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August 2009

冗談じゃないわったら冗談じゃないわ

Meteorit
・・・別のところで一度使ってしまったネタで恐縮なのですが、先般日本学士院のポスターが掲示されているのを見かけ、そこにケルン大学名誉教授のクラウス・シュテルン氏の来日記念シンポジウムが開催される旨が書かれていたのですが(リンク貼るのはあまりに申し訳ないので、ご関心のある方はぐぐってください。ちなみに9月18日開催だそうです)、そこでまず真っ先に、『コメットさん☆』のメテオさんを思い起こしてしまったのです(笑)。私特にツンデレ属性はないのですが、第17話の「メテオさんの涙」は今思い返しても良い話でしたね。
#しかし、改めて見てみるとコメットさん、「コズミックバトンガール」と、なんだか名状し難い感じの肩書きなのですね(笑
##いかん、『コメットさん☆ StarDiary』を眺めてたら、DVDBOXが欲しくなってきてしまったぞ(笑

少し前に、「作品世界の中でキャラクターが歌う」という営為の構造について言及したことがあったが、上述の論においては、「キャラ」のレイヤーを媒介させなくとも「声優が歌う楽曲」としてその歌が成立していることを前提としており、おそらくは、「声優」という存在のアーティスト(歌手)としてのプレゼンスが社会的に上昇していることとパラレルな現象であるように思われる。しかしこれと平行して、古典的な意味での所謂「キャラソン」もまた、営々と世に問われ続けていることは言うまでもない・・・先般落掌した『咲』のキャラソンアルバム『THE夢のヒットスクエア キャラソン対局編』は、まさしくこのような意味での古典的な「キャラソン」をラインナップしたものであった。
これは印象論であるが、一時期の「キャラソン」は、このようなアルバムの形式ではなく、「キャラ」ごとにシングルカットされるという戦略が採られていたように思う(嚆矢となったのは『東京ミュウミュウ』あたりであろうか)。もとよりこのことにはさまざまな意味を見出すことが出来ようが、この戦略が選択肢に入ることの前提としては、「キャラ」がコンテクストとなる作品世界から切り離されても「消費」可能である、という認識をコンテンツの作り手/受け手が共有しているという状態が想定できるように思われる・・・言うまでもなくこの想定は、東浩紀が『動物化するポストモダン』の執筆時に仮説として提示した「データベース消費」のモデルを念頭に置いている。しかし、やはり過去に若干言及したように、東浩紀自身がこのモデルを放棄しつつあり、理念型としての「データベース消費」モデルはおそらく破綻を含みこんでいる、パフォーマティヴな論だったのだろう。
#ちなみに宇野常寛は、データベース化される「記号」に<時間/歴史>のモメントが欠けていると批判しているが(「Perfumeと相対性理論を語れば09年の音楽を語ったことになるなんて思わないよ絶対」『PLANETS』vol.6)、この点についてはやや異論がある。別稿にて論じたい。
さて、古典的な「キャラソン」は、ある程度共通の構造を持って作られているが、いずれもその構造は「キャラ」と作品世界とのアンカーとして機能するものである・・・間奏の際にモノローグが入る、というのが最も直裁なものだが、(声優ではなく)「キャラ」が歌っていることを示す手法としては、作中でその「キャラ」が用いる独特の言い回しを歌詞に挿入するという手法もよく用いられるようである。これを<物語回帰>の傾向として把握することが可能かどうかは慎重に検証する必要があるが、少なくとも、龍門渕透華のキャラソン「逃がしません・・・ですわ!」と、メテオさんのキャラソン「ゴーイングLOVE」では、同じようなツンデレ類型であるにも拘らず、時期的に先行する後者の方がキャラソンとしての完成度が高いように思われるところを見ると、「ゼロ年代」のコンテンツは、斯界で指摘されるほど大きな変容を被っているわけではないのかもしれない。
#茅原実里より本多知恵子の方が高笑いが上手いだけかもしれないが(笑

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宣伝部長を拝命されていたのですね

Ymir
いやはや、これくらい割り切って作ってくれればいっそ爽快なのですけど(笑)。というわけで、『クイーンズブレイド』から鋼鉄姫ユーミル(この間、つい勢いで『パーフェクトビジュアルブック』を買ってしまいました(笑))。つーかこれ、そもそも『ロストワールド』だったんですよね・・・この方向転換は大英断だったと思います。これに続くホビージャパンのゲームブックのリニューアルはいろいろ微妙ですけど(いや、出来が悪いのではなく、リニューアル前の挿絵に当方が思い入れを持ち過ぎているだけか・・・『サムライの剣』とか(笑))。
#『ロストワールド』はかなり昔にプレイしたような記憶がおぼろげにあるのですが、さすがに『クイーンズブレイド』は未プレイです(笑
##・・・「オリジナル」が云々、とかエラそーに言うからには、やはり一度遊んでみる必要があるかな(爆

