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August 2010

寺社仏閣への立ち入りを禁ず

Mugi_2
まあ、勿論立ち入ったって良いのですが、ここは敢えて全スルーの方向で・・・ということで、先般、早めの墓参のついでに立ち寄った京都にて、半日ほどを費やして、ささやかながら『けいおん!』の聖地巡礼を敢行してきました。京阪宇治線木幡駅近くの京アニショップではミニセルが売られているのですが、常に品薄のようで、私が訪れたときにはムギしか(しかも一枚だけ)残っていなかったので、まあこれも何かの縁かと思い、携帯のカメラで撮影した叡山電車の修学院駅の画像と組み合わせてみました。
#直近の回であずにゃんが買出しに行ってたコンビニは、京阪木幡駅前の店舗だったようにも見えましたね(まあ、コンビニの内装はどこも似たようなものでしょうけど)。
##しかし、京アニショップの店員さんはとてもフレンドリーで良い方たちでした。

「巡礼者」を名乗るのははなはだおこがましいように思えるのだが、特段観光したいスポットが思い当たるわけでもなかったので、先般京都に訪れた際に、所謂「聖地巡礼」のようなものをしてみたいと思い立った。とはいえ浅学の身、ロケ地を諳んじることが出来るほどに思い入れが強いわけでもあり、行き当たりばったりに行を進めることと相成った。
というわけでまず朝一番に、京都の新京極にあるアニメイトに赴き、店舗限定版の八ツ橋を(いやがらせ的な)お土産として購入。まったく事前準備をしていなかったので、10:00の開店まで特にすることもなく、挙句にドトールに立ち寄ってコーヒーを飲む、という、普段とほとんど変わらない行動を取ってしまったのは我ながらいかがなものかと思うが、観光客の姿もまばらな新京極のアーケードにおいて、開店直後のアニメイトだけは人口密度がバランスを失するレベルで多かったことをどのように理解すべきか判断に迷うところであった(ちなみに隣接しているメロンブックスは11:00開店だったので、立ち寄ることを断念した)。たまたま京都にツアーで訪れていたらしいMay'nさんの店舗での撮影風景を横目で眺めながら河原町から京阪本線の祇園四条駅まで徒歩で移動し、中書島駅で京阪宇治線に乗り換え、次の駅の黄檗駅に心惹かれつつも木幡駅で下車。
京阪宇治線の木幡駅は本当に何の変哲もない郊外の駅で、一瞬どの方向に向かえばよいのか判断に迷ったが、降り立ったとたんに分かる人には分かる紙袋を提げて階段を下りてくる巡礼者の姿を見かけたので、駅前のコンビニの先にある京アニショップには難なくたどりつくことが出来た。ショップはアットホームな雰囲気のこじんまりとした店構えで、2~3名の巡礼者が巡礼の証の品を物色している中、私よりも数段徳が高いと思しき巡礼者がセルの説明を受けているのを横目で眺めつつ、ムギのミニセル(信心が足りないせいであろう、これ一枚のみしか残っていなかった)に加え、クリアファイル及びマウスパッドと、帰郷後にも徳をわけ与えるために『涼宮ハルヒの憂鬱』のカルタセットを求め、JR奈良線木幡駅の真ん前にある京都アニメーションのスタジオに巡礼の足を伸ばしてディスプレイされた『けいおん!』のポスターを眺め、京阪宇治線まで戻ることとした。
ここから先はあまりプランを立てていなかったのだが、とりあえず京阪本線で北上し、叡山電鉄で修学院駅まで向かうことにした。叡山電鉄には初めて乗ったのだが、基本的にはワンマン運転の路面電車に近い路線であり、地元の買い物客と観光客が半々、といった客層であった(先頭車両で路線の行く先を延々とビデオに収め続けている巡礼者がいたが、まあこれは別の宗派であったかもしれない)。昼近くになり、気温もかなり上昇しているようだが、基本的に駅前に何もない修学院駅で下車。なんとなく見たことがあるようなコンビニや寂れたアーケードなどをひとしきり冷やかしてから、白川通り沿いのマクドナルドに向かう。鉄道路線ではなくドライブスルーによる利用が見込まれている店舗のためか、駅からかなり遠かったが、なんとか特徴的な外観を備える店までたどり着き、特に所望したわけではないがなんだかかさばるストラップをもらい、遅い昼食となった・・・そもそも最寄り駅は修学院ではなく一乗寺だったことに気づいたのが、帰途についてからであったことはご愛嬌である。
その後は大して面白い行程ではない。京都中心部に戻って京都国際マンガミュージアムに赴き、特別展で海洋堂のフィギュア展示を眺め、フランス人観光客が「・・・BASARA?」と呟いていたのを耳にしたり、村田蓮爾drawing展で鉛筆の描線に感銘を受けたためか旅先でかさばる画集を求めてしまい、あまつさえかさばるポスターまでもらったりしてしまっただけのことである。

