986年を舞台とする『うみねこのなく頃に』の大時代な舞台設定とメタ的なナラティヴへの共感に近いものがあるのかもしれない。
逆に私は、その後の「メイドさん」シーンを塗り替えることになる『殻の中の小鳥』にはある種の違和感を覚えたように記憶している。今思い返すと、この違和感の一部は、90年代半ばになってデカダンスを標榜することの空虚さそのものにも拠っていたのであろうが(言うまでもなく、1996年は『エヴァンゲリオン』の年であり、日本社会に大きな「断層」が生じた年である)、近時、同作に携わったクリエイターの回顧を読む機会があり、上記の違和感について一定の解釈を得ることが出来た。すなわち、同作は「館物」への明瞭なアンチテーゼとして作られており、なおかつ、ヴィクトリア朝イメージが「ハリウッドが作ったイメージ」であることを自覚した上で、そのイメージを再構成して周到に利用しているというのである(「栄夢・新井和崎インタヴュー」『美少女ゲームクロニクル』)。つまり、「メイドさん」なるものの表象には、かつて私が耽溺したデカダンスや「反文学性」は最初から含まれて居なかったのである・・・その後の「メイドさん」現象に対する私のスタンスが、耽溺すべきものではなく、その表象の記号的戯れを観測する対象へと徐々にシフトすることとなったのも(先に引用した記事の前後に書き散らした一連の記事、とりわけ、「メイド論的転回」(笑)とでも呼称すべき暴論を展開して、墨東公安委員会さまから適切な批判を史学の立場から頂戴したこの記事などを参照されたい)、おそらくこのためであったのだろう。
ともあれ、上述のインダヴューの中で「当時、コスチュームの一つでしかなかったもので、本を開けばメイドの原点がイギリスかアメリカかってわかるんですけど、新井〔和崎〕が「メイドはイギリスのもんなんだよ」って定義したら世の中がそうなっちゃった」と述べられている状況の延長線上に2010年の今があるとしたら、『英国メイドの世界』はそのあり方を検証する格好の素材となるはずである。重ねて、一読を薦めたい。

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ジツは金蔵は中国人だったのデス!death!

Knox

※このブログには、『うみねこのなく頃に』『うみねこのなく頃に散』のほか、以下の諸作品についてのネタバレやそれに類する言及が含まれています。未プレイ/未読の方はご注意のほどを。
・竜騎士07『ひぐらしのなく頃に』『ひぐらしのなく頃に解』『ひぐらしのなく頃に礼』
・中井英夫『虚無への供物』
・竹本健治『匣の中の失楽』『ウロボロスの偽書』『ウロボロスの純正音律』
・綾辻行人『迷路館の殺人』『どんどん橋、落ちた』
・西尾維新『クビシメロマンチスト』

・・・どっかで使われてそうなネタですが、この時点でロジック・エラーになってしまうのでしょうか。というわけで、『うみねこのなく頃に散』から、ノックスを描いておきます。しかしまあ、プレイ時間をとられる「ゲーム」ですホントに(笑
#しかし、どうしても彼女らはフトモモを露出したいのでしょうか(それこそそういう戒律でもあるんでしょうかね)。
##個人的には「煉獄の七姉妹」が好きです。

