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July 2008

全力で本日は閉店するッ!!

Utopiacafe
いやあ、こういうバカバカしさ(←褒めてます。全力で)は大好きなのです・・・というわけで、『速水螺旋人の馬車馬大作戦』所収「ユートピア・カフェはあなたの友」から二等分隊女給のアプシダさん。ロバート・ブロックもなんだか懐かしい感じですねえ・・・速水螺旋人さんのことを、どなたか「ルネサンス的」と評されていたように記憶しているのですが、まさしく至言だなあ、と思いました。
#私は機械が描けないので、なんだかいいかげんな銃でトホホなことになってますが、一応PPsh-41ということで。

私自身は、お世辞にも字が上手いわけではないのだが、それでも、文字とグラフィカルなものが混在するタイプのテクストを作成する場合、出来る限り文字を手書きで入れるようにしている。この作法はどうやら、まず第一に、自分が生産するテクストは基本的には「批評/評論」であり、その次元では描画の作法を統一するのが望ましいのではないか、という志向、そして第二に、それと表裏一体の関係なのだが、たとえグラフィカルなテクスト(イラスト)であっても、私のそれは「創作」ではなく「批評/評論」としての「ネタ」の一部であるという自意識に導かれているようである。恥ずかしながら大学の学部時代には小説などを書いていた時期があり、その際には打ち出し原稿に自分でイラストをつけたりしたこともあったが、最後の頃には(といっても、もう10年くらい前だが)、わざわざペンネームを使い分けたりしていた。この身振りは結局、「創作者」としての自己に見切りをつけることで(消極的ではあるが)統合され、あらゆる事象をメタ化/脱構築するというライフスタイルへと繋がっていくことになるのだが、この「逃走」には、対蹠的に、およそクリエイティヴな存在に対する無前提の憧憬が存在することは言うまでも無い。
勿論、グラフィカルなテクストに手書きで文字を入れる、という統合は、「創作者」の立場でも行うことが出来る・・・というか、それがむしろ主流であろう。速水螺旋人やモリナガ・ヨウなどのイラストコラムや、竹本泉のエッセイマンガなどは、文字というシーニュがむしろクリエイティヴに機能しているからこそ「革命的」と評されるのであろうし、山田章博のイラストともマンガともつかない作品群に添えられるガラスペンの流麗な手書き文字は、それ自体が雄弁な美的「記号」である。
そもそも、およそマンガには、効果として添えられる文字記号が不可欠であり、それを「創作」として扱うことも、マンガを創る作業の重要な要素なのであろう・・・「あろう」という仮定でしか語ることが出来ないのは、私にはマンガを描く「創作者」としての才能がないからである。

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少女弁証法中・・・

Lynette
なんと、この方向性のわからないブログもいつのまにか20000hitを超えました。ご愛顧に感謝しつつ、絶賛通常営業中です・・・ということで、『ストライクウィッチーズ』からリネット・ビショップ。兵器擬人化については、ミリタリ好きの立場からいろいろ批判があるようですが、私のように、たしなむ程度にミリタリ好き、というレベルの人間にとっては、島田フミカネ氏の仕事は十分愉しめる範囲のものです。愉しんでる文脈違いそうですけど(笑
#しかしそのキャンペーン名はいかがなものか、と誰しもがツッコミを入れているところでしょう(笑

本ブログでは最近、「彼自身による鏡塵=狂塵」企画として(?)何度か「高燃費娘」類型を取り上げているが、来し方を省みるに、私の視野には、今回取り上げたリネットのような「文系少女」類型が入ってくる頻度も相応に多い(例えば『ネギま!』ののどか)。一見この二つは全く相反する「キャラ」の類型であり、これを弁証法的に止揚することができなければ、分裂症的自己を承認するしかないようにも思われる。
少し考えてみると、本ブログで先に述べたように、「高燃費娘」概念は、ロゴス的な「近代」のあり方が失効するところにおいて立ち現れる「生」の価値の直裁な承認を志向するものであり、「身体性」の前景化と連動している点で「ポストモダン的な人間に対する対蹠的な輝きとなっている」のだろうと思われる。しかし一方、「文系少女」類型のうち、私の嗜好のベクトルと親和性が高いのは、実際にはその「ヒューマニティーズ」的な価値そのものというよりも、外見とやライフスタイルとはギャップがある、きわめて「ベタ」な「努力」や「進歩」への希求の姿を垣間見せる「キャラ」ではなかったか。
#原体験となるのは、『NG騎士ラムネ&40』のココア姫であろうか(特に最終話)。
とするならば、後者の類型に私が無意識に看取している「眩しさ」は、実のところ、ゆらぎがあると理解していながらも敢えて「近代」的な価値をフィクションとして選び取ろうとするスタンス(来栖三郎『法とフィクション』)への憧憬であり、全てのものをメタ化/脱構築してしてしまうアイロニッシュな自己が失ってしまった何ものかへの郷愁のようなものなのかもしれない・・・つまるところ私にとって、「高燃費娘」はローティ的なかたちで、「文系少女」はロールズ的なかたちで、「近代」に関連付けられた自己言及だということなのだろう(東浩紀・北田暁大『東京から考える』)。

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軽~くドジっ娘メイドを始めるっちゃ

Fubuki
すみません、なんだか「どこかで絶対誰かがやってるネタ」しか思いつかないのです(ギャグセンスが皆無なもので)・・・というわけで、放映終了してしまいましたが『仮面のメイドガイ』のフブキさん。アニメのコガラシの暴れっぷりもなかなかのものでした。原作は何処に向かっているのかさっぱり判りませんが、フブキさんの影が薄くなっていくことだけは確かでしょうきっと(笑