帰宅後足に豆が出来ていたことに気づいたが、総じて有益な巡礼であった・・・おや、手元にあるこのムギのfigmaはいったいなんだろう。

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日記をつけ終わって立ち上がるときの仕草が良いですね

Nami
ここんところ、まったくもって誰得なイラストばかり描いている気がしますが気にしません・・・ということで、『さよなら絶望先生』の<普通少女>日塔奈美が、きっと学園祭か何かのイベントで無理やり『ギャラクシーエンジェル』のミルフィーユ・桜葉のコスプレをさせられて、そのままいろいろプリクラ的に落書きされたという体で一つ。いったい誰に何を断っているのか自分でもよく分からなくなってきましたが(笑
#ちなみにタイトルは『さよなら絶望先生』の3期のEDから。あの手書き文字は新谷良子さんのものですかね?
(付記:『【懺・】さよなら絶望先生 絶望読本』によると、新谷さんの手書き文字だそうです。あと、「絶望レストラン」は第3期のEDでした。新谷さんが歌ってないのに映像は奈美が主役っぽい扱いだったので混乱したようです・・・すみません。(2010.08.11))

私はそれほど声優について詳しいわけではないが、物理世界に三次元としての身体をもって「存在」しつつも、主としてグラフィカルなイメージを随伴して表象される「キャラ」に「声」を与える、というその役割には、様々な側面からの分析が可能であるように思われる(私自身も部分的には過去に論じたことがある・・・なお、もとよりこの点は、パロールとエクリチュールをめぐる言語哲学へと開かれる問いであることは論を俟たないであろう)。
比喩として適切かどうかはなはだ心もとないが、この問題について検討するにあたっての補助線としてまず思い浮かんだのは、初期キリスト教会における三位一体説をめぐる神とキリストの関係、いわゆる「キリスト論」であった。周知のように、初期キリスト教においては、神とキリストの異質性を主張するアリウス派がニケーア公会議で異端として退けられ、更に、神性と人性の共存を主張するネストリウス派がエフェソス及びカルケドン公会議で異端として退けられているが、ここで注意を払うべき点は、そもそも三位一体説が唱えられる背景となっているのが、グノーシス主義的な二元論的世界把握への反駁であった、ということであろう。すなわち、三位一体論は「神がイエス・キリストを通して、精霊の力によって自分たちを救われたという古代教会の原体験の表白」なのであって、グノーシス主義のように「神のあり方に対する合理的認識」の水準で理解することと矛盾を来たすとされる(小田垣雅也『キリスト教の歴史』)・・・この、グノーシス主義と三位一体説の対抗軸は、おそらく、「キャラ」と「声優」の存在する位相を図式的に区分しようとする、あるいは、区分することが可能であると考えるか否か、という点についての立場の違いを再確認することにつながるであろう。そして、この点からいささか牽強付会に述べるならば、例えば新谷良子のように、基本的にどの「キャラ」を演じてもその固有名としての「新谷良子」のプレゼンスが色濃く投影されるタイプの「声優」の方が、とりわけ「原体験の告白」のような非論理的な包括的肯定を主張することに親和性が高いように思われる。
#誤解のないように述べておくが、このプレゼンスの濃密さは、少なくとも理論的には、演技の巧拙とは無関係である(新谷良子に関しては、さしあたり『ひだまりスケッチ』の沙英などが事例となるだろうか)。
しかし、この問題をメタ的に包み込む問題も存在する。これもまたはなはだ心もとないが、「キリスト論」がキリスト教という一神教の内部の正統と異端をめぐる論争であったのに対して、キリスト教の「外部」として存在する異端、すなわち、多神教との関係である(言うまでもないが、グノーシス主義はギリシャ哲学にその淵源を持っている)。この場合、そもそも「キリスト論」のような問題は生じることはなく、例えば道教の体系のように、その外延は無限に拡張を繰り返すことが可能である・・・言い換えるならば、一神教的な体系と比して、神の「固有名」のプレゼンスは相対的に低下することになる(これもまた言うまでもないが、キリスト教においても異教領域への布教の過程で聖人信仰などが導入されていく)。やはり牽強付会に言い換えるならば、たまさか偶然の産物として「声優」と「キャラ」が理想的な形で交錯するトポスにおいて、いつでもその「神性」は顕現する可能性があるということになるのかもしれない。
#もっとも、このあり方の方が、物理空間において身体性を帯びて「存在」する「声優」そのものに負荷をかけないという点で、よほど健康的であるようにも思われる・・・近時の平野綾をめぐる議論は、私の目にはなにやら、例えば『ライフ・オブ・ブライアン』に描かれたキリストの表象に対するキリスト者の態度を髣髴とさせる、はなはだ偏狭なものに映るのである(ギリシャ正教のイコンとの対比は別稿にて試みたい)。

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