※諸事情で本文が遅れました。申し訳ありません。

竜騎士07による『ひぐらしのなく頃に』の作品構造は、そのメタ性に現代のリアルを読み込もうとする議論を含めて結構面白かったのだが(東浩紀『メタリアルフィクションの誕生』)、おそらく意図的なものではあれ、あまりにオプティミスティクに描かれた結末にちょっと肩透かしをくらった感じがあったので(『ひぐらしのなく頃に礼』や、コミックス版に添えられる竜騎士07のコメントにも、同じようにオプティミスティクな人間観が看取される)、『うみねこのなく頃に』にはいま一つ食指を伸ばさないままにいた。しかし、先般、複数の知人から『うみねこ』を比較的高く評価する声が聞かれたので、五月の連休を使ってプレイしてみることにした。
ところで、事前に知ることの出来た情報の中でもっとも強く私の関心を引いたのは、『うみねこ』がある種のアンチ・ミステリを志向している、というものであった。私は以前、前作『ひぐらし』のプレイ途中で、その<謎>の本質が、本編と本編の間に挟まれる「お疲れ様会」による入れ子構造なのではないか、と推測したのだが、これは中井英夫の『虚無への供物』や竹本健治の『匣の中の失楽』といった、アンチ・ミステリの日本における代表作を踏まえてのもので、特筆するほどの独自性はない・・・ただ、作者とのインタヴューにおいて太田克史がシンボリックに語っているように、竜騎士07は「ノベルゲームの世界から純粋培養的に出てきた」作家であり(「竜騎士07ロングインタヴュー」(『ファウスト』vol.5))、これらの作品を直接参照系とせずに、にもかかわらず、結果としてこれらのアンチ・ミステリに近い作品を描いているのであればこれは面白い現象だな、と感じたのである。
もっとも、上述したように、『ひぐらし』は結果としてアンチ・ミステリ的な枠組みを志向した作品ではない(なお、プレイ後の雑感を過去に記した)。しかし興味深いことに、『うみねこ』はおそらく、これらの先行作品を踏まえたうえで、敢えてアンチ・ミステリ的道具立てを用いようとしているようである。すなわち、『ひぐらし』においては幕間として位置づけがあいまいであった各エピソード間の挿話(「お茶会」)を、明瞭にセカンド・オーダーとして位置づけた上、第2話からはゲーム中に直接、セカンド・オーダーの視点からの俯瞰を示す構造が導入され(ゲーム中では、チェスのプレイヤーとその駒という比喩で説明されている)、更に第4話からは、サード・オーダーとして、作中の事件発生年次から12年後の世界からの、記録/記憶を媒介とした観測が導入される(棋譜を読むプレイヤーの比喩があてはまるだろうか)。また、この階層構造を作中で明示する装置として、ゲーム中においてフォントの色を変えて示される「赤き真実」や「青き真実」どいう仕掛けが導入され、既存のミステリでは、地の文で描かれているかどうか、あるいは、そのテクストが入れ子構造になっているかどうかといった問題を「ゲーム的」に表示出来るようになっている。
#極めつけは、第5話からファースト・オーダーとセカンド・オーダーにまたがって登場する「探偵」が、「探偵権限」をファースト・オーダーにおいても駆使できるという仕掛けであろう・・・ちなみに、これを応用した第6話の仕掛けは、ちょっと西尾維新の『クビシメロマンチスト』を思わせる良質の出来である。
ここで私の関心を引いたのは、作品世界となる1986年と、第4話以降に導入される「12年後の世界」、すなわち、1998年という二つの年号である・・・第5話において明示的に言及があるように、1986年は島田荘司の「占星術殺人事件」が既に発表され、翌年に綾辻行人のデビューを控えた年であり、1998年はおそらく、「新本格」ミステリのムーヴメントを語り得るぎりぎりの下限と考えられることは、何らかの暗示的意味を持つように思われるのである(ちなみに、新本格ムーヴメントを支えた作家たちによる実名小説である竹本健治の『ウロボロスの純正音律』の舞台は1997年から1998年にかけてである)。第6話の最後の応答を見る限り、『うみねこ』の謎は、例えば綾辻行人の『どんどん橋、落ちた』に代表的に示されるような叙述トリックを用い、かつ、おそらく『ひぐらし』のようなヒューマニスティクな物語を紡ぐのではないかと予想されるが、前者の手法はおそらく、ゼロ年代には共有されないであろうからである。
#この点『ウロボロスの純正音律』は敢えて過去を舞台としたことで、現在には妥当性を欠く説明を導入したのではなかろうか。

