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July 2010

神々の遊戯の黄昏

Yui
だーまえさすがだよ、という感じでしっかりと「死んだ世界戦線」を描ききった『Angel Beats!』に敬意を表して、ユイにゃんを描いてみました。AB!についてはまたあらためて語りたいと思うのですが、時宜を失しないレベルでやはりこのネタは書いておかねばならない、と思いましたので、作中実行されたジャーマン・スープレックスではなく、エメラルド・フロウジョン(後期型)にしてみました。誰得、という感じですがまあそれはそれで。
#ホントはタイガーフロウジョンにしようと思ったのですが、上手い構図の写真が見つからなかったので・・・。

昨年、すなわち2009年の「6月13日」という日付は、私にとってこの一年間、奇妙に現実味の無い、暗渠のようなものであり続けた(個人的な事情として、当日夜外出しており、徹夜明けで帰宅後に寝てしまっていて、夕刻に起床したときに訃報に接した、ということが、時間感覚の拠りどころのなさを増幅していたのかもしれない)。あの三沢光晴が、リング上で命を落としたという事実を、私はにわかに信じかねていた・・・そんな折、たまたま数日後に見ていたテレビ東京系列の『ワールドビジネスサテライト』の中で、まったく脈絡も無い映像(何かの工場の紹介だったと記憶している)のBGMに「スパルタンX」が流れたことが、今でも印象的に思い起こされる。
このブログでも過去に何度か書いたことがあるが、ロラン・バルトが先駆的に指摘しているように、プロレスは「神話的戦いの一種」であり、そこで追求されているのは単なる「勝ち負け」ではなく、「勝ち/負け」を解釈する解釈者側の「強さ」のコード(以前の記事では、そのコードを技の「説得力」としていたが)のありようである。そして、単なる「勝ち負け」を超えて、「強さ」の記号をまとうのは、他ならぬプロレスラーの身体である・・・すなわち、リングという「劇場における彼の身体と動作がそのまま『強さ』の表現と化すこと」によらなければ、「単に勝利すること」を超えた「神話的戦い」としてのプロレスを成立させることは出来ないが、そうであるならば、とりわけ「それまでのプレーを刷新する革命的なスタイル」を体現しようとするのであれば、そのプロレスラーの身体には、そのスタイルが「濃密に凝縮」されることになる(澤野雅樹「神々の演劇」(『現代思想』30巻3号所収))。
よく知られているように、三沢光晴は決してプロレスラーとしては恵まれた体格を持っていたわけではない。その三沢がトップレスラーとして一時代を築いた全日本プロレスにおける所謂「四天王プロレス」の背景には、三沢の卓越した「受け身」の技術があったこともまた、よく知られている。しかし、三沢の受け身の技術への信頼感から、フィニッシュブロウの「説得力」が、垂直落下式の技などに代表される「危険度」と等号で結ばれがちであり、それゆえに「四天王プロレスがプロレスをダメにした」という批判があったことに対して、三沢自身は「ダメにはしてないよ」と明瞭に答えている。「四天王」の一角であった小橋健太(現:建太)が当時母親に「俺に何かあっても三沢さんを恨まないでくれ」と伝えたという、これもよく知られたエピソードに反して、三沢は「オレは勝つために技をやっているのであって、ケガをさせるためにやっているわけじゃない。それがプロレスの技なんであって」「技をかけるにしてもある程度のフォローは必要だと思うしね」と述べている(『週刊プロレス別冊 四天王プロレス』)。
「レッスルする世界」においてバルトが述べるように、プロレスにおける「強さ」の記号は、観客による解釈によって担保されている(『神話作用』)。プロレスに批判的な言説がしばしば問題化する、プロレスの「ルール」の曖昧さ(例えば、一定程度の反則が許容されることなど)は、この解釈の構造によって説明することが出来るであろう。H.L.A.ハート風に説明するならば、リング内において犯される反則行為は「一次ルール」であり、その反則行為を是認するかどうかは「二次ルール」として観客の解釈に委ねられる・・・これもしばしば批判的に言及される、プロレスの「ショー」としての側面、すなわち、あらかじめ勝敗が定まっているという点も、仮にプロモーターがその結果を決定していたとしても、その結果が観客によって是認されなければ、結局その試合における「勝者」は観客に支持されない、というルールのメタ構造によって説明出来るであろう。しかしこれは、裏返して述べるならば、観客(「その試合の観客」だけではなく、プロレスという「神話」に向き合うものすべてがこの概念には含まれるが)が是認するのであれば、ここにおいて導入される「強さ」は、必ずしも身体の順接的な(物理的)「強度」と比例している必要がないことを意味している・・・バルトが「レッスルする世界」においてアメリカンプロレスを素材として取り扱っていることは、このことを摘示するためであると言えよう。
「四天王プロレス」は、技の「説得力」のコードが、リング内のプロレスラーの身体における「内在的な法」(澤野前掲「神々の演劇」)によって担保される、ある種極めて理念化された、しかしそれ故に一回性のある「神話」であった。その「内在的な法」によって読み込まれた「強さ」という解釈に、「神話的戦い」のアクターの物理的な身体が耐えられなくなったとき、きっと悲劇は起こるのだろう(上述のハートの「ルール・システム」も、結局「承認のルール」という「外部」を必要としたことに留意されたい)。しかし、その悲劇すらも「不謹慎なことはわかっている、でも言わせてほしい」との慎重な留保を附しながらも、「リングで倒れるなんてレスラーとして最高の幕引きじゃないですか」との言葉を発せさせずにはおれないほどに(柴田惣一(『東京スポーツ』2009年6月19日版))、三沢というプロレスラーは「神話的」であったのだろう。

