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November 2008

物語的自己同一性のゆらぎと記録/記憶

Chihiro

※おことわり※
このブログには、『ef -a tale of memories.』『ef -a tale of melodies.』のネタバレが含まれています(ほとんどの方には既知のレベルだと思うのですが)。未見の方は見てからどうぞ。

・・・ネタが浮かばなかったのでなんのヒネリもなく堅苦しいタイトルをつけてしまいました(笑)。第二期が放映されているところなので今更感もあるところですが、第一期の『ef -a tale of memories.』から千尋。深夜に見るとはなはだ目がチカチカしますが、映像はなかなかにキレイで私は第一期・第二期とも好きです。まあ話はそれほど凝ったつくりでは無いですが、演出が上手いですね・・・文字のカットインのタイミングとか重ね方とか。
#なお、「眼帯少女」についてもいろいろと思うところがあるのですが、これはフラジャイリティの問題と接続するので、別稿に譲ります。

ポール・リクールによると、自己同一性(アイデンティティ)をめぐる言説においては、「同一性としての自己同一性(sameness)」と「自己性としての自己同一性(selfhood)」の重要な区別が十分に認識されていないことが多く、そのためにさまざまな混乱が惹起されるのだという(『他者のような自己自身』)。リクールが適切に指摘するように、数的(「同じもの」の再同定)・質的(極度の類似)・時間的(中断されない連続性)な「同一性」が担保がされた場合であっても、それだけで「自己性としての自己同一性」を担保することは出来ない。ここで導入されるのが「語り(narrative)」の次元であり、それだからこそ、「自己性としての自己同一性」は「物語的自己同一性」とも表現されるのであるが、このことは畢竟、上記のアスペクトの中で「時間」が占める役割の大きさを示していることになるだろう。「点的で、非歴史的な自己同一性」を「自己性」に統合するためには、時間のアスペクトを「語り」によって結びつける必要があるのであり、時間的な懸隔を伴う「自己」についての複数の出来事を指示する「物語文」がその営為を媒介することになるであろう(アーサー・ダントー『物語としての歴史』)。
さて、このような「自己性としての自己同一性」を担保しているのは、言語行為を媒介として存在している「人間」にとっては、いわゆる「記憶」であろう。「自分が自分であること」は、複数の異なる歴史的なイヴェントを「自己」の体験として「想起」し、それを一つの統合された時系列に「物語文」によって関係付けることに依拠している。このことの自明性を疑うという意味で、『ef -a tale of memories.』は興味深い思考実験の性質を帯びている。同作のヒロインである千尋の場合、そのアイデンティティの拠り所は「記録」としての日記帳であり、彼女は、日付が変わるごとにその「記録」を「物語文」によって統合することで(「自己」を「歴史」として「物語る」ことで)「自己性としての自己同一性」を担保しているのである。
ところで、この「記憶」の喪失というテーマは、決して同作にオリジナルのものではなく、類似のテーマが同時多発的に取り上げられていることは周知の通りである(『博士の愛した数式』『パコと魔法の絵本』など)。すなわち、「自己」が構築物でしかないということについての認識と、それに基く「不安」は、ある程度のリアリティをもって現代日本社会に流通しているのであろう。しかし、そこで興味深いのは、このように虚構性の高い「自己」のあり方を支えるのが、極めて狭い人間関係でしかない場合が多い、という点である(『ef-a tale of memories.』の場合、このゆらぎは千尋と蓮司との一対一の恋愛関係によってのみ回復されることが暗示されている)。この点は、一般的な意味での「歴史」もまた、(これは古典的な、構造主義的な意味での)「物語」でしかない、という、所謂「国民の歴史」の構築を志向する一部の識者と同根の立場であるように思われる。
無論、この立場に対して、ダントーの言う「理想的編年史家」の前提、すなわち、「過去の実在」についての「神の視点」を導入すべきではない。それに代えて考慮すべきなのは、まさしく「自己」もまた「物語り行為」により構成されている「歴史叙述」であるということによって帰結される「倫理」的局面である(野家啓一『歴史を哲学する』)。その点、第二期シリーズである『ef -a tale of melodies.』が、時間的・空間的な重層性を志向していることには注目すべきであろう・・・というのも、このような外的要因によってこそ、ともすれば緊密な人間関係に閉じがちな、所謂「セカイ系」と呼ばれる世界観を撹乱し、そこにある種の<公共性>を期待することが出来るように思われるからである。

