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January 2010

私はただの通りすがりの”文学少女”です

Tohkosenpai_2
元ネタがごっちゃになっていますが・・・『仮面ライダーディケイド』の門矢士の決め台詞と、<文学少女>シリーズの天野遠子の決め台詞を掛け合わせてみました(ポーズは『仮面ライダーW』の「さあ、お前の罪を数えろ」ですが)・・・<文学少女>は映画になるそうですね。しかもI.G.で。
#しかし、確かに『”文学少女”はガーゴイルとバカの階段を昇る』は混ぜすぎですよね(笑

野村美月の<文学少女>シリーズ(ファミ通文庫、2006-2008)は、作中人物の作品中のあり方が、本を食べる”文学少女”である天野遠子を媒介して紹介される文学作品・・・『死にたがりの道化』においては『人間失格』、『餓え渇く幽霊』においては『嵐が丘』といった具合に・・・と重ねあわされることで、作品構造を重層化させることに成功しているシリーズである。ところで、作中で参照されている作品については、当該作品について既読である読者は、自らの読書経験から作中人物の立ち位置や心理描写などに深みを与えることが可能であるが、重要なのは、たとえ当該作品について未読である読者についても、<文学少女>たる天野遠子の饒舌な語りによって、あるいは、<文学少女>シリーズの各作品の内容そのものによって、作品構造の重層性をある程度想像することが出来るようになっていることである。
参照先を知らなくとも意味を見出すことが出来るという点からすると、<文学少女>において参照される文学作品は、ペダントリーとして引用されているわけではないが、かといってパロディやパスティーシュといったものでもない(敢えて言うならば「本歌取り」に近いものがあるのかも知れないが、それにしては、参照先の文学作品の「固有名」が前面に出過ぎているようにも思われる)・・・このような「オリジナル」との関係のあり方は、興味深いことに、『仮面ライダーディケイド』における「平成ライダー」に対する態度(「リ・イマジネーション」)と近いように思われる。すなわち、監督の田崎竜太は「平成仮面ライダーをクラシック化というか、スタンダード化する」ことが「『ディケイド』の本当の狙い」と述べているのである(『仮面ライダーディケイド&平成仮面ライダー10周年公式読本』)。この二つの作品の間の「オリジナル」と「シミュラークル」の関係の相似性と、「オリジナル」の概要さえ把握されていれば足りるというある種のプラグマティズムは、「ゼロ年代」の空気として共有されていたのかもしれない・・・このことからすると、天野遠子が好んで引用するような『古典』の概要を解説する書籍が流行したことと、門矢士の「大体わかった」という決まり文句は、単なるシンクロニシティでは無いように思われるのである。
#だとすれば、『W』のフィリップが生ける検索エンジンであることは、記憶の外部化が進み、大掴みな把握という前提すら必要ないという「テン年代」の象徴なのだろうか。

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「『ファンタジー』と『SF』の歴史は『いかに女性を薄着にするか』の歴史なのです!」

Shingen
この台詞、オリジナルがどこなのかさっぱりわかりませんが(おそらくパルプマガジンが出てきた頃から100年近く言われ続けてるでしょうから)、さしあたってはÖYSTER『男爵校長DS』から採りました。このことはジャンルとしての「ファンタジー」や「SF」のことを考えるにあたって結構大事なことなのだと思うのです・・・というわけで、「時代を感じさせる」表象(古賀亮一がそういうのだからきっと真理に違いありません)であるビキニ鎧が超時代的に再生産されるのもまた必然、と思わずにはいられないほどに「理念型」的なビキニ鎧を『戦国乙女』の武田信・・・いやシンゲンを素材に描いてみました。
#キャラとしては今川ヨシモトの方がおもろおかしいのですが、あくまで鎧の「理念型」ということで(一番「理念型」っぽいなのはノブナガの鎧なんですけど、さすがにヒネリがなさすぎるので)。
##私はコミックス版で初めて見たのですが、これパチンコのオリジナル企画なんですね。
###しかし、描くのがめんどくさいところまで80年代っぽいデザインです(笑

メインカルチャー/サブカルチャーという中央-周辺構造が機能しなくなっている、ということは、ここ10年の間にしばしば指摘されている事態である。このことは1)「メインカルチャー」とされていた文化事象が(<大きな物語>の崩壊と平仄を合わせて)雪崩を打つように「サブカルチャー」化している、という現状分析を基盤としているが、これと同時に2)「サブカルチャー」として展開してきたものの一部が権威化し、あたかも「メインカルチャー」であるかのような扱いを受ける、という現象とも連動しているように思われる。とりわけ、いわゆる「クールジャパン」的な戦略からは、文化資本としてのサブカルチャーを権威化することで、グローバルな取引財としての定位を行おうとする企図が伺える部分がある。
無論この動きについては、一面としては、サブカルチャーとして位置づけられてきたコンテンツを「正当に」評価する試みとして、肯定的に捉えることも出来る。しかし、日本のサブカルチャーが今日のような隆盛を見せていることの前提には、サブカルチャーが「周縁性」を持つということ自体から発生する(自己言及的な)動因があるようにも思われる・・・すなわち、「生産/再生産」や「進歩/発展」といった<近代的>価値観から相対的に遠い「遊び」としてのありようが、これらの想像力の母胎として不可欠なのではないかと思われるのである。
したがって、SF/ファンタジーにおいて、女性の登場人物が伝統的に不自然なまでに薄着であることには、この点では、順接的な意味での(つまり、再生産に結びつくような)「煽情性」を読み込むべきではない。言うまでも無く、我々が感じるセクシュアリティは<近代>的な構築物であり、SF/ファンタジーはそのようなありように明瞭に対立するからである・・・日本において<ポストモダン>的なモードがどうしようもなく表面化した80年代に表象として現れた「ビキニ鎧」のアイロニッシュな側面を、我々は『戦国乙女』にこと寄せて、テン年代にこそ思い起こすべきなのかもしれない。

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