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August 2008

イエ=ラ・イラー!クスルウー、タイン!イエ!イエー!

Ikamusume
・・・ネタにひねりがなさ過ぎたなあ、と反省しましたので、『定本 ラヴクラフト全集』版から呪文を引いてきました。大瀧訳とはちょっと語感が違って、いささか据りが悪いですね。というわけで、安部真弘『侵略!イカ娘』からイカ娘。このタイトルもまたひねりがない上、イカ娘、名前すらないのですね(笑
#いや、実際には侵略してないから、その意味でひねってあるのか?

宮崎駿監督の最新作『崖の上のポニョ』を私は当然見ていない(『ギララの逆襲 洞爺湖サミット危機一発』は見たが(笑))。しかし、想像するに、プロットの段階で一般的には「人魚姫」を思い起こすところであろうが、現代日本社会においては、クトゥルー神話を思い起こした人も相当数に及ぶのではないかと思われる。アメリカの風土の中に、ウォルト・ディズニーによりカリカチュアライズされた「リトル・マーメイド」的海洋イメージと、ラヴクラフト的にカリカチュアライズされた「インスマウスの影」的な海洋イメージが共存しているという事象は、とりわけ、両者に白人中心主義的な価値観が共有されていることに鑑みると、興味深いものがある・・・この構図に従うならば、日本が明治期の国民国家形成によって(少なくとも自意識としては)「脱亜」したのだ、という素朴な文明史観にでものっとらない限り、「我々」にとっての「海」は、アメリカ的「異界」のイメージを負わせることが難しい領域として立ち現れてくるのではないかとも思われる。
#もっとも、上掲の「自意識」が相当程度に強固なものであることは、戦前には柳田国男が、近時では網野善彦が「海民」の世界を(まさしく逆説的に)カリカチュアライズして描かなければならなかったことが証明しているが。
この点で興味深いのは、かつて、佐野史郎の主演により日本を舞台として描かれたTVドラマ「インスマスを覆う影」であろう(後に「蔭洲升を覆う影」として『クトゥルー怪異録』に収録)。殆ど原作と同じプロットで進行するその物語は、しかし、原作と同じように海沿いの寂れた漁村「蔭洲升」の異常性を強調する各種の演出により、日本の「ムラ」が持っているウェットな閉鎖性を描き出すことに成功していた。その恐怖は、例えば横溝正史の一連の岡山を舞台とした作品にも類似したものであり、だからこそ、これも原作通りに終結するドラマが、プロットが全く同じであるものの、やはり非常にウェットな怪奇として機能したのであろう。ラヴクラフトの原作が、自らの中に「異界」の血統が混じっていることのおぞましさを示していたのに対し、翻案では、存在自体を攻囲するシステムとしての「ムラ」そのものの不可視の圧力こそが、恐怖として描かれていたのではなかったか。
仄聞するに、『崖の上のポニョ』は、人外のポニョが人間社会において適合的に存在し続けることができるかどうかが描かれているのだという。ドラマトゥルギーとして、その可能性は、例えば「啓蒙」などの「文明」的価値に開かれているが、それを見る側の「我々」が、上記したような不可視の圧力に攻囲されているとしたらどうであろうか・・・その結末は、無論明示されてはいないだろうが、おぞましいものとなる可能性を秘めてはいないか。
#いや、ちゃんと見てから書きなさいよ、って感じですけど(笑

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里芋で呑むのに早すぎればそばでビールを(光は東方より・15)

Patchouli
・・・こんな風に年齢を重ねて行きたいものですね、ということで、種村季弘のエッセイ「小京都」(『徘徊老人の夏』所収・・・以下種村さんのテクストはすべて同書から)から(北陸のさるJR支線の奥にある町のエピソードとのこと)。種村さんの描く酒の風景は実に旨そうで、発作的に飲みに行きたくなってしまいます。「夕方六時きっかりに鴉がカアと鳴く。するとそれまで我慢していた缶ビールの口をペラリと開ける。またカアの一声で最初の一口をぐっと飲る」(「鴉男」)・・・銘柄とかにあまりこだわらないのも種村さんらしいなあ、と思います。ああビール飲みたい。
#絵柄のパチュリーは実は内容にはほとんど関係がありませんが、まあこれは仕様ということでひとつ。

