多層乖離のディケイド
※このブログには、以下の作品についてのネタバレが多少含まれています(大したことはありませんが)。未見/未プレイの方はご覧になってからどうぞ:『ひぐらしのなく頃に』『涼宮ハルヒの憂鬱』『Steins; Gate』
ずいぶんと間が空いてしまいましたが(ちょっと忙しかったもので・・・)、昼間仕事しながら「花澤香菜のひとりでできるかな?」を聞いていたら、なんだか花澤香菜ヴォイスで「トゥットゥルー♪」という声が聞こえてきた気がしたので、まゆしぃを描いてみました。私アニメから入って、途中からパソコン版で後追いの形でゲームをプレイしたのですが、この作品のリアルはまさしく「ゲーム的」なところに宿っている気がしますね(岡部がタイムリープとDメールを駆使して時間跳躍するようにアチーブメントを回収することになるので)。勿論アニメ版にも工夫が凝らされていて楽しいですが・・・うん、そのアップルパイはないぞクリスティーナよ!w
先の記事において指摘したように、ゼロ年代を特徴付けるコンテンツが「ループもの」であることには大方の了解があるように思われる。しかし、その隆盛には、東が『ゲーム的リアリズムの誕生』において示した「メタ物語的プレイヤー」の実装によるリアリティというモメントに加え、いま一つのモメントが加わっていたように思われる。
「ループもの」がどのようにその「ループ」を脱却するか、という方法論については、おそらく、いくつかの類型に分けることが可能であろう。日本のオタク系コンテンツに重大な影響を与えた「ループもの」である『ビューティフル・ドリーマー』は、かつての、高度経済成長の(あるいは「政治の季節」の)残り香を受ける形で構築された「終わらない祝祭性」を演出することで、成長や実存からの「逃走」についての肯定と否定のアンヴィバレントを見事に描いて見せた(スーザン・ネイピア『現代日本のアニメ』)。これに対し、ゼロ年代の「ループもの」の主流は、東が評価する『All you need is kill』などの作品構造が備える「ループの経験者の孤独」を媒介とした「生の一回性」についてのメッセージを中核に据えるものが多い…言うまでもなく、『Steins; Gate』もその一つである。
#『魔法少女まどか☆マギカ』もこの類型に含まれるかもしれないが、個人的な印象としては、この作品はむしろSF的なセンス・オブ・ワンダーに力点があるようにも見える。
ところで、ゼロ年代の「ループもの」の中には、明瞭にその「脱出」の処方箋を示すことによりメッセージ性を備えるものも散見される。その一つの方向性は、やはり東が指摘するように、竜騎士07の『ひぐらしのなく頃に』(及び、やや視角を変えてはいるが『うみねこのなく頃に』)において示される「あまりにも非現実的で多幸症的」な、ある種楽観的な処方箋である。「誰かが悪役にならないと終われないのでしょうか?誰かを敵にしないと、物語は解決しないのでしょうか?」と読者に問いかけ、「誰とも争う事がなく、誰も敵にならない」というあまりにもナイーヴなハッピーエンドへの到達可能性の模索を「ここまで『ひぐらし』の世界について来てくださった貴方なら大丈夫」と後押しする作者の姿勢には、ある意味極めて普遍的なヒューマニズムが横溢している(コミックス版『ひぐらしのなく頃に解 祭囃し編7』へのコメント)。
もう一つの方向性は、『涼宮ハルヒの憂鬱』のアニメ第二期においてパフォーマティヴに演出された「エンドレスエイト」である(無論このエピソードは原作に準拠しているが、実際に8回ほぼ同じ話を繰りかえして視聴者に提示したアニメ版の方が批評性が高いように思われる)。「SOS団みんなで夏休みの宿題をする」ことでループが閉じられる、という処方箋は、宮台真司的な「おわりなき日常」のサヴァイブのための「まったり革命」、あるいは、『リトルバスターズ』や『Angel Beats!』のような近時の麻枝准作品に看取される「コミュニティにおける承認」を志向しているように思われるが、「キョン自身も心のどこかで『別にこのままでいいや』というような気持ちがあったのではないでしょうか?」「ずっとアニメをつくっていたいなぁ。600年くらいどうってことないです」といった声が聞かれるところからすると(『Newtype』25巻14号(絵コンテ・演出:石原立也コメント))、製作側にもこのモメントは共有されていたようである・・・ただし、この企画はコンセプチュアルに過ぎたため、エンターテインメントとしての枠を逸脱してしまった感も否めないが。
いずれにせよ、ゼロ年代において「ループもの」が好んで製作され、受容されたことにはいくつかの理由があることは確かであるように思われる。しかしここでは、ループものが構造的に持っている「シミュラークルへの親和性」に着目したい。「ループもの」はかなりの領域で「セカイ系」と重なるところがあるが、前島賢が適切に指摘するように、「セカイ系」作品は長編展開が難しく、かつ、「物語消費」を排除しているというコンテンツ的な限界を内包している(『セカイ系とは何か』)。しかし、「ループもの」としての構造を備えることで、「セカイ系」作品もこの限界を易々と越境できることになる・・・すなわち、「あり得たかもしれない別のループ」としてシミュラークルを作成することが容易であるが故に、理論上は無限に(!)作品の外延を引き伸ばしていくことが可能になるのであり、更に、その枠組みにおいては「物語消費」だけでなく「データベース消費」さえも「ループ」に解消可能となるのである(『ひぐらしのなく頃に』における『燕返し編』や、『Steins; Gate』における『比翼連理のだーりん』など)。
しかし、とりわけ「データベース消費」を「ループ」に位置づけることには、一抹の不安がまとわりつくことも確かである。とりわけ、上述の「スピンオフ」がオフィシャルなものとして作成されていることには注意を払っておきたい。東が「データベース消費」を行う「動物」と化したオタクたちを必ずしも否定しないのは、それが「物語」を読み込む「私」という(動物化したとはいえ強固な)「主体」を前提としていたからではなかったか・・・「作者の死」を正面から引き受ける、データベースに蠢く「動物」たちの可能性は、<オフィシャルなシミュラークル>という矛盾きわまるコンテンツが偽装する「オリジナルのアウラ」によって摘み取られはしないか。このことはおそらく、コミケにおいて企業ブースがその動員力のウェイトを高めていることと無縁ではないであろう。コミケにおいて「オフィシャル」なシュミラークルに耽溺する彼らには、(「動物」としてであれ)果たして「主体」が読み込めるのだろうか?
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