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June 2010

「じんがい」か「にんがい」かで読者層がわかります

Tekeli_2
・・・前者が小栗虫太郎、後者が中井英夫なので実はあまり違いはないようにも思いますね(笑)。ともあれ、静川龍奈/文倉十『うちのメイドは不定形』のテケリさんを描いてみました。原案の森瀬繚さんはさすがに「わかっている」方で、あとがきがものすごくベタなよい感じに仕上がっています。しかし、ヒロインに「あさひ・ピーバディ」とかつけられてしまうと、それだけで笑えてしまって困ったものです。『這い寄れ!ニャル子さん』も順調に巻数を重ねていることですし、もういっそこういうジャンルが成立したのだ、と言ってしまっても過言ではないような気が・・・おや、誰か来たようだ。
#とはいえ、さすがに『魔海少女ルルイエ・ルル』はどうかな、という気がします。読みましたけどね(笑
#とらで買ったらオマケで外伝がついてきましたよ(笑

今更説明するまでもなく、クトゥルフ神話は、1920年代にラヴクラフトとそのサークルによる相互参照により生み出されてより、現在でもなお世界中でフォロワーを増やし続ける優れた「体系」であるが、それがきわめて広範囲に拡大してもなおクトゥルフ神話としての「体系性」を維持しつづけていることの背景には、第一に、どれほど後代のフォロワーであっても、自らが紡ぐ物語が「神話体系」に連なっている、というベクトルを強く意識しながら作品を作っている、という点が挙げられるであろう。しかしこのことは、そもそものクトゥルフ神話の「体系」自体が、ラヴクラフトとその同時代のフォロワーによる固有名詞(及び、固有名詞によって名指された対象の作品内の関係)の相互引用、という、きわめてシンプルな構築物であることに大きく依存しているように思われる・・・すなわち、既存の固有名詞の間の指示関係のネットワークが緊密な形で閉じていないがゆえに、クトゥルフ神話の「体系」の外部には、既存の「体系」と矛盾しない新たな「体系」を拡張する余地がかなり広く用意されているのである(大塚英志的に表現するならば、「ビックリマン」の既存の772枚の「オフィシャル」なシールと整合性のある「773枚目のシール」を、クトゥルフ神話においてはほぼ無限に作り出すことが出来る)。この構造が、「物語消費」的なシミュラークルのあり方に親和性が高いことは言うまでもない。
しかし一方で、例えば近時の『這い寄れ!ニャル子さん』のような作品は、極論すれば、固有名詞(とその背後にあるルール群)を「クトゥルフ神話」に借りただけの作品であり、「体系」との整合性はほとんど顧慮されていないように見え、その意味で「データベース消費」的ですらある・・・しかしそもそも、1920年代に作られた「オリジナル」の「体系」自体がシミュラークルによって形成されている以上、クトゥルフ神話における「オリジナル」と「シミュラークル」の位相は最初からかなり相対的である。これらの作品もまた、「物語消費」的に「体系」の外部に位置づけることも理論的には不可能ではないのではないか、と思わせるところ、すなわち、「物語消費」と「データベース消費」の双方の特徴を併せもつところが、あるいは、クトゥルフ神話の名状し難い魅力なのかもしれない。

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セカイに向かってドラグスレイブ!

Amelia なぜこのタイミングで、という気もしますが、先般別件で(どの件とは特定しませんが察してくださいw)、自身の嗜好を言い当てられてしまったような気がしたもので、さしあたりその類型に属するキャラでぱっと思い当たった『スレイヤーズ』のアメリアを描いておきます。鈴木真仁は最近あまり声を当ててませんが、この類型のキャラははまり役が多いですよね。『赤ずきんチャチャ』とか。

