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March 2010

にゃんにゃんぴっぴにゃんぴっぴ、なの

Shizuku
誰がどう考えてもこれは『究極超人あ~る』ネタだよなあ、ということは3000万人くらいの人が既に指摘してるんじゃないかと思いますが、『おまもりひまり』のED曲「BEAM my BEAM」の小道具つきの静水久を描いてみました。なんとまあ確信犯的にダメな作品であることよ、と、詠嘆調で語ってしまいたくなるほどにすがすがしくもダメな作品です。ですがそこが良いのです(笑
#CMがまたものすごくダメな出来で、逆にツボに入ってしまいました(笑

『おまもりひまり』は、妖怪を退けるシャーマンである「鬼斬り役」を主人公とし、過去の因縁によってその「護り刀」の立場に回った猫の妖怪をヒロインとする、所謂「伝奇もの」であり、主人公側に相対する妖怪には酒呑童子と玉藻前が配される、大変豪華な作品である。しかし、一話でも実際に鑑賞した経験があれば直ちに了解されることであるが、『おまもりひまり』における「伝奇もの」の構成要素たる一連の超自然的な存在や現象には、作中における最低限度の因果関係と整合性こそ保たれている(少なくとも、保とうとしている)ものの、例えば、それぞれの妖怪がどのような由来を持ち、どのような自然現象との類比性を喚起するのか、といったような、作品の外部における因果関係や整合性には、まったくといって良いほど関心が払われていない。
とはいえ、『おまもりひまり』が際立って歴史的なパースペクティヴを欠いているということを指摘したいわけでは勿論ない。ここで指摘したいのは、『おまもりひまり』という作品は、「伝奇もの」という物語構造を採用していながら、「伝奇もの」が喚起しようとしてきた感覚、例えば、歴史的な因縁を持った前近代的(呪術的)な感性や、そのようなものに相対したときに人類が感じてきた畏怖といった感覚をを呼び起こしたいわけでは無いようである、ということである。『おまもりひまり』における「妖怪」は、いわば、「比較不可能な価値」を表象する<他者>であり、物語の関心は、<他者>との共存のために奮われる<暴力>が是認されるべきかどうか、というテーマにもっぱら向けられる(これはこれで古典的な哲学的命題である)。言い換えるならば、『おまもりひまり』においては、「妖怪」は特段「あやかし」である必要は無いのである・・・そして、これも言うまでもないことだが、近時発表される「伝奇もの」を想起させる舞台装置を備えた作品には、ほぼ同じような構造が例外なく看取されるようである(『空の境界』など)。
このような、いわば「ガジェット」としての超自然的なものの導入は、同様にSFやファンタジーにおいても進行している現象である(人口に膾炙した例を挙げるならば、最近改めて原作を読んでみたのだが、『とある魔術の禁書目録』においては、<魔術>も<超能力>もそれ自体では固有の意味を持つものではなく、ストーリーテリングにおいて必要であるという理由で導入された、いわば書割のようなものでしかない)・・・このこと自体はおそらく、特段非難されるべき問題ではなかろう。ただ、間接的には、これらの要素が単なる「ガジェット」として、いわば書割のように消費されることによって、伝奇やSF、ファンタジーといったジャンルについて、それそのものとして固有の感覚を喚起するような作品が再生産される契機がどんどんと失われていくであろうことは、憂うべきことである。
しかし、翻って考えるならば、『おまもりひまり』に見られるような、いわば確信犯的な「底の浅さ」は、伝奇ものやSF、ファンタジーといった固有の文法があることを十分に認識した上で、敢えてその約束事(コード)を攪乱しようとする、軽やかな「逃避」の身振りなのかもしれない・・・少なくとも、ウィキペディアレベルの知識でこの種のジャンルの作品を世に問う、という試みについては、そう想像する以外には私には理解の術が無いのである。