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で、結局リグジオネータってなんでしたっけ

Yanyan_2
いや、『やんやんのクイズいっちょまえ』の答えの一つだということは音で記憶してるのですが、何の名前だったかさっぱり思い出せませんでした(ぐぐってみたら、R-TYPEのボスキャラの名前でした)・・・というわけで、やんやんが表紙だったもので、ここはヒトたるものの義務として、『美少女ゲームクロニクル PC98編』を購入しました。しかし、『マーシャルエイジ』は今から15年前ですか。いやはや。

一般論として、近時生産される創作物の中には、明確に「ノスタルジー」を喚起するという方法論を採用しているものがかなりの程度見受けられる。自らが過去に経験した<物語>を再提示されるとき、人はその<物語>を自分のライフヒストリーの中に位置づけて「懐かしみ」、その懐旧作用によって自らの過去を再定位することになる。つまり、「ノスタルジー」に駆動される作品は、<私>の歴史として位置づけられることで、アイデンティティ確認のための装置として機能しうる、ということであろう。このこと自体は、かつて述べたように、創作者の側の縮小再生産を導く危険性があるとはいえ、さほど問題視する必要はないように思われる。
しかし、上述した議論でやや楽観的に記したような、「ノスタルジー」に駆動される作品が世代間の対話可能性を開く、というようなオプティミスティクな観測は、当然裏切られる可能性もある。例えば、1970年代のロボットアニメには、ポストモダン的情況に立ち至る前の近代的理念、すなわち、「進歩」や「成長」についての信頼がその背景に存在している。このようなあり方がゆらいでいくのが、その後の富野作品や庵野作品の展開過程ということになろうが、この過程をライフヒストリーとして経験している世代としては、上記の近代的理念に即した作品も、「ノスタルジー」に駆動されるものとして消費し得る・・・今年放映された『天元突破グレンラガン』は、そのような作品であろう。
#終盤、人間のシモンと獣人のヴィラルがグレンラガンに乗ることでアンチスパイラルに立ち向かう、という展開を見たとき、「ああ、なんてヘーゲル的な弁証法!」と嘆息したものである(笑
しかし一方、若い世代の消費者が、『グレンラガン』の「ノスタルジー」を、ポストモダン的な作法で消費するのではなく、いわば過去に存在した虚構の歴史によって自らのアイデンティティを確認する装置として受容することがあるとしたら、これは慎重な留保が必要となろう。言うまでも無く、そこには、近代という理念が行き詰まりを見せた、という視角が欠落する可能性があるからである・・・一般化するならば、<物語>を「語られた歴史」として受容する場合、それをアイロニッシュな視角によって一度点検してから、「ノスタルジー」へと落とし込むという操作が必要なように思われる。なぜなら、<物語>にはさまざまな圏域において「政治性」がまとわりつくからである(貫成人「『歴史の物語論』批判」(『新・哲学講義8 歴史と終末論』所収・・・ヨリ一般的には、『ナショナル・ヒストリーを超えて』などを参照されたい)。

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「然し、入口の扉を中心にして、水星と金星の軌道半径を描くと、その中では、他殺の凡ゆる証拠が消えてしまふのです」「そーなのかー」(光は東方より・14)

Rumia
・・・<東方>には結構「アホの子」属性候補がいるような気がしますね。筆頭はチルノですが前に一度ネタにしてしまったので、次点のルーミアを描いてみました(ほかにも橙とかみすちーとかがそうかな)。こう返されてしまうと法水麟太郎にもどうしようもないでしょう。以下類例。
「皮肉な話だけど、市川の精神病院にいる爺やさんから教えられた、この聖不動経の経文をよく見るといい。ここには、君のしたことの一切が、全部、書き付けられているんだから」
「そーなのかー」
「二十年前にかの・・・Mを逐い走らしたかの卒業論文『胎児の夢』が、眼に見えぬ宿命の力をもって確実に彼をモトのところへグングンと引き戻してきたのだ」
「そーなのかー」
#しかし『風神録』は難しい・・・。

