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November 2010

「むねあきらぁ~」の「ら」あたりの巻き舌具合が巧の技です

Yukimura
なにやらずいぶんと間が空いてしまいました(むやみと忙しかったもので)・・・私MXで視聴してるのですが、途中で『えむえむっ!』のCMが挟まることがあり、やはり釘宮理恵は伊達にツンデレ歴を重ねていないなあ、としみじみ感心するところしきりなのです。というわけで、『百花繚乱 サムライガールズ』から真田幸村。しかし私の書架にはこの種のマンガがやたらとあるので(一部ネタにもしました)、最近戦国武将の名前が加工なしで女性名として使われていても何の違和感も感じなくなって来ました。我ながら末期症状だと思います(笑

(文脈が混乱していたので加筆修正しました:2010.11.27)
マイケル・サンデルの『これからの「正義」の話をしよう』が、日本でもある種不可思議なまでに話題となっていることの背景には、無論、皮肉なことにサンデル自身が標榜する立場とは異なり、そのパフォーマティヴな「講義」の進行の上手さへの憧憬があるように思われる。しかし、このモメントを割り引いて考えたとしても、「自分を束縛する唯一の道徳的責務を決めるのは自分自身である」という考えを「独善的」であるとして退けるサンデルの立場には、やはり一定の支持があるように思われる・・・そしてこのことは、おそらく、日本の所謂「戦後民主主義」がかなり強く、カント-ロールズ的な「自由」への負荷をかける形で「正義」を語ってきたことへの懐疑が強まっていることと連動しているのであろう。
ところで、同書において、カント-ロールズ的な「自由」に対置される形で持ち出されるアリストテレス的な「善」のあり方は、周知の通り、サンデルと同様にコミュニタリアンとしてロールズ的リベラリズムに対抗したマッキンタイアの提示する「物語的自己性」の概念を踏まえて提示されるものである。すなわち、「物語行為」という言語行為によって支えられる「自己」は、「物語行為」が時間性を帯びるが故に「伝統」や「来歴」といった概念と必然的に結びつき、そうであるが故に、「個人」は「ある歴史の一部」たらざるを得ないのである(『美徳なき時代』・・・この点、サンデルはマッキンタイアの論について思い切った抽象化を行っており、やや誤解を招くようにも思われる)。
このような形で立ち現れる「位置ある自己」の歴史性(時間性)は、構造的に、その「位置づけ」の背景となるある種の「共同性」を要請する。そして、その「共同性」を調達するものが、循環論的構造であるが、まさしく「歴史」なのである・・・この「共同性」の重要な一画としての「家郷性」について、ギリシャ人たちが「物語行為による想起・追憶としての「歴史=物語」形成作用」と結びつけていたことを、ヘーゲルは『哲学史講義』において既に指摘していたというが、そのことと、周知の『歴史哲学講義』における「国家」における「建国の歴史」の創出の必要とを考え合わせると、そこには「自分たちのくつろぐことが出来る場」の充足のための「隠蔽の装置」の存在が立ち現れてくる(鹿島徹『可能性としての歴史』)。
そうであるならば、「位置ある自己」が所属する「共同体」にとって不可欠な「来歴の物語り」が、上述の意味において恣意的であったり、フィクティヴであったりすることは、まったく不思議なことではない・・・例えば、日本という「国民国家」にとって、対外的な危機に反応するかのように、周期的に立身出世譚やサクセスストーリーをその中核とする「国民の物語」が紡がれるのも、その反応の一端として理解されよう(成田龍一『”歴史”はいかに語られるか』)。そしておそらく、ステレオタイプとしての戦国時代の表象が、例えばNHKの大河ドラマの題材として繰り返し想起されることも、このような傾向の下で理解されるように思われる。
日本という「国民国家」において繰り返し立ち現れる戦国時代の表象が強化しようとする「来歴の物語り」は、おそらく、朱子学的な垂直的権力関係と、それに付随する家父長制的マッチョイズムである。そうであるとすれば、例えば『百花繚乱』のような作品は、意図的にこのようなセクシュアリティのコードを壊乱しようとする挑戦的な試みであるようにも受け取ることが出来る(「忠」するアニメーション、という惹句はなかなか秀逸である・・・犬山道節が見たら卒倒しそうであるw)。しかし一方でこの作品には、過度に時代錯誤的な修飾がふんだんに施され(「美しい国・大日本」って・・・)、更には、第一話の冒頭に戯画化されるようなあからさまな反米感情が盛り込まれるなど、いささか困惑させられる演出も同時に散見される。
おそらくここに読み込まれるべきは、決して上述のようなコードの壊乱といった「戦略」ではなく、ネクスト・ディケイドのオタク共同体の、ある種の「保守化」の傾向なのかもしれない。しかしそうであるならばなおさら、順接的なグラマラスさを押し出すキャラが多い『百花繚乱』の中で、真田幸村のような「ロリ、ツンデレ、つるぺた、スク水等、ある意味最強の武器を惜しげもなく装備する」キャラが描出されることには、共同体の「来歴の物語り」として反復される上述の「保守化」を脱臼させる迂回路として、過去この記事この記事で若干検討したように、近時の「クール・ジャパノロジー」のキータームである「ネオテニー」をこそ読み込むべきなのではないだろうか(東浩紀編『日本的想像力の未来』)・・・この点、『戦国スクナ』のような、真正面から「かわいい」戦略として戦国時代の表象を扱う作品があることは興味深い。

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