神々の遊戯の黄昏

だーまえさすがだよ、という感じでしっかりと「死んだ世界戦線」を描ききった『Angel Beats!』に敬意を表して、ユイにゃんを描いてみました。AB!についてはまたあらためて語りたいと思うのですが、時宜を失しないレベルでやはりこのネタは書いておかねばならない、と思いましたので、作中実行されたジャーマン・スープレックスではなく、エメラルド・フロウジョン(後期型)にしてみました。誰得、という感じですがまあそれはそれで。
#ホントはタイガーフロウジョンにしようと思ったのですが、上手い構図の写真が見つからなかったので・・・。
昨年、すなわち2009年の「6月13日」という日付は、私にとってこの一年間、奇妙に現実味の無い、暗渠のようなものであり続けた(個人的な事情として、当日夜外出しており、徹夜明けで帰宅後に寝てしまっていて、夕刻に起床したときに訃報に接した、ということが、時間感覚の拠りどころのなさを増幅していたのかもしれない)。あの三沢光晴が、リング上で命を落としたという事実を、私はにわかに信じかねていた・・・そんな折、たまたま数日後に見ていたテレビ東京系列の『ワールドビジネスサテライト』の中で、まったく脈絡も無い映像(何かの工場の紹介だったと記憶している)のBGMに「スパルタンX」が流れたことが、今でも印象的に思い起こされる。
このブログでも過去に何度か書いたことがあるが、ロラン・バルトが先駆的に指摘しているように、プロレスは「神話的戦いの一種」であり、そこで追求されているのは単なる「勝ち負け」ではなく、「勝ち/負け」を解釈する解釈者側の「強さ」のコード(以前の記事では、そのコードを技の「説得力」としていたが)のありようである。そして、単なる「勝ち負け」を超えて、「強さ」の記号をまとうのは、他ならぬプロレスラーの身体である・・・すなわち、リングという「劇場における彼の身体と動作がそのまま『強さ』の表現と化すこと」によらなければ、「単に勝利すること」を超えた「神話的戦い」としてのプロレスを成立させることは出来ないが、そうであるならば、とりわけ「それまでのプレーを刷新する革命的なスタイル」を体現しようとするのであれば、そのプロレスラーの身体には、そのスタイルが「濃密に凝縮」されることになる(澤野雅樹「神々の演劇」(『現代思想』30巻3号所収))。
よく知られているように、三沢光晴は決してプロレスラーとしては恵まれた体格を持っていたわけではない。その三沢がトップレスラーとして一時代を築いた全日本プロレスにおける所謂「四天王プロレス」の背景には、三沢の卓越した「受け身」の技術があったこともまた、よく知られている。しかし、三沢の受け身の技術への信頼感から、フィニッシュブロウの「説得力」が、垂直落下式の技などに代表される「危険度」と等号で結ばれがちであり、それゆえに「四天王プロレスがプロレスをダメにした」という批判があったことに対して、三沢自身は「ダメにはしてないよ」と明瞭に答えている。「四天王」の一角であった小橋健太(現:建太)が当時母親に「俺に何かあっても三沢さんを恨まないでくれ」と伝えたという、これもよく知られたエピソードに反して、三沢は「オレは勝つために技をやっているのであって、ケガをさせるためにやっているわけじゃない。それがプロレスの技なんであって」「技をかけるにしてもある程度のフォローは必要だと思うしね」と述べている(『週刊プロレス別冊 四天王プロレス』)。
「レッスルする世界」においてバルトが述べるように、プロレスにおける「強さ」の記号は、観客による解釈によって担保されている(『神話作用』)。プロレスに批判的な言説がしばしば問題化する、プロレスの「ルール」の曖昧さ(例えば、一定程度の反則が許容されることなど)は、この解釈の構造によって説明することが出来るであろう。H.L.A.ハート風に説明するならば、リング内において犯される反則行為は「一次ルール」であり、その反則行為を是認するかどうかは「二次ルール」として観客の解釈に委ねられる・・・これもしばしば批判的に言及される、プロレスの「ショー」としての側面、すなわち、あらかじめ勝敗が定まっているという点も、仮にプロモーターがその結果を決定していたとしても、その結果が観客によって是認されなければ、結局その試合における「勝者」は観客に支持されない、というルールのメタ構造によって説明出来るであろう。しかしこれは、裏返して述べるならば、観客(「その試合の観客」だけではなく、プロレスという「神話」に向き合うものすべてがこの概念には含まれるが)が是認するのであれば、ここにおいて導入される「強さ」は、必ずしも身体の順接的な(物理的)「強度」と比例している必要がないことを意味している・・・バルトが「レッスルする世界」においてアメリカンプロレスを素材として取り扱っていることは、このことを摘示するためであると言えよう。
「四天王プロレス」は、技の「説得力」のコードが、リング内のプロレスラーの身体における「内在的な法」(澤野前掲「神々の演劇」)によって担保される、ある種極めて理念化された、しかしそれ故に一回性のある「神話」であった。その「内在的な法」によって読み込まれた「強さ」という解釈に、「神話的戦い」のアクターの物理的な身体が耐えられなくなったとき、きっと悲劇は起こるのだろう(上述のハートの「ルール・システム」も、結局「承認のルール」という「外部」を必要としたことに留意されたい)。しかし、その悲劇すらも「不謹慎なことはわかっている、でも言わせてほしい」との慎重な留保を附しながらも、「リングで倒れるなんてレスラーとして最高の幕引きじゃないですか」との言葉を発せさせずにはおれないほどに(柴田惣一(『東京スポーツ』2009年6月19日版))、三沢というプロレスラーは「神話的」であったのだろう。
遅ればせながら、三沢光晴選手のご冥福を心よりお祈り申し上げます。有難うございました。


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