近時、初音ミクの動向を踏まえ、巷間では「アホの子」属性についての議論が盛んなようである。一般的に、「属性」の措定には、ほぼ同じベクトルを向いている「キャラクター」類型を蓄積することで、創作者/消費者の双方において共通了解を調達する可能性を上昇させる効果が見込まれているように思われる。すなわち、ある一定の「型(アーキタイプ)」の了解を共有することで、「キャラクター」の愉しみ方自体をテンプレート化することが、作り手・受け手共に可能になるわけである。これは単純に、効率の問題としては有効な方策である。
その一方で、「属性」の措定は、「ツンデレ」をめぐる言説に見られたように、「ほぼ同じベクトルを向いている」はずのキャラクターの集合を「定義」によって細分化するという作用ももたらすようである。そこで、例えば『つよきす』のような作品について、その全てのキャラクターを「ツンデレ」のテンプレートとして愉しむことが出来るか、それとも、定義による細分化作用によって、結果的に自らの「ツンデレ」の愉しみ方を先鋭化するかは、畢竟、消費者の側の作法に委ねられることになる。
「アホの子」属性についても、おそらく上記の二つの作用が同時に働いているのだろう。ネットの噂では(笑)、ともかく「アホの子」に類するキャラクターを集積してデータベースを作ろうとする動きがある一方で、その内部を定義によって細分化し、場合によっては「これはアホの子ではない」とオミットしたりする動きも平行して見受けられる。
どちらの方向性を取るかは、上述したように消費者の側の問題なのだが、「アホの子」をめぐる議論の特色といえそうなのは、「初音ミクがアホの子である」というところには最大公約数的な共通了解があるところであろうか。初音ミク自体には本来的には「キャラ」が備わっていないというところからすると、この現象は興味深い問題意識を投げかけているようにも思われる・・・究極的には、無限に意味を飲み込むことの出来る空洞にしか、人は共通了解という約束事を設定することが出来ないのかもしれない。
※オチがつかなかったので、この項続きます・・・。

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大きな歴史を食べちゃった(光は東方より・13)

Keine

・・・最初見たときは「ワーハクタク」という字面がなんのことなのかさっぱりわからなかったのですが、「were-白沢」なのですね。月齢に支配されて変身する、という属性だけで十分「妖異」なのだろうと思いますが、変身した結果「白沢」という妖怪になる、というメタな「妖異」が存在し得るのは、さすがに幻想郷ならでは、というところがあります・・・というわけで、変身前の上白沢彗音。どういうわけか変身後の姿の方が有名なのですが(笑
#しかし、『東方求聞史紀』によると、けーね先生は変身前でも宿題を忘れたりすると頭突きをかましてくるらしいですな(笑
##ちなみにタイトルは「けーねのえかきうた」(『東方乙女囃子』所収)より。

先頃、ちょっとした機会に、前近代の日本史を専攻している後輩筋の学生さんたちの前で、歴史学方法論について簡単な報告を行わざるを得なくなり、しかたがないので、あまりつっこんで読んだことの無い様々な近時のアプローチについて、聞きかじりのレベルの適当な話を適当にすることとした。ところが、やや意外なことに、それこそブローデルだのウォーラーステインだのといったメジャーどころの理論についても、前近代の日本史を専攻している学生さんはどうやらそれほど関心を抱いていないらしいのである。
上記した通り、私は決して歴史学方法論について詳しいわけではないが、それでもさすがに、いわゆる「戦後歴史学」的な語りがその自明性を失うと共に、アカデミズム的な「実証」の作法も射程に限界が来つつある、ということを、折に触れて感じるところがある(永原慶二『20世紀日本の歴史学』)。そこで勢い、ポストモダニズムについても多少の関心を持たざるを得ないのだが、後輩諸兄は、基本的には「実証」によって事が足りる、と今でも考えているようである・・・「大きな物語」ほどの共通了解にはならないにせよ、その後の歴史を語る際に、何がしかの共有可能性のある言説があるとしたら、やはりそれは、例えばフーコーのような思想家のものであるように思えるのだが、あるいは、ポストモダンの歴史家は既に、対話可能性という問題関心自体を失っているのだろうか?
#ハーバーマス的な「コミュニケーション」が持つ権力性を警戒しているのかもしれんけど(笑