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時速5キロじゃ追いつけないよ

Skuld
学生時代にさんざん描いたので、いまでも何も見ずに描けるかと思っっていたのですが・・・実際描いてみたら意外とうろ覚えだったので、記憶を更新する意味も込めて『ああっ女神さまっ』のスクルドを描いておきます(確かに考えて見れば10年ぶりくらいに描きました)。原作は20巻くらいで買うのをやめてしまったのですが、画集を見ると、絵柄の変化もあってか、意匠がいろいろ変わってるんですね・・・いつのまにスクルドは真ん中分けじゃなくなったのだ(笑
#タイトルは・・・まあわかる人にはわかるでしょうから察して下さい(笑

電波ソングの大御所MOSAIC.WAVの「空から女の子が降ってくる街」(『Superluminal Ж AKIBA-POP』所収)は、電波ソングとしての完成度が極めて高い作品だが、同時に、いくつかの点において「ゼロ年代」もしくは「ネクスト・ディケイド」(「テン年代」はなんだか格好が悪いので、さしあたりこう呼称しておきたい)のオタク系文化の特色をかなり直截な形で反映しているというところでも興味深い楽曲である。
まず、タイトル自体が示しているように、この楽曲のテーマ自体が、さながら「風物詩」のように「空から女の子が降ってくる」というゼロ年代のコンテンツ状況を踏まえたものであるが、構造として秀逸なのは、空から降ってきているにも関わらず、わざわざ毎朝角を曲がるたびにクラッシュしたり、空から降ってきた女の子だけで新たに設置された「降ってきた女の校」(この言語センスもスゴい)に転校?したりするといったきわめてベタなラブコメのシチュエーションを、構造上の矛盾を気にせずに過剰なまでに盛り込んでいるところであろう。これは、きわめて自覚的な形で導入された「自己言及性」であり、「空から女の子が降ってくる街」が、正しくゼロ年代の「セカイ系」的コンテンツの展開の延長線上に展開された楽曲であることを確認されよう(前島賢『セカイ系とは何か』・・・なお、「自己言及性」が「高度化された近代社会」としての「後期近代」のキー概念であることは、ギデンズをはじめ多くの論者が指摘するところである(『モダニティと自己アイデンティティ』))。
#作中名指しされる最初の類型が「世界のために戦う少女」であるところは、いささかヒネリが無いくらいに順接的である・・・これと対比すると、「押しかけ女房」はいささか時代がかった、80年代的なイコンであると言えよう。
一方で、「空から女の子が降ってくる街」として、いかにも「AKIBA-POP」らしい「UDX」以外の地名に、二つのカテゴリがあることは注目されて良いように思われる・・・すなわち、かたや「埼玉・千葉・神奈川」という、典型的な東京の「郊外」が挙げられる一方で、「景色のいいとこ」として「尾道・神戸・鎌倉」が固有名を挙げて名指しされているのである。言うまでもないが、尾道や神戸や鎌倉は、ゼロ年代以前のコンテンツにおいて頻繁に用いられたロケ地であり(この点、『かみちゅ!』の舞台が尾道であることは、その製作に深く関わった倉田英之の感性との関わりからもきわめて象徴的である)、「郊外」は、宇野常寛が指摘するように、ゼロ年代の「サヴァイブ系」コンテンツが舞台に選ぶエリアであるが(『ゼロ年代の想像力』)、興味深いのは、「空から女の子が降ってくる街」における「郊外」は、(「サヴァイブ系」のコンテンツが展開される)「木更津」や「池袋」といった固有名で名指しされない、空虚な「エリア」としての「郊外」でしかないところである・・・これは、意識的かどうかはともかくとして、「サヴァイブ系」のコンテンツにおいてローカルなコミュニティにおける人間関係を前景化させる舞台装置である「固有名のある郊外」と、京アニ的な「萌え四コマ」の「終わらない日常」を支える過剰にリアルな背景のロケ地(黒瀬陽平「新しい「風景」の誕生」(『思想地図』vol.4所収))としての「固有名の無い郊外」という二重構造を、奇しくも反映しているのではなかろうか。

