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December 2009

鉄火巻きはそういう用途だったんかい

Kuchinashi
いや、アニメ本編もキレイにまとまってましたが、なにより前期・後期ともEDのネジの外れ方がなんとも私好みだったのです・・・というわけで『NEEDLESS』から、美少女部隊の一人梔。確かに「美」はいらんわなそういえば(笑
#なんつーか、梔のスケッチブック、カンペっぽく見えるんですよね・・・私だけですか?(笑

フーコーを引くまでもなく、人が感覚するセクシュアリティは構築された歴史的産物であり、我々現代日本社会に生きる者が感じる「通常の」セクシュアリティもまた、単なる幻想でしかない。しかし、そのコードが極めて周到に、強固に形成されていることもおそらく確かであり、その意味では、セクシュアリティをめぐる言説が一種のカウンターカルチュアとして持つ意味は、今なおそれ自体において有意であるように思われる。そして、近代市民社会が<再生産>という価値を前提とし、その<再生産>がヘテロセクシュアルな関係性を前提とするものとして概念されている限りにおいて、それとは異なる多様なセクシュアリティのあり方は、ある意味で近代という価値に対する有効な懐疑となり得る・・・例えば、『少女革命ウテナ』は、そのような試みとしても解釈することが出来るであろう。
しかし、近時のオタク業界において生じている事態は、これとはいささか異なるコンテクストにおいて把握されるべきであるように思われる。宇野常寛は、「ゼロ年代」においては既に古びた「オタク」的想像力の中に、「母性のディストピア」において無前提に承認される「安全に痛い」男性中心主義があると激しく非難しているが(『ゼロ年代の想像力』)、近時濫造されている「男の娘」、すなわち、女装する少年の表象は、かつての「異装」という営為が帯びていたような、ある種の反近代的ユートピアを志向する批評的「強度」があるもののようには思われない・・・そこにあるのは、人類が考古学的に蓄積してきたセクシュアリティのコードもまた記号でしかないこと、すなわち、(近代がそうであったように)「男性であること」自体、あるいは、(フェミニズムが暗黙の議論の土台としていたように)「女性であること」自体には、実際には何の特権的意味も付与されない、ということを踏まえたうえで、セクシュアリティをめぐる記号を軽やかに「戯れ」の対象とするという、優れてポストモダン的な振る舞いではなかろうか・・・などと、『メイドいんジャパン』の3巻を読みながら漠然と考えたりしたのだが(笑
#とはいえ、私自身は、例えば『NEEDLESS』(コミックス版)でクルスの女装継続フラグが立った、と喜ぶディスクの感覚や、タイトルに掲げたようなアニメ版EDにおける梔の振る舞いにはいまひとつ理解できないのだが、これは単純に、私自身が結局<近代>の価値からまったく自由ではないからであろう(笑

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ペティコートの厚さは仕様なのでしょうね

Pineapple
・・・これまであまりまじめに見ていなかったのですが、一ヶ月ほど前の修羅場の際に眺めていたら突然キュアパイン(の決めポーズ)が妙にツボに入ってしまいまして。それ以降、『仮面ライダーW』と続けて欠かさず『フレッシュプリキュア!』を見るようにしています。この過剰にガーリッシュなところが良いのでしょうね。服のバランスが難しいですけど(笑
#それでも、シリーズの約束事をきちんと踏まえて、基本得物無しで立ち回るところがまた良いのです。
##しかし、「ラッキークローバー・グランドフィナーレ」はどう見てもゴレンジャー、っていうツッコミは多くの人がしていそうだ(笑

それなりに売れているらしい『思想地図』vol.4の対談記事の中で、東浩紀が平成仮面ライダーシリーズについて「昔はアニメってこういう風にアナーキーで面白かった」として、その「外部」が持つ影響力に言及するのに応じる形で、宇野常寛は、当該コンテンツが「多様なトライブ」を攻略することの意味について述べている(「物語とアニメーションの未来」)。確かに『ディケイド』を極点とする形で、平成仮面ライダーシリーズにはある種の「強度」と「批評性」とが備わっているように見える(現在の『仮面ライダーW』は、『探偵物語』を媒介とする意図的な「ハードボイルド」風の味付けによって、若干「物語回帰」の傾向が強いように思われる)。しかし無論、このことは、平成仮面ライダーシリーズについてのみ特権的に看取される傾向ではなく、日本の「特撮」というジャンルが常に意図してきたベクトルであり(例えば、昭和のウルトラマンシリーズにおける実相寺監督の試みなど)、とりわけ、平成期に作られた作品群には顕著に見られる傾向である(平成ガメラシリーズ/平成ウルトラマンシリーズ)。このことはもとより、「特撮」というジャンルが、常に「外部」を意識しながら作られることを予め織り込まれたジャンルであることの反映でもあろう。
しかし、東が指摘する「外部」の影響によるアニメの「アナーキーさ」と、宇野が指摘する「複数のトライブ」を越境する「物語の強度」の間には、微妙なニュアンスのズレがあるように思われる。おそらくデリディアンであることによる「マージナル」なるものへの志向から、「玩具が売れる」ことを前提とした「なんでもあり」の物語に向けられた東の関心は、例えば、コンテンツの性質上要請される一連の描写(笑)さえクリアすれば、『夢二』や『狂った果実』、『ネクロノミコン』などの作品を作ることが許されていた美少女ゲーム業界の試みにも親和性があるものと思われる。しかし、このジャンルにおいて是認されていた「アナーキーさ」はおそらく、ジャンル自体が持つ(と宇野が解釈する)フロイト=ラカン的偏向(マッチョイズム!)により、到底正面から評価の対象とされるとは思われない・・・この局面においては、東と宇野の対立軸は、かつての東と斉藤環の対立軸に近接するようである(『戦闘美少女の精神分析』文庫版解説を参照。なお、両者の差異については対談「九五年/〇一年の断層(『PLANETS』vol.5)。しかし、この対立軸からは、例えば、「ウェルメイド」な勧善懲悪の物語が、平成仮面ライダーシリーズではなくむしろプリキュアシリーズにおいて紡がれていることの逆説がどのように理解されるべきか、ということへの回答は出てこないように思われる。

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