近時、ちょっとした理由で速水健朗『ケータイ小説的。 ”再ヤンキー化”時代の少女たち』(原書房、2008)を比較的詳しく読む機会があった。速水は、その内容が文学としては(あるいは、エンターテインメントとしても)はなはだ希薄であると揶揄されながらも、ゼロ年代において「ケータイ小説」が確実に一定数以上の読者を獲得したことの背景に、浜崎あゆみの楽曲との不即不離の関係があることを指摘し、とりわけ、「東京」を意識しない地方の「ヤンキー文化」においてそれが広く受容されたことを説得的に論証しており、この分析は、濱野智史が摘出する「操作ログ的リアリズム」と併せて考えることで(『アーキテクチャの生態系』)、かなりの程度ゼロ年代の(とりわけ地方における)「リアル」に接近したものであると言えるように思われる。

ところで、速水の分析によると、「笑わない歌姫」「遅れてきたヤンキー」という背景に支えられて、「ケータイ小説」に「リアル」を見出すヤンキー少女たちの<自意識>を支えた浜崎あゆみの楽曲の特徴として、1)回想的モノローグ、2)固有名詞の欠如、3)情景描写の欠如、の3点が挙げられている。浜崎は1998年にデビューし、翌年にブレイクを果たしているが、浜崎のデビューよりも若干早く、1995年から1998年にかけて地上波及び劇場版で放映された『スレイヤーズ』シリーズの主題歌を手がけた林原めぐみの楽曲が、向いているベクトルは浜崎とはまったく逆でありながらも、上記の1)から3)の特徴をほぼ共有していることは、いささか興味深い現象であるように思われる。

前島賢は、1995年から96年にかけて放映された『新世紀エヴァンゲリオン』、とりわけその後半において(さまざまな外部的要因の影響もあって)展開された<自意識>をめぐる語りのあり方は、アニメというメディアの内部ではなく、むしろ、ライトノベルとビジュアルノベルという「オタクの文学」に継承されたと述べた上で、前者のメルクマールとして上遠野浩平の『ブギーポップは笑わない』を挙げる(『セカイ系とは何か』)。この指摘自体はおおよそ妥当であるように思われるが、そうであるならば、<自意識>について語りだす前のライトノベル、すなわち、『スレイヤーズ』に代表されるようなソーズ・アンド・ソーサリーの世界観を踏まえた冒険活劇は、果たしてどのように位置づければよいのであろうか・・・無論これらをプレ『エヴァ』世代のオタクトライブに最適化された「閉じた」作品群であると評価することは簡単であり、おそらくある程度は妥当でもあろう。しかしそうであるとするならば、なぜ林原はわざわざ、これらの作品群に対して、ごく抽象的な「もっと自分を大切にして」「立ち止まって休むのもいい」といった、「前向きに生きること」に関わるナイーヴなメッセージを添えなければならなかったのだろうか。

ゼロ年代前夜に林原が歌っていた、前向きだけれども極端なまでに抽象的な「生きること」に関するメッセージを含んだ楽曲は、後に<セカイ系>と名指しされる「オタクの文学」に回収されるものとは別の、すなわち、活字メディアとは違う形で<自意識>をめぐる葛藤を紡ぐ場の存在を示しているようにも思われる(この点、林原(や、当時の声優たち)の主要な活躍の場が、古典的なUGCの生成の場であるラジオ番組であったことは興味深い事実である)。そしてまた、荒唐無稽な冒険活劇である『スレイヤーズ』が、そのかなり荒っぽい舞台装置に反して、その内部にかなり微細な人間関係を読み込むことも可能な作品となっていること(勿論、シリーズを継続させるという目的があってのことだが、例えば、アメリアとゼルガディスのつかず離れずの関係は、端的に、恋愛の成就や破局といったカタルシスを予測させないような、周到な「終わらない日常」である)は、草創期のライトノベルが、前近代を舞台としながらも、すぐれて現代的な問題意識に導かれていることを示してもいるであろう。

#なお、林原の楽曲のポジティヴな側面が、奥井雅美を媒介する形で、ゼロ年代においてJAM-Projectに流れ込んでいくことは、ある意味きわめて象徴的である・・・ナイーブに<自意識>を語るのではなく、影山ヒロノブや遠藤正明らの「叫び」によって、現代のオタクたちは「リアル」なポジティヴを感じるのであろう。

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