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テスが「テリーザ」の略称とわかるのは下巻257頁目です(せっかくだから有効活用・2)

Tess
当然ながら手元にまったく資料がないため、しょうがないので自分が昔描いたイラストを元に記憶を喚起しながら描いています(ですので元ネタからどんどんズレてしまっている可能性もあります(笑))。アリスソフトの『D.P.S. sg Set2』から、「ANTIQUE HOUSE」のヒロインのテスに「りんごの皮をむく」のポーズをとらせてみました・・・私が冥府魔道に踏み込んでから、もう15年になるのですね(笑
#しかし改めて思い返してみると、テスの衣装にもヘッドドレスはないですね。

わが国における「メイド」のイメージは、カントリーハウスやマナーハウスにおけるメイド、すなわち、職域ごとに役割を分担し、指揮系統が区分されているタイプのものと、ロンドンなどの大都市におけるメイド、とりわけ、雑役女中のような過酷な労働を強いられるタイプのものに両極化しているようである。この両者は、前者はアプリオリな「身分」という差異、後者はアポステリオリな「貧富」という差異(もっとも、これも世代が交代することで固定化されるが)によって、雇い主との距離が遠く設定されている。そのため、多くのフィクションが描いているにも関わらず、メイドと主人のロマンスは成立しにくい、というのが通説的な見解である。
ところで、上記した「ANTIQUE HOUSE」は、有名なトマス・ハーディの『テス』からヒロインの名前を借りているが、ハーディの『テス』がイングランド南部をモデルにした架空の地方農場を舞台としていることは、あるいは「ANTIQUE HOUSE」にも幾許かの影響を与えているようにも思われる(ちなみにゲームの舞台は19世紀フランスという設定となっている)。作中「小間使い」と呼ばれるヒロインのテスは、主人公ルドルフの乳母の娘という設定の下で、幼なじみという役割をも与えられている・・・この設定を、「身分」というアプリオリな差異を前提とするロマンスを彩る、史実とは異なる脚色と把握するのは容易いが、ここでいう「史実」が果たしてどれほどのリアリティがあるのか、という点は、別途検討に値するであろう。
ランカシャー地方、マンチェスターに程近いロッチデールという地方都市の人口統計を精査したEdward Higgsは、この都市を分析対象に選んだ理由を「ロンドン及びカントリーハウスの検討により得られる通例のサービス産業のイメージの有益なカウンターバランス」であることに見出している(Domestic Servants and Households in Rochdale, 1851-1871, Garland Pub., New York & London, 1986, p.9)。その検討の結果得られた結論は、「domestic servantsが召使と雇い主の間の金銭関係の条件によって定義されているにも関わらず、『召使』もしくは血縁の者による家での労働はきわめて広い含意を持つ」というものであり、「実際には、給与を支払われている雇用者や雇われの使用人と、落ちぶれた家族の古い友人の女性や、地方からやってきてポケットマネーで家事の手助けをする遠い親戚とを隔てる社会的地位の多様な陰影を推し量ることは難しい」というものであった(p.49)。
ここには、カントリーハウスやロンドンのような大都市においてカリカチュアライズされたものとは違う、別のメイドの姿があるようにも思われる。「メイド」としてカウントされていた女性が、実際には子守を任されているその家の子供や親戚だったり、あるいは未亡人として家を切り盛りするhousekeeperだったりするこれらの場では、雇い主とメイドの距離は、相対的に流動的であったようにも思われる・・・ある種典型的な「身分違いのロマンス」を展開する「ANTIQUE HOUSE」が、19世紀フランスの片田舎という舞台(主人公のルドルフはパリに遊学していて戻ってきた旨の描写があり、舞台装置には狩猟小屋や廃坑などが用いられる)を選んでいることの背後に、周到な計算があったのだとしたらなかなかに面白いのだが。
#単に、「修道院に行く」という設定がアングリカンチャーチだと有難味に欠ける、という配慮だったのかもしれないが(笑

