匙は投げられた(村上春樹的な意味で)
・・・もはや祝うのが憚られるような年齢の誕生日に自分で自分に誕生祝いのメッセージを描くという、年に一回しか出来ない自虐ネタをかましてみましたよ!絵柄はあまり深い意味はないのですが『インフィニット・ストラトス』のシャル。是非花澤香菜さんにフランス語でお祝いしてもらいたいですね!(←痛いことこのうえないw)・・・このブログなんと6年半もやっているのですが、その間の顕著な変化として「声優に詳しくなった」ということが挙げられそうです。もうダメですな。
私はあまり村上春樹の良い読者ではない。というのは、もとよりその作品の全てに目を通しているわけではなく、主として巷間で他の作品への影響が明確であるとされる場合に遡及して読むことがほとんどだからである(例えば『灰羽連盟』と『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』のように)。そして多くの場合、遡及の元となった作品のバイアスによって作品を鑑賞してしまうためか、読後感としてはなんとなく物足りなさを感じることになる・・・とはいえこれはもとより、氏の作品の完成度が低いからではなく、私自身の読書経験がいわゆる「文学」の周縁にあるジャンルに偏っているからであり、「SF/ファンタジーとしては奇想性に欠ける」という、いわば難癖に近い感想であることは自覚している。
#例外的に比較的共感を持って読んだのは、学生時代に読んだ『1973年のピンボール』だった。今は絶版となった「福武文庫的なもの」として受け止めたように記憶している。
『回転木馬のデッド・ヒート』に収められた短編「プールサイド」についても、(過去に読んだような覚えもあるが)実のところ東浩紀の『クォンタム・ファミリーズ』から遡及して最近読み直したもので、作品自体にはやはりなんとなく物足りない感覚を覚えたが、(これは先行して読んでいた)グレッグ・イーガンをはじめとする量子論を素材とするSF作品において展開される世界観などとの対照を踏まえて、『クォンタム・ファミリーズ』の作中において示された「35歳問題」にまつわる解釈を感慨深く反芻させられた(このような自己省察へと導かれたという点で、私は『クォンタム・ファミリーズ』をSF的な想像力を優れて私小説的な問題系へと接続する作品として読んだのだと思う・・・個人的には、性的な道具立ての用いられ方がややあからさまなのではないか、という違和を除いては面白く読んだ)。
私は数年前に「人生の折り返し点」を過ぎたが、(東の表現を借りると)「仮定法の亡霊」に悩まされることはあまりないように思う。勿論、私が認識している「自己同一性」が、実際には「記憶」を物語ることによって構成されたフィクティヴなものであること、言い換えれば「人格的自己同一性の概念的構成に物語的自己同一性が介入すること」(ポール・リクール『他者のような自己自身』)については(それこそメタ的な問題として)自覚的であるつもりであるが、このことは一方で、認識論的次元としては時間が不可逆であることについても(素朴な経験論に留まるものではなく、例えば、根っからの文型人間の頭で理解出来た範囲でのカオスや複雑系の理論などの知見から)自覚的であるということを反映しているのかもしれない。思うに、ゼロ年代を特徴付けるコンテンツが、やはり東が指摘するように「メタ物語的な読者/プレイヤー」の存在を前提とした所謂「ループもの」であったとするならば(『ゲーム的リアリズムの誕生』)、上述の後者のモメント、すなわち、時間の不可逆性についての自覚から距離をとることについて、ゼロ年代には一定の「リアル」が備わっていたのかもしれない・・・このことは勿論、所謂「大きな物語」の失効が現前したことや、ソーシャルメディアの発達を始めとする技術革新と無関係ではない。
しかし翻って来し方を省みるに、上述のような自己同一性の物語的構造と認識論的な時間の不可逆性の組み合わせによって「この人生」の一回性を認識する、といった手続きを踏む以前の問題として、そもそも「人生の折り返し点」を自覚するほどに強固な近代的「自我」があったか、と問われると、にわかに首肯しかねるようにも思われる・・・不惑に王手をかけた段階で改めて読み返してみたのだが、少なくともこのブログを開設した6年半前よりも私は確実に、それはもうすがすがしいほどにダメな人間になっているが、それを意図して選んできたか、と言われると、にわかには即答しかねるからである。
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