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宮子の日焼け跡はどうやってついたのか

Yoshinoya_2
・・・どうやってもああいう形で肉球の跡がつくようには思えんのですが、いつのまにかコレが宮子を示すアイコンになっているようですね。というわけで、シリーズを重ねるごとに洗練の度合いを増す『ひだまりスケッチ☆☆☆』の吉野屋先生に、何の必然性もありませんが『Queen's Blade』のレイナの鎧を着せてみました・・・いや単に、たまたまリボルテック版のレイナをもらったもので、使わなきゃソンかなあ、と思いまして。しかし、あの世界観だから許されるデザインなのだということが改めて確認できました。このデザインはマズいですいろいろと(笑
#ちなみに、昨日勢いで『玉座を継ぐ者』のビジュアルブックを買ってしまったのは秘密です(笑

※折角だから地上波の最新話見てから、と思ったので、本文更新が遅れました。すみません。
宇野常寛は、「ゼロ年代総括座談会 アニメ編」(『ゼロ年代のすべて』所収)において新房監督+シャフト作品の評価を述べる件で、『ひだまりスケッチ』を「ストレートにオヤジ的な欲望を前面化していて、圧倒的に閉じている」とするが、これに対し黒瀬洋平は同作について「萌えアニメの純粋化に進んだ」ことの結果として「すごく形式的な実験ができていたし、そこからむしろ、いわゆるステレオタイプな萌えアニメの解体を目論むこともできたかもしれない」と擁護の論陣を張り、その対比として、『ぱにぽにだっしゅ!』の(黒板ネタに代表される)「閉じた」表現の限界に言及している。
言うまでも無く、『ひだまりスケッチ』は、美術科を舞台とするという点での特殊性はあるものの(同様の傾向は近時『GA』や『表色89X系』などにも、近時増加傾向にあるようである)、作風全体としては「空気系」とも評される所謂「萌え四コマ」に分類される作品である。この「空気系」は、「ポスト・セカイ系のオタク系文化」において、『灼眼のシャナ』などの「現代学園異能」ものや『コードギアス』などのテロリズム/ピカレスクロマン、更に『デュラララ!』などの実在の都市を舞台とした「アーバンファンタジー」といった傾向を圧する形で、際立って多いコンテンツの様式であり、前島賢はその浸透の背景に、コンテンツをめぐる情況が「物語からコミュニケーションへ」と大きくシフトしたことの影響を指摘している(『セカイ系とは何か』)。
勿論『ひだまりスケッチ』を順接的に「空気系」として、すなわち、「ひだまり荘」に集う「美少女達の終わりないコミュニケーションの物語」として、言い換えるならば、宇野の指摘するように「オヤジ的願望」にのっとる形で消費することも可能である。しかし例えば、「四コマ」という形式を敷衍する形で「1コマ目に場所を示す背景があって、2コマ目からはイメージ的な背景が続く」という表現を「アニメでも出来るんじゃないか」(新房昭之・飯島寿治「美術と背景のお話」(『ひだまりスケッチアルバム TVアニメ公式ガイドブック』所収))という企図に基づいて試みられた様々な演出には、「四コママンガ」を相対化/脱構築してきた現代日本のマンガ表現に対する、アニメの側からの誠実な応答ととることも可能であるように思われるし、更に、厳密なフォーマット(起床(『☆☆☆』の場合はラジオ体操)→入浴)と因果関係の計算を前提とした上での時系列のシャッフルは、例えばアニメ版『涼宮ハルヒの憂鬱』などで用いられたような原作への遡及を企図するフックとは異なり、年単位での入れ替えをも含みこむことによって、複数のシリーズを継続させながらも不可逆に流れる時間を描出することを目指しているようにも思われる。
#この点、『あずまんが大王』においては、やはり不可逆に流れる時間の描出が「閉じられた」テクストへのランダムなアクセサビリティの担保となっていたこと(伊藤剛「大阪は『ぼのぼの』やねん。」(『マンガは変わる』))とは、若干位相を異にする。
・・・とはいえ、この「批評性」だけでは、おそらく『☆☆☆』まで作られなかったであろうことは、同じ新房監督+シャフト作品である『さよなら絶望先生』のアニメがこれ以上作られないであろうことからも明らかではあるが(笑

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