かつてデュルケームは、世界を「聖なるもの」と「俗なるもの」の関係として把握したが(『宗教生活の原初形態』)、このバイナリな関係を形成する「禁忌」というコードはもとよりアプリオリのものではなく、認識によって構築される対象でしかないことは言うまでもない(バーガー『聖なる天蓋』)。このことは、レヴィ=ストロース的な静態的構造主義が、ポスト構造主義の一連の分析によって乗り越えられようとすることとパラレルな問題である。システム論的に言い換えるならば、<宗教システム>は確かに聖/俗というコードによる分析を許容するが、そのシステムと環境との位相(「境界」の設定)は、自己言及的観察によって生じるということになろうか。
上述の論を踏まえるならば、ある媒体(メディウム)においてその表出を抑制される(言い方を変えれば、「禁忌」によって「聖別」される)対象は、その社会自体の聖/俗のコードによって析出されるが、そのコード自体がアポステリオリな構築物である以上は、自己言及的に定位されていく性質を必然的に持ち、それゆえに、「聖別」される対象を静態的に定義すること自体が極めてナンセンスな営為であるということになる・・・そもそも、カイヨワが述べるように、「聖なるもの」と「穢れたもの」は、アンビヴァレントな関係性の下にあるのではなかったか(『人間と聖なるもの』)。
このアンビヴァレンスを認識し、かつ、静態的なコードのあり方を認識論的に乗り越えるための作法は、いくつかに分岐しているように思われる。一つは、「聖なるもの」が実際には構築された認識対象でしかないことを改めて指摘し、そのコード自体を攪乱するという手法、すなわち、少なくとも当該コンテクストに関しては、それを「禁忌」のコードに載せる必要がないと宣言することである。そしてもう一つは、「聖なるもの」を「聖別」する手法自体を戯画化し、そのフィクション性についての注意を促す、という手法である。
#二番目の方向性に関しては、『プリンセスラバー!』の第6話もまあ評価できよう(5話までのヘタレっぷりと比較して、だが)。
##その点、『かなめも』はいかがなものか。
しかし、言うまでもなく最も直裁でかつ有効なのは、その「聖/俗」というコード自体が無意味であること、すなわち、およそそのシステム自体を失効させる戦略であろう・・・この観点において私は、今期のアニメでは『NEEDLESS』を最も愉しんで視聴しているのである。
#なお、『化物語』はシャフトの批評性の問題に関わるので、この地平で語るのはやや困難である。別稿にて論じることとしたい。

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愛冠ですかそうですか

Visho
松山せいじの世界観だと、果たしてどれくらいが標準値なのやら想像することすら出来ませんが(笑)、少なくとも私がこれまで描いた中ではもっとも規模の大きな娘さんであることは確かです・・・というわけで、関係諸方面ではなはだ評判のよくない『鉄娘な3姉妹』の長女、美章を描いてみました。
#あ、カメラはウソにならないように、手元にあるやつを見ながら描いてます(笑
##あ、松山せいじネタは以前もやってました・・・レヴィ=ストロースと絡めて(笑

私は仕事柄、比較的若く、かつ、比較的マニアックな志向を有する趣味者と話をする機会が多いのだが(前者はともかく、後者は「わざわざそういう対象を選んでいるのではないか」といわれればそれまでだが(笑))、無論どのような趣味でも、その趣味に費やした時間が知見の蓄積には不可欠である以上、若年者に対して知見の不足を指摘するのは、まさしく字義通りに「大人気ない」振る舞いだと言われざるをえない・・・そしてこのことは、年齢の問題だけではなく、たとえば自身の専門外の領域について言及する場合にも同様に当てはまる問題であろう。たとえば私自身は、鉄道やミリタリについてはまったくの素人ではあるが、鉄道やミリタリについて近傍で紡がれる言説には大いに魅力を感じるところであり、その点で、近時の「萌え」系の加工については、門外漢に開かれた回路を設置するという観点から、基本的には好ましく思っているところである(たとえばコレとかコレとか)。
しかしもとより、この種の「萌え」的な加工は、その対象がそもそも属するディシプリンにおいてどのような位相にあるか、という点に門外漢の関心を遡及させるようなものでなくてはならないのは言うまでもない・・・そして遺憾ながら、この種の「萌え」系の加工には、この点の見識がいささか欠けているのではないか、と指摘されざるを得ないものが散見されるのも事実である。この点、良識ある趣味者が眉を顰めることは蓋し止むを得ないと言わねばならない。
しかし、ヨリ問題視されるべきなのは、門外漢の側が、当該加工対象が主たるディシプリンにおいてどのような位相にあるかどうかをおよそ問わない、という事態が生じた場合である。一般論として、何かの知見を得ようとするならば、その知見が何らかの全体性を前提とすることが認識されるはずであるから(所謂「解釈学的循環」)、知見を持つことに自覚的でありさえすれば、その個別性/一回性は直ちに諒解されるはずである。このことを敷衍すれば、他のディシプリンにおいても当該対象が個別性を持つ存在であり、何らかの因果連環に布置されていることは容易に想像されるであろう。とするならば、仮に上述のような事態が生じているのだとすると、それは、因果関係や時間軸といった価値観の失効の反映である可能性はある・・・果たしてそのあり方(動物化!)を「趣味者」と呼称し得るかどうかは疑問の余地なしとしないが。

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