イエ=ラ・イラー!クスルウー、タイン!イエ!イエー!

・・・ネタにひねりがなさ過ぎたなあ、と反省しましたので、『定本 ラヴクラフト全集』版から呪文を引いてきました。大瀧訳とはちょっと語感が違って、いささか据りが悪いですね。というわけで、安部真弘『侵略!イカ娘』からイカ娘。このタイトルもまたひねりがない上、イカ娘、名前すらないのですね(笑
#いや、実際には侵略してないから、その意味でひねってあるのか?
宮崎駿監督の最新作『崖の上のポニョ』を私は当然見ていない(『ギララの逆襲 洞爺湖サミット危機一発』は見たが(笑))。しかし、想像するに、プロットの段階で一般的には「人魚姫」を思い起こすところであろうが、現代日本社会においては、クトゥルー神話を思い起こした人も相当数に及ぶのではないかと思われる。アメリカの風土の中に、ウォルト・ディズニーによりカリカチュアライズされた「リトル・マーメイド」的海洋イメージと、ラヴクラフト的にカリカチュアライズされた「インスマウスの影」的な海洋イメージが共存しているという事象は、とりわけ、両者に白人中心主義的な価値観が共有されていることに鑑みると、興味深いものがある・・・この構図に従うならば、日本が明治期の国民国家形成によって(少なくとも自意識としては)「脱亜」したのだ、という素朴な文明史観にでものっとらない限り、「我々」にとっての「海」は、アメリカ的「異界」のイメージを負わせることが難しい領域として立ち現れてくるのではないかとも思われる。
#もっとも、上掲の「自意識」が相当程度に強固なものであることは、戦前には柳田国男が、近時では網野善彦が「海民」の世界を(まさしく逆説的に)カリカチュアライズして描かなければならなかったことが証明しているが。
この点で興味深いのは、かつて、佐野史郎の主演により日本を舞台として描かれたTVドラマ「インスマスを覆う影」であろう(後に「蔭洲升を覆う影」として『クトゥルー怪異録』に収録)。殆ど原作と同じプロットで進行するその物語は、しかし、原作と同じように海沿いの寂れた漁村「蔭洲升」の異常性を強調する各種の演出により、日本の「ムラ」が持っているウェットな閉鎖性を描き出すことに成功していた。その恐怖は、例えば横溝正史の一連の岡山を舞台とした作品にも類似したものであり、だからこそ、これも原作通りに終結するドラマが、プロットが全く同じであるものの、やはり非常にウェットな怪奇として機能したのであろう。ラヴクラフトの原作が、自らの中に「異界」の血統が混じっていることのおぞましさを示していたのに対し、翻案では、存在自体を攻囲するシステムとしての「ムラ」そのものの不可視の圧力こそが、恐怖として描かれていたのではなかったか。
仄聞するに、『崖の上のポニョ』は、人外のポニョが人間社会において適合的に存在し続けることができるかどうかが描かれているのだという。ドラマトゥルギーとして、その可能性は、例えば「啓蒙」などの「文明」的価値に開かれているが、それを見る側の「我々」が、上記したような不可視の圧力に攻囲されているとしたらどうであろうか・・・その結末は、無論明示されてはいないだろうが、おぞましいものとなる可能性を秘めてはいないか。
#いや、ちゃんと見てから書きなさいよ、って感じですけど(笑


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