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心はいつもアムンゼン(光は東方より・12)

Sakuya2
・・・ちょっと仕事が一段落したので、久々にブログを更新しました。実は一度描いたことがあるのですが、当時はまだ世界観がよくわかってなかったので(律儀に原作だけ見て記憶で描いてました(笑)・・・『妖々夢』しかプレイしてなかったので、マフラーはデフォルト設定だとばかり思っていましたよ)、リベンジの意味も込めて咲夜さんに再挑戦してみました。ホントはスカート丈を長くしようかと思ったのですが、咲夜さんの場合このスカート丈自体もネタになっているので、直しようがないのです・・・。
#今気付いたけど、題名と『妖々夢』がシンクロニシティを起こしてるんですねw
##しかし、ミニスカメイドが二人続くのはいかがなものかと個人的にも思います(笑

仕事で溜まったストレスを少しでも発散しようと性懲りもなく秋葉原を彷徨っていると、休刊時に予告されていた通り『電撃萌王』がリニューアルしていた。私の人生訓の一つに「バカをやるなら極北を目指せ」というのがあるので、ここは迷わず購入(1800円って値段設定はどうかと思うが)。で、帰宅してから、以前より一層救いようのなくなった誌面を流し読み・・・というか眺めていたら、突然どこかで見たような、とりとめのない散文調の文章に行き当たった。一瞬『ドルアーガオンライン』の紹介かと思っていたのだが、良く見てみると『東方香霖堂』とある。
「鉄道むすめ」の際に思ったことと近接する問題関心なのだが、『電撃萌王』を(しかもリニューアル第1号は創刊記念価格1800円で)購読する読者層と、<東方>シリースを愉しむ層は、果たしてどれくらい重なっているのだろうか。確かに、この連載は以前は『magazine ELFICS』という同人専門誌?に掲載されてはいたが、それはある種、「<黄色い楕円>のマンガが無法地帯である」という問題系として理解されるように思う。リニューアル版『萌王』のより一層確信犯的に過剰な「萌え」を志向する誌面を見るにつけ、どうしてもそこには<東方>の持つベクトルとの乖離があるように思われてならないのだが。
#ちなみに『萌王』と一緒に購入したふじもとせい『かみさまがここにいて』には「ハインラインです」「アシモフです」「押川春浪でございます」「海底軍艦かい!」という、よくこんなん連載してたな、ってギャグがありました(笑
##あ、これもやっぱり「そういうお前はどうなんだ」というツッコミが予想されますね(笑

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超兵器F1号(光は東方より・11)

Aya
いやあ、『文花帖』難しくてさっぱり進みませんです・・・ということで「伝統の幻想ブン屋」こと射命丸文。ローファーなのになぜか一本歯なのが凄まじいセンスです。カラスの名前は「諭吉」だったりするのだろうかやっぱり(笑
#こういう構図描くと「ユリちゃん、行くぞ!」「特ダネね!」という掛け合いをつい思い起こしてしまうのですが、この掛け合いが挟まるのは「ウルトラエース」というイメージソング?なので、実際に『ウルトラQ』の劇中にこういう掛け合いがあるのかどうか記憶が定かではありません・・・勿論、リアルタイムで見ていたわけではないので、多分に「創られた記憶」っぽいですが(笑
##そもそも、『究極超人あ~る』の時点で「超兵器R1号」のパロディなわけだから、一体どれくらいの複製回数のパロディなのかもはや判別困難ですな(笑

