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May 2012

メタゲームという「ゲーム」の果てに

Netopoyochan_6
最近ネット界隈で話題の電子書籍『ねとぽよ』の第2号を文学フリマで買って来ました。第1号もめっぽう面白かったのですが、2号もなかなか興味深い内容で、かつ、その試み自体も非常に興味深かったので、多少思ったことなどを書き連ねてみます…エントリを書くこと自体が自己目的化している気もしますが、まあそこはそれ。

※おことわり※
この記事には、以下の作品についての(致命的ではありませんが)ネタバレが若干含まれます。未読/未プレイの方はその旨ご了解ください。
『ひぐらしのなく頃に』『ひぐらしのなく頃に解』
『うみねこのなく頃に』『うみねこのなく頃に散』

『ねとぽよ』第2号は実に様々な内容を含むが、その多様なコンテンツを一括りにするキーワードは、明示されているようにやはり「ARG(Alternative Reality Game)」であろう…その語がシンボリックに示すように、このキーワードに導かれたそれぞれの記事は「ゲーム」と「リアル」の「代替可能性」についての思考に、読者を否応無しに巻き込んでいく力を持っている。しかし、私にとって印象深かったのは、本書の冒頭のARGに関する理論と実践についての記事と、本書の末尾の大塚英志へのインタヴューとの間に見られる(ように思われる)これらの語の用法の位相の差異であった。
大塚が適切に答えているように、「ゲーム」と「リアル」に関する理論は80年代においておおよそ構築されているのであれば、上述の位相の差異は「ただインターネットだけがなかった」ことに起因して生じたと理解することが出来るだろう…このことに関連して興味深いのは、『多重人格探偵サイコ』において大塚自身が仕掛けたような「虚実の曖昧さを前提と」した、すなわち「プロレス」的な「ゲーム」によるフィクションへの「リアル」の導入の仕掛けの現代日本社会における効果についての懐疑的な視線と、その要因として言及される「「虚」と「実」の境界線」への「インタビュアー」、すなわち「ねっとぽよく」たちの「執着」である。
補助線として参照するべきは、『リアルのゆくえ』において大塚が隠そうとしない東浩紀への「苛立ち」であろう。「世代論にしていいのかは分からないけれど」と慎重な留保をつけつつ「メタ的な場所」を「当事者にならない自由な場所」として消極的に解する大塚にとっては、(少なくとも当該対談当時の)「メタ物語的な読者/プレイヤーをいかにして物語のなかに引きこむか」という構造に関心を向ける東のスタンスは「居直り」に映らざるをえないことになるのだろう。しかし、物語の構造分析を踏まえてその「動員力」への注意を喚起する大塚と(『物語消滅論』)、ゼロ年代のメタリアルフィクションの典型である『ひぐらしのなく頃に』の「物語のご都合主義とはまったく別の水準」での「非現実的・多幸的」な部分を指摘する東の懸隔は(『ゲーム的リアリズムの誕生』)、少なくとも、フィクションにビルトインされた「ゲーム的」な仕掛けについての関心を共有し、「ゲーム」と「リアル」の関係を分析するという局面においては、それほど大きくはないように見える…大塚と東の距離は、ある意味歴史的な問題であり、構造的な問題ではないように私には思われるのである。
むしろ、この点(「「虚」と「実」の境界線」)における構造的な差異は、東とその次の世代の思想家たちの間にこそ顕著に現れているように見える。例えば、東が「メタリアル・フィクション」として取り上げた『ひぐらしのなく頃に』と、その次に展開された作品である『うみねこのなく頃に』の間には、作者自身が図らずも語っているように、前者は「読み物」、後者は「純粋に読者との「バトル」」という構造的な差異が存在する。そうであるならば、後者における「リアル」の仕掛け、すなわち「ゲーム」は、前者のように作品の中にビルトインされておらず、作品の外に拡散される形で配置されていることになるだろう…村上裕一が適切に指摘するように、「正解」が(メタリアル・フィクションとしてすらも)存在しない『うみねこ』は、もはや「ゴースト」的な想像力によってリアルが補填されるようなメディアなのである(『ゴーストの条件』)。この想像力は、宇野常寛が分析するような、メタリアルな「ゲーム」のルールが自足せずに無限に追加されていく「カードゲーム型」の想像力、<現実>をタグづけすることで「リアル」を補填する「拡張現実」としての想像力と近接している(『リトル・ピープルの時代』)。そして言うまでもなくこの転換は、80年代の大塚に欠けていたインターネット環境によって転轍されたものである(濱野智史『アーキテクチャの生態系』)。
私は、敢えて「戦後啓蒙」を語り直そうとするような理念としての「実」、あるいは、全てが「ゲーム」の果てである以上は全てを「ガチ」として捉えるという現状認識としての「実」のどちらからも距離を取り、限界を引き受けつつもメタゲームの「空虚さ」に立ち向かっていた東の姿勢に一定の共感を抱く…この問題を世代論で語るのは容易いが(私は東とほぼ同世代である)、そのような「外部」を設定するかどうかはある意味倫理的な問題なのかもしれない。

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