私の読書経験の土台は基本的にはホラーによって構成されているが、それを具体的に構築するに当たって多くを負っているのは、創元推理文庫の『怪奇小説傑作集』、河出文庫・白水ブックスの国別の『怪談集』『幻想小説傑作集』などの、高校~大学時代に触れたアンソロジーであったように思う。そして、その訳者・編者としての印象が大きいからか、私にとっては、澁澤龍彦はフランスの、種村季弘はドイツの幻想への扉を開いてくれる導き手としてまず立ち現れた。その後、やはり河出文庫に収められていたそれぞれのエッセイに耽溺する、というのは、少なくとも私の世代においては典型的な「アウトサイダー型」の読書の遍歴であろう。むろん、今はそれぞれ全集に収められているものだが、通学の時に片手で持ちながら読んだ経験からか、やはり河出文庫に私は愛着がある。
#もっとも、澁澤龍彦による文庫でもっとも印象深いのは中公文庫の『少女コレクション序説』だが(笑
しかし、長じて少し周辺領域の学などをかじると、「フランスの異端」としての澁澤龍彦、「ドイツの異端」としての種村季弘、という布置には、一定の違和感が生じるようにもなってきた。これは具体的には、澁澤龍彦の文章のイメージが、私の「フランス学」のイメージとずれる、というところに発する違和感のようである・・・おそらく、言語の問題からのイメージなのだと思うが、フランス的なもの、とは、私にとって、ポワン・ヴィルギュでだらだらと(というのがいささか問題であれば)、自由に連結していく営為であり、澁澤龍彦の訳業や著作は、この意味における自由さとはかなり異なる位相にあるように思われるのである。
印象深いのは、それぞれが晩年に遺した文章のコントラストである。澁澤も種村も、それぞれ大病を患ったこともあってか、その生涯の終わり近くに生産されたテクストは、ある意味「丸く」なっているところがあるが、澁澤がそれでも「もともと私は身辺雑記を書くことを好まない」と述べる時の「身辺」とは、実際には「人間関係のごたごた」であり、「書くべきテーマ」はこれではない、と厳格に区分を行う(「随筆家失格」(『都心ノ病院ニテ幻覚ヲ見タルコト』所収・・・以下澁澤のテクストは全て同書から))。この区分には、ファンタジックなものを書くときの「構え」のようなものが直裁に反映されているように思われるが、この「構え」は、種村がその「徘徊」をごくやわらかく描きながら、そこにファンタジックなものを見出そうとしているのと、かなり異なるように私には感じられる。
#勿論、自らを襲った大病について、澁澤が「自殺の中でもっとも安易な手段というべき、あの首吊り自殺が私には永久に不可能になってしまった」のが「なにより私にとって残念でたまらない」と述べ(「穴ノアル肉体ノコト」)、種村が「自宅から泉鏡花取材のために金沢に旅に出たまま観念的にはそのまま南イタリアやイスラームの聖地メッカにまで足を伸ばして、なかなか家に帰ろうとしない」自分を「このまま行ったっきり、も悪くないな」と述べるあたり(「徘徊老人その後」)、さすがに、というところがある。
ところで興味深いのは、そのような「構え」を見せる澁澤においても、このような記述が時折見られるところであろうか。すなわち、『聊斎志異』の紹介を交え、そのエピソードを踏まえる形で澁澤は、「もし私のところにもお化けがたずねてきたら、私は躊躇せずに冷や酒でお化けを歓待してやろうと思っている」と述べた上で、「いや、まず最初は缶ビールにするかな」と書き添えるのである(「ホラーの夏 お化けの夏」)。やはり夏はビールが美味いということについて、恐らく澁澤も異論がなかったらしいことを窺わせる、微笑ましい一節である。

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