私は高校時代天文部で、その活動に天体写真の撮影があった関係上、白黒写真については一応現像までの行程を教わっている・・・現像液のあの独特の臭いがこもった暗室を今でも鮮明に思い出せるのだが、実は天体写真というのは写真の中ではかなり特殊な部類であり、ピントの合わせ方(ナイフエッジを使う方法とかを教わった(笑))や露光時間、フィルムの感度などについての私の知識はかなり偏っている。天文部で撮影したスナップ写真は、例えば「感度3000のフィルムで夜間数十分かけて千手観音のマネ」とか、「特に意味は無いが反射望遠鏡に接続して部室から校庭の人物写真を撮影」とか、「単なる打ち上げのバーベキューの光景なのになぜかリバーサルフィルム(←スライド映写機がないと見られない)」とかの類で、いずれも非日常的なものばかりであった。
そのためだろうか、私は一向にスナップ写真を撮るという行動様式に慣れることができない。そもそも私はあまり旅行には行かないのだが、高校卒業以降の旅先や日常のスナップ写真は手元にはほとんどないし、デジカメ時代になって手軽に写真を撮ることが出来るようになっても、大抵の場合デジカメ自体を旅先に持っていくのを忘れてしまう。
思うに、私にとって「映像を記録する」という行為は、日常の行動パターンに極めて組み込みにくい、ある種祝祭的な性質のものになってしまっているのだろう・・・当然私は携帯電話についているカメラを起動することはほとんど無いので、ニュース映像などで有名人が携帯カメラを向けられている映像には大変な違和感を感じてしまう。ここでの「記録行為」には、一体どんな意味が込められているのだろうか?
#天狗つながりということで、黒田硫黄の『大日本天狗党絵詞』を引くと、「散歩で猫に会うと、とりあえず写真をとることにしている」との作者のコメントがありますな。「謎のじいさん」とか、このヒトの写真センスは好きです(笑

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京極夏彦を知らないってのは確かに意外かも

rena
※おことわり※
このブログには『ひぐらしのなく頃に』『ひぐらしのなく頃に解』のネタバレが含まれています(今回のネタバレ度数は割りと高めです)。未プレイの方はプレイしてからどうぞ。
それから、以下の作品についても言及があります。ネタバレってほどじゃないですが。
竹本健治『ウロボロスの偽書』『匣の中の失楽』
中井英夫『虚無への供物』
夢野久作「笑う唖女」

・・・誰を描こうかちょっと迷ったのですが、やっぱり「あの」シーンのインパクトと、「罪滅し編」での向こう側に行っちゃったときの一人称描写が気に入ったのでレナ。「目明し編」で向こう側に行っちゃった後の詩音の最後の方の一人称テクストとか、「祟殺し編」でやっぱり向こう側に行っちゃったあとの沙都子の描写とかもなかなか味わい深いのですが。
#『私的捜査ファイル(仮)』のカバー裏とかも結構良い感じですね(笑
さめのひとさまと火焔樹さまに奨められてプレイしていた『ひぐらしのなく頃に』をようやく「皆殺し編」までプレイし終えた。1シナリオに丸2晩かかるので、都合14日間を費やしたことになるのだが、これだけのテクストを読ませるのだから、やはりこれは非常に優れた「ゲーム」なのだと言えよう。作者自身は「謎解きに参加すること」、東浩紀はポストモダン的な「物語の複数性」に『ひぐらし』の「ゲーム性」を見ているようだが(「ゲーム的リアリズムの誕生」(『ファウスト』vol.6 SIDE-A))、『ひぐらし』の「ゲーム性」は、何よりもテクストを読み下すスピードをソフトの側から規定される「制度」に帰するように思う。言語を読解する際には、読者は通常、そのテクストを読む速度を任意に設定できる。しかし、「サウンドノヴェル」は、テクストの表示スピードをカーソルのクリック回数と効果音によって制御し、結果的にプレイヤーの任意性を奪うことが出来る。この「制度」に不満な読者には、「ゲームをやめる」(あるいは「サウンドノヴェル」としての楽しみ方を放棄する)という選択肢しか残されていないのである。
例えば、夢野久作にはこんなテクストがある(「笑う唖女」(『骸骨の黒穂』角川文庫)、147頁)。

