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January 2012

遅ればせながら謹賀新年

Amimami3
ものすごく間が開いてしまい、かつ、けっこう時宜を逸してしまいましたが、ともかくも2012年、新春のご挨拶を申し上げます。みなさまにとって今年が良い年でありますよう…というわけで、干支とは特段関係がないのですが、ふと思い立ったので『アイドルマスター』の亜美真美にビキニアーマーを着せてみました。いや、ワタクシにわかファンなのですけれど、アニメ版はすばらしい出来でした。ちょうど村上裕一さんの『ゴーストの条件』が刊行されたので、ニコ動をアホほど見たということもありますが(詳しくは後述します)。
#いつも、下絵を描いて塗る段階で「こんな面倒なデザインにするんじゃなかった」と思うんですよねビキニアーマー。
##あ、これをご覧になっている仕事関係の方でご希望があれば、もれなく来年にはこの種の絵柄で職場テロを仕掛けさせていただきますのでご一報ください(笑

太田省一は、戦後日本の「アイドル」の歴史について通史的に把握しようとする試みの末尾でAKB48に言及し、握手会や総選挙といった手法が採用されることによって「アイドルとファンとは運命共同体と化してしま」うため、それまでテレビの内部で振舞っていたアイドルと視聴者の間に存在していた「批評的視線は弱められてしまう」と述べ、その根源的な要因を、AKB48が批評的視線を生み出していた「テレビからも遠く隔たった存在である」ためではないかと指摘している(『アイドル進化論』)。太田のフィールドがテレビという非対称性のあるメディアを自明の存在とする1970年代論であることからすると(『テレビだョ!全員集合』)、この評価自体はおそらく正当なものだが、『アイドル進化論』においてはCGMとしてのヴァーチャルアイドルにも言及していただけに、両者の関係性についての考察を禁欲しているところが惜しまれる(太田自身は「90年代に入る頃から、アイドル文化を時間軸に沿って示すことが困難で、また無意味な情況になってきた」と率直に述べている(前掲『アイドル進化論』))。
「現代におけるn次創作的なキャラクター文化の極北」にあるものがAKB48であると指摘する宇野常寛は、「一次情報と二次創作の担い手の逆転こそが、AKB48のキャラクター生成システムの本質」であり、そのシステムの自己言及性によって「AKB48は半ばキャラクター消費の永久機関と化している」と(その射程をどこまで普遍化出来るかどうかは一応別として)適切に指摘している(『リトル・ピープルの時代』(補論))。ここで宇野が「システム」という用語を選択していることは、勿論、自己言及性をその内部に畳み込んでいる社会システム理論への目配りであり、AKB48が単なる(一人ひとりのアイドルたちという)「要素の集合」ではなく動的な現象であることを指し示している。そしてこのダイナミズムが、テレビのような非対称性のある「マスメディア」ではなく、いわば「生態系」のようなざわめきを内包するインターネット空間というリソースを前提としていることも言うまでもないであろう(濱野智史『アーキテクチャの生態系』)。そして、その「クラウド化」した想像力がn次にメタ化していけばいくほど、おそらくその「仕掛け人」としての秋元康の「作家性」は限りなく希薄になっていくであろう(村上裕一『ゴーストの条件』)。
太田と宇野の間にあるメディア理解の断層は、そのまま、19世紀的な社会科学と20世紀型社会科学との断層を反映したものであるだろう(宇野が古典的な権力の表象としてしばしば参照する『1984年』が採用していた監視システムは「テレスクリーン」であった)。その意味では、我々はもはや「テレビ的なもの」としてアイドルを取り扱うことはできない。山之内靖が指摘するように、我々が、ヘーゲル的な「階級社会」ではなく後期ルーマン的な「システム社会」を生きているのであるとしたら(『システム社会の現代的位相』)、AKB48というオートポイエーティックなシステムは正しく、社会に適合した「アイドル」のダイナミズムを表象しているように思われる。
#この点、古典的な(メディアの非対称性が有効であった時代の)アイドル像を戯画化する『アイドルマスター』が、ソーシャルゲーム(通称「モゲマス」:詳しくはこの記事を参照されたい)として消費者の無限の欲望をダイナミックに拾い上げようとしていることは象徴的に見える。
そうであるとするならば、この「システム社会」において敢えて「労働賛歌」という楽曲を提示して、身体性をもって弁証法的に振舞おうとするももいろクローバーZの試みは、ベタな古典回帰として解釈するしか無いのかもしれない。宇野がやはり適切に指摘するように、身体性はシステムと対抗するものではなく、両者は「結託」しているのであるとすれば、なおさらである(小林よしのり・宇野・中森明夫「AKBこそネ申である」(『夏休みの終わりに』所収))。ももクロを評価する立場とは、つまるところ、システム化する前の弁証法的な世界、つまり「歴史の終わり」以前の時代へのノスタルジーによって駆動されているのだろう。それが単なるノスタルジー消費にとどまらないムーブメントになる可能性はおそらく限りなく低い…しかし、その可能性がゼロではないとしたら、その地平を見てみたいという欲望を掻き立てられるのは、私がもう年寄りだからだろうか。

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