遅ればせながら、三沢光晴選手のご冥福を心よりお祈り申し上げます。有難うございました。

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水星基準なら何の問題もありません

Komoe
・・・大変ありがちなネタで恐縮なのですが(水星の公転周期は87日なので)、世の中の流行りに敢えて逆らいつつ、『とある魔術の禁書目録』の月詠小萌先生を描いておきます。「誰がどう見ても黄色い安全帽に真っ赤なランドセル、ソプラノリコーダー標準装備の十二歳にしか見えない」と原作で明記されてしまっていますが(1巻63-64頁)、設定上れっきとした成人であり、この世界でも大正11年制定の法令がなお現行法だったとしても、彼女がビールを飲むことはまったく法に触れる行為にはなりません・・・あくまで設定上は。
#ちなみにこの水着も勿論、特段何かを記号的に指し示しているわけではありません。「人の年齢を想起させる事項」がこれで表示されたと考えるのであれば、それは相当のコンテクストに依拠した判断だということになりますね。
##ひょっとして、ゼッケンがついてたらアウト、とかなんでしょうか(笑

「首都大戦」とも形容された(永山薫・昼間たかし編著『マンガ論争2.5』)東京都青少年保護育成条例改正問題をめぐる、主としてインターネット上の媒体を用いて行われた論争は、現在小休止、といった様相のようであるが、個人的には、フジ系列の「ノイタミナ」の番宣の枠を使う形で、ニコニコ生放送と接続する形で放映された特番の中で、そもそも通過することなど想像できないレベルの杜撰な改正案なので、当該改正案について憲法学者はまともに取り上げないのだ、といった趣旨のことを、白田秀彰(情報法・知的財産権法)がコメントしていたのが印象深かった(なお、番組自体は大変にグダグダであったが、試みとしては一定程度評価できるように思う)。無論私は憲法の専門家でもなんでもないが、上述のコメントにはなかなか考えさせられるところがあった・・・と言うのは、法学というディシプリンは、それが暴力を取り扱うという性質を帯びる以上不可避の問題であるが、論理性と体系性を重んじるが故に過度に難解なものであるとの印象を抱かれがちであり、確かに、一連の論争の中で憲法学の知見が引証されることがあまり多くは無かったように思われたからである。そこで、周知の議論であることは十分に踏まえた上で(かつ、専門外の立場からの乱暴な印象論であることを言い訳した上で)、当該条例改正案に対して反対の立場表明も行っている長谷部恭男の論に主に依拠しながら、いくつかの論点についての私的なコメントを附してみたい。
#なお、長谷部の『Interactive憲法』は、始めから2番目に附された注が「〆張鶴」についてのものというなかなかイカした本である(ちなみに最初の注は「ユーモア感覚にすぐれた公法学者は絶滅寸前の希少生物」である旨のコメント)。一読を薦めたい。
長谷部の要を得たまとめに従うと、まず、表現の自由の保障の一般的な根拠としては、1)民主的政治過程の維持、2)個人の自律およびそれに基づく人格的発展、の二つが掲げられるが、このうち後者からは、2-a)自分で考えて自律的に生きることの不可欠の前提としての「表現行為」に係る「情報の送り手の自由」と、2-b)自律的な個人が政府の先見的な判断に拠らずに自分で「何が正しく何が誤った見解であるかを判断」すべきであるとすれば、その不可欠の前提としての「情報の受け手の自由」が基礎付けられる。またこの際、3)情報を送る気も受け取る気も無い「傍観者」についても考慮される必要があるが、表現行為に基づく「傍観者の負担」のうち、3-a)ロックバンドの演奏による騒音やビラ撒きによるゴミのような負担については、憲法学は「時・所・場所に関する規制」で対応するが、3-b)騒音やゴミのように「はっきり五感では感じられないもの」に関しては、3-b-1)自分にとって嫌悪感を催させる看板を目にしたくない、というような「傍観者の利益」を保護するのであれば「時・所・場所に関する規制」で対応可能である一方、3-b-2)「共産主義の出版物が流通することによって、誰かがそれに影響・感化されるということ自体が耐えられない」とか「ポルノグラフィーを他の誰かが読んで、その自由な道徳観念に魅力を感ずること自体が厭わしい」というような「傍観者の利益」を尊重しようとするならば、「本やポスター、映画が共産主義的であるか、あるいはポルノであるか等という、表現の内容に即した規制が必要となる」。憲法学において表現の自由が優越的に遇され、司法審査においても他の一般的自由に比して厳格な審査基準が適用されるのは(「二重の基準」論)、それが1)の民主的政治過程の維持に加え、3-b-2)のような「内容に基づく規制」が「他人の権利や利益を侵害しているからという結果に着目した理由ではなく、自分の選択した生き方や考え方が根本的に誤っているからという理由に基づいて否定され、干渉される」ことに帰着するためである。