「その時に彼に取縋っているオドロオドロしい姿が、泥だらけの左手をあげて、初枝の顔を指した。勝ち誇るように笑った。
 「ケケケケ……エベエベエベ……キキキキ……」
人形のような高島田の顔が、静かに雨樋の陰から離れた。長々と地面に引摺った燃え立つような緋縮緬の長襦袢の裾に、白い脛と、白い素足が交る交る月の光を反射しいしい、彼の眼の前に近づいて来た。」

仮に、夢野久作のテクストに頻出するこの特異なカタカナの表記を不快に思う読者がいるならば、その読者には自在に読解のスピードを速めてこれを「斜め読み」することが許されている。しかし、これが「サウンドノヴェル」である場合、プレイヤーは(おそらく一字ずつゆっくりと、しかも効果音付で表記される)この笑い声を、表示されるスピードで読むことを強制される(これを拒否するには、「ゲーム」をやめるしかない)・・・そしてなによりも、『ひぐらし』は、「ゲームをやめる」という選択肢を選ばせないような巧みな演出が施された、きわめて良く出来た作品なのである。
#日常会話の中に「向こう側」の要素が侵入してくるときの不協和音とか、ちょっとした効果音のタイミングとかが、とにかく絶妙に計算されてますね・・・夜中プレイしてるとリアルに怖いです(笑
さて、肝心の「謎解き」だが、私はミステリのリテラシーが低いので、もっぱら提示される物語を玩味する側に回ってしまうのだが、さめのひとさまの話だと、とりわけ「皆殺し編」について、「プレイヤーが予見不可能な媒介を導入することが適切か否か」という点が議論されているようである。勿論、狭義のミステリ(パズラー)であるならば、これは許されるべきではないが、『ひぐらし』はおそらくパズラーとして作られてはいない(単に「正解が存在する」ことを明記しているだけである)。ミステリの要素の本質は「原因-作動-結果」という説明原理、すなわち「線形的因果性」であり、この説明原理に則っていれば、「プレイヤーにとって未知だが理論的(科学的に、ではない)に存在可能な媒介項」を設定することは許されてしかるべきであろう・・・そして、少なくとも「皆殺し編」までの事象は、この条件を満たしていると私は考える。
#ちなみに、この「因果的線形性」を担保出来ているならば、西澤保彦の<神麻嗣子の超能力事件簿>のように、超自然現象を導入したミステリをパズラーに近いものとして構築することが出来るのである。
さて、多少なりともミステリをかじった経験がある人ならば、ギャルゲー的な「主人公一人称」が「叙述トリック」を成立させるのに適していることはすぐに了解可能だと思うが、『ひぐらし』の作者は(全く活字を読まないにも拘らず)この手法を有効に活用している。このことは「綿流し編」と「目明し編」の対応関係で明らかだが、「叙述トリック」に見られる「ミスリーティング」が最も有効に用いられている場は、例えば「綿流し編」の後で魅音が「名前しか出てこない」監督への言及を行っていることに象徴されるように、<問題編>にそれぞれ附属する「お疲れさま会」なのではないか、などと深読みしてみたくなる(各シナリオをクリアした後「お疲れさま会」を経由しないと次のシナリオに進めないのは理由があるのではないか?)。各「お疲れさま会」においては、「謎」が「人為的な殺人事件か超常現象か」という形に大きく単純化されて提示されており、その極端な形が「皆殺し編」でそれぞれ(「線形的因果性」にはぎりぎり則った形で)示されたのではないか、とも思う・・・「暇つぶし編」をプレイした後に「スタッフルーム」を見て、私はつい『ウロボロスの偽書』を連想したのだが、『匣の中の失楽』や『虚無への供物』のように、「お疲れさま会」こそが「本文」で、各シナリオは「作中作」、という入れ子構造、というのはどうだろうか?「罪滅し編」におけるメタ構造も、このように理解すれば違和感が無いように思うのだが(笑

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