鉄火巻きはそういう用途だったんかい

いや、アニメ本編もキレイにまとまってましたが、なにより前期・後期ともEDのネジの外れ方がなんとも私好みだったのです・・・というわけで『NEEDLESS』から、美少女部隊の一人梔。確かに「美」はいらんわなそういえば(笑
#なんつーか、梔のスケッチブック、カンペっぽく見えるんですよね・・・私だけですか?(笑
フーコーを引くまでもなく、人が感覚するセクシュアリティは構築された歴史的産物であり、我々現代日本社会に生きる者が感じる「通常の」セクシュアリティもまた、単なる幻想でしかない。しかし、そのコードが極めて周到に、強固に形成されていることもおそらく確かであり、その意味では、セクシュアリティをめぐる言説が一種のカウンターカルチュアとして持つ意味は、今なおそれ自体において有意であるように思われる。そして、近代市民社会が<再生産>という価値を前提とし、その<再生産>がヘテロセクシュアルな関係性を前提とするものとして概念されている限りにおいて、それとは異なる多様なセクシュアリティのあり方は、ある意味で近代という価値に対する有効な懐疑となり得る・・・例えば、『少女革命ウテナ』は、そのような試みとしても解釈することが出来るであろう。
しかし、近時のオタク業界において生じている事態は、これとはいささか異なるコンテクストにおいて把握されるべきであるように思われる。宇野常寛は、「ゼロ年代」においては既に古びた「オタク」的想像力の中に、「母性のディストピア」において無前提に承認される「安全に痛い」男性中心主義があると激しく非難しているが(『ゼロ年代の想像力』)、近時濫造されている「男の娘」、すなわち、女装する少年の表象は、かつての「異装」という営為が帯びていたような、ある種の反近代的ユートピアを志向する批評的「強度」があるもののようには思われない・・・そこにあるのは、人類が考古学的に蓄積してきたセクシュアリティのコードもまた記号でしかないこと、すなわち、(近代がそうであったように)「男性であること」自体、あるいは、(フェミニズムが暗黙の議論の土台としていたように)「女性であること」自体には、実際には何の特権的意味も付与されない、ということを踏まえたうえで、セクシュアリティをめぐる記号を軽やかに「戯れ」の対象とするという、優れてポストモダン的な振る舞いではなかろうか・・・などと、『メイドいんジャパン』の3巻を読みながら漠然と考えたりしたのだが(笑
#とはいえ、私自身は、例えば『NEEDLESS』(コミックス版)でクルスの女装継続フラグが立った、と喜ぶディスクの感覚や、タイトルに掲げたようなアニメ版EDにおける梔の振る舞いにはいまひとつ理解できないのだが、これは単純に、私自身が結局<近代>の価値からまったく自由ではないからであろう(笑


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