そして、このような個人の根源的な平等性を根拠とする「切り札」としての権利という概念から、逆に、個人の選択に正当に干渉しうる基準としての他人に対する「害悪」の範囲を確定することが出来る。すなわち、「個人の道徳的自律性の否定を前提としてしか成り立ちえないような「害悪」の観念は、政府が表現行為を制約する根拠とはならない」が、政府が規制の正当な根拠を挙げることが出来る場合は、対象となる行為が「何らかの思想や主張」を含む「表現」であるか否かによってその規制の当否を判断する必要がある(長谷部『テレビの憲法理論』(弘文堂、1992年)1-22頁)。
以上のような論理に基づく、既存の猥褻物に関する判例に見られる、1)情報の受け手の保護、2)社会全体の道徳秩序の維持、3)第三者の利益保護、という正当化理由についての長谷部の立場は極めて明瞭である。すなわち、1)情報に接することを強制される状況にない以上、情報の受け手本人を保護する必要は無い(この種のものを「熱心に読んだり視聴したりする人々は、困惑や不快感も覚えず、また道徳的にはすでに堕落した人々であると考えられるから、もはやその道義観念を維持する利益は失われている」!)、2)「社会の多数派が正しいと思う道徳」があったとしても、多くの人々が正しいと考えているという「事実」から「守られるべき」という規範的結論は帰結できない。すなわち、「多くの人々がある道徳を正しいと考えているという事実にもとづいて、その道徳に従わない人々を法によって処罰しようとするとき、政府は、個人の平等な道徳的自律性を明らかに侵害している」、3)第三者の利益保護が目的であれば「猥褻物全般の一律規制ではなく、表現の時・所・場所に応じた規制で必要にして十分」だが、上述のように、対象となる行為が「何らかの思想や主張」を含む「表現」であるか否かによって、審査基準を変える必要がある(24-26頁)。今回の、東京都青少年保護育成条例改正問題をめぐる論戦は、主として2)の事由をめぐるものであったという印象があるが、おそらく、議論されるべきだったのは、3)の「時・所・場所」をめぐる具体的な方法論(ゾーニング)の問題であったであろう。このような長谷部の見解が、憲法学者の間で決してラディカルに過ぎるものでないことは、例えば、『憲法判例百選I〔第5版〕』に含まれる『悪徳の栄え』事件に関する解説において、阪口正二郎が「なぜ国家が性道徳や性秩序を維持すべきなのかは明らかではない・・・見たくない人が強制的に見せられることの防止であればともかく、一般的な精神的社会環境を「国家」が判定しそれを維持することは許されぬ「お節介」である」と述べていることからも推測されるところである(119頁)。確かに、ヘーゲルのように「人間のもつすべての価値と精神の現実性は、国家をとおしてしかあたえられない」とでも理解するのでなければ(『歴史哲学講義(上)』(岩波文庫、1994年)、73頁)、国家にその種の倫理や道徳の実施を委ねる、ということはおよそ想定しかねる事態である。
長谷部の、また、長谷部を始めとするいわゆる「55年世代」の憲法学者が議論の中核に据える価値の一つが、「人々の生活領域を私的なそれと公的なそれとに区分」し、「私的な領域では、各人の価値観・世界観に沿って生きる自由が保障される」こと、「公的な領域では、価値観・世界観の違いにかかわらず、社会全体に共通する利益(公共の福祉)を実現する方策が、冷静かつ理性的に審議されなければならない」ことを要請するという意味での「立憲主義」であるが(長谷部「立憲主義」(『憲法の争点〔新・法律学の争点シリーズ3〕』6-7頁)、上述の長谷部や阪口の理解が、この意味での「立憲主義」と親和性が高いことは、改めて指摘するまでもないであろう。そしてまた、改めてフーコーを引くまでもないことではあるが、「性」は密接に「権力」と絡み合った問題系である・・・例えば、東京都青少年保護育成条例改正問題をめぐる議論で頻出する「公序良俗」という概念は、「公序」と「良俗」が支えあう管理システムである(桑田禮彰『フーコーの系譜学』講談社選書メチエ、1997年)、230頁)。長谷部の「立憲主義」概念の中核には、ジョセフ・ラズの議論を参照した「比べようのないもの(incommensurability)」についての理解があるが(長谷部『比較不可能な価値の迷路』東京大学出版会、2000年)、そもそも「性」をめぐる問題こそは、まさに「比べようのないもの」ではなかったか。

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