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大木凡人の知名度は巡洋戦艦に乗って海を渡る

Bonchan
・・・しばらく絵を描かずにいたら、このレベルの絵ですら描けなくなってしまっていました(で、かなりの不義理を働いてしまいました。関係各位に改めてお詫び申し上げます)・・・しばらく、基本に立ち返ってデッサンをしたり、また、今風の萌え絵を模写したりもしてみたのですが、試行錯誤の末、結局自分の描けるバランスは80年代っぽい、古臭いものであることを再確認したので、潔く割り切ることにしました。そこでまず、眼鏡の神様の力を借りることにして(笑)、万城目学/渡会けいじ『鴨川ホルモー』から、凡ちゃんこと楠木ふみ。マンガ版しか読んでいないのですが、1巻の表紙になってるのは羊頭狗肉だと思います(いまのところ早良さんが正ヒロインっぽい造形なので、正しくは「狗頭羊肉」かもしれませんが、異議は受け付けません)。
#タイトルが意味不明なのはまあ仕様ということで。ネタバレを回避できてるか微妙か・・・?
##しかし、「万城目」は「まんじょうめ」と読んでしまいますね。世代的に(正しくは「まきめ・まなぶ」だそうです)。

私は高校時代、受験するんだったら京大に行こうと考えていた(あとは東京芸大・・・今のこの画才のなさを考えると、そのとき気の迷いで行かなくてホントによかったと思うが、よく考えたら、まず実技試験でハネられたであろう)。結局、受験勉強そのものが面倒になったので、指定校推薦の枠があった某私大に行くことになったのだが、そのこともあってか、京大の文化的な側面には憧れめいたものを抱き続けている。
#私の郷里は京都府北部の地方都市で、父は同志社出身なので、そのせいもあるのかもしれない。
##もっとも、もし京大を受験していたら確実に文学部を選んでいたので、かなりの確率で人生を間違うことになったとは思うが。
###今の人生が間違った結果かどうかは、さしあたり問わないこととしたい(笑
都心の某大学のサークルで悪い先輩から勧められて(だったか?)、その時期まさに隆盛だった新本格ミステリの諸作品に親しむうちに、京大的な文芸空間への憧れはますます強まることとなった・・・新本格ミステリのうち、どちらかというと大時代な設定に心惹かれる傾向があった私にとって、自らの拠って立つ場を「蒼鴉城」と名乗り、ペダントリーとゴシック的な意匠を凝らした作品に、時にはお互いを登場させさえするような戯れの作法は、ラヴクラフトの周囲に集ったクトゥルー神話の創製者たちとも重なる、濃密な空間に見えたものである。
森見登美彦、さらに西尾維新などの手がける近時のライトノベルにおいても、京都は特権的な場としてその舞台に選ばれている。もとより、ライトノベルの作法として、舞城王太郎にとっての福井、佐藤友哉にとっての北海道など、その出身地を舞台に作品を展開する作家は決して少なくない。しかし、京都を舞台とする作品には、どこかしらの「作為性」や「虚構性」がついてまわるようにも思われるのは、無論それが「大学」という、極めて限定的な時空に凝集した作品となるからでもあろうが、万城目学の『鴨川ホルモー』や『鹿男あをによし』(あ、これ奈良か)が道具立てとして効果的に用いるように、日常空間に遍在する寺社や仏閣のプレゼンスによって、呪術的な環境が所与のものとして整っていることも大きく影響しているように思われる・・・この点において、平将門の記憶を喚起しなくてはならない『帝都』とは、歴史の重みが違うということなのだろう(笑

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