先頃、ちょっとした頼まれごとがあり、実に数年ぶりに所謂「原稿」を描く機会があった。私は本質的に絵描きではないので、日常的に絵を描く習慣があるわけではなく、そのため、ある程度描く機会を担保するためにブログをやっているところもあるのだが(でないと描き方を忘れるので)、これは畢竟、文字テクスト以外に、やや質の異なるテクストとしてのグラフィカルなものを担保しておくことで、自分の生産するテクストにヨリ多様性を持たせる可能性を担保する、という意図に発する行為である。無論、私の生産するグラフィカルなテクストは所詮は素人の戯れにしか過ぎないが、それでも、例えば本ブログの構造がそうであるように、文字テクストの「ネタ-ベタ」の関係を可視化するのに、テクストの多層性は一定の効果が期待できるようにも思われる(本ブログの場合、イラストは「ベタ」な文字テクストに寄り添っていることになる)。
#なお、初音ミクの消費のされ方などを見ると、音という「テクスト」はこれとは更に異なる位相を占めるようである(増田聡「データベース、パクリ、初音ミク」(『思想地図』vol.1)・・・これは<東方>の音楽二次創作にも適用出来そうな議論である)。
ともあれ、頼まれごとなのでいつものいい加減なイラストで済ますわけにもいかず、久々に丸ペンを使ってペン入れをしたものをスキャンして用いることとしたのだが、さすがにアナログでトーンを貼る気にはなれなかったので、購入したまま積んであった「ComicStudio」を使ってトーン処理を行うこととした。試行錯誤の末なんとか処理を行い、指定されたファイル形式(PSD形式)に変換して確認しようとしたところ・・・「バージョンガテキゴーシマセン」とのエラーが。なんのことはない、どうせたいした絵も描かないんだから、と、延々と無料で附属してきたフォトショップLEを使い続けてきたツケがここで廻ってきた、というオチであった。テクストの多層性がどうとか言うのであったら、最低限の環境は整備するべし、という教訓であろう(笑
#せめてこれが姫萩さんの声(CV日高奈留美)だったら救いようもあったのだが(笑
##ちなみに、この時点で締め切りぎりぎりだったので(すみません)、結局いつも使っているpainterで無理やり塗りました。

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ふたりの張飛

Double_chohhi
・・・色々忙しいんですが、真に忙しいと逃避する気力もなくなるので、今はまだ健康的な方でしょうか(笑)。ということで、『恋姫無双』と『一騎当千GG』の張飛。こういうのが同じ時期に放映されている日本は末期的なのでは、と思わないでもありません。
#ちなみにタイトルは『ふたりのロッテ』にインスパイアされているのですが、この種の作品で「ふたり」がひらがななのはお約束なのでしょうか?『ふたりと五人』とか、『ふたりはプリキュア』とか。
##そういや『一騎当千DD』ネタでも張飛描いてますね。お気に入り?
###べ、別に茅原実里が気に入ってるわけじゃないんだからねっ!(笑

この間、ちょっとした機会があったので、大塚英志の「物語消費」概念と東浩紀の「データベース消費」概念の違いを表現するのに適当な例について、類例をいくつか検討してみた。比較的現在でも通用する例としては、前者がガンダム(「宇宙世紀」が観念される「正史」と、それとの整合性を一応意識しながらも「宇宙世紀」を導入しない、また、富野由悠季が監督を務めない作品の混在)、後者がスーパーロボット大戦(まさに「スーパーロボット」という「データベース」から、プレイヤーが<物語>を解釈して読み込むスタイル)として説明しているのだが、最近、大塚が古典的には「ビックリマンチョコ」で説明していたような「物語消費」を志向するタイプの作品は徐々に少なくなってきている、という印象である。具体的な素材としては、『ネギま!』の展開を素材として検討したのだが、近時の『ネギま!』の展開が端的に示しているのは、所謂「ビルドゥングスロマン」、すなわち、古典的な「近代」的物語作法への回帰であり、企画冒頭に明瞭に志向されていた「データベース消費」モデルはほとんど機能しなくなっている。
#もっとも、私が寡聞にして知らないだけで、実際の同人市場には、例えばザジオンリーイベントとかが頻々と開催されているのかもしれないが(笑
一方で、『一騎当千』や『恋姫無双』などの流通の仕方を見ると、本来「物語消費」のレベルで消費されてきた<大きな物語>(これは所謂「グランドセオリー」の意ではない)が、「キャラ」のレベルに細分化され、その「キャラ」のレイヤーを重ねながらもそこには回帰しない形で「記号化」された「データベース」として流通しているように見える。ここでは、「キャラ」のレイヤーと、読者の「解釈」によって選び取られる「記号」との間に、因果連環を見出しながら「解釈」へと比重がかける、という、極めて複雑な<物語>技巧が洗練されつつあるのだろう。
例えば、『三国志』/『三国志演義』という<大きな物語>を素材とした作品(シミュラークル)は、かつては、例えば『反三国志演義』などのように、それを「物語消費」の形で消費するものが殆どであった。その場合、例えば「張飛」という「キャラ」については、活躍の度合いなどの比重にこそ左右されるものの、それぞれのシミュラークルにおいて化体される「記号」にはそれほどのズレは生じない。しかし、近時のシミュラークルは、『三国志』/『三国志演義』という<大きな物語>が存在しているにも拘らず、それを(おそらく意図的に)無視することで、その物語構造に畳み込まれた「キャラ」のレイヤーから、まさしく「キャラ」という因果連環にのみ接続する形で「記号」を附すことが出来るようになっている。しかし一方で、物語構造にヨリ深く折り畳まれた「キャラ」については、この「記号」の自由度は相対的に低い(例えば、『一騎当千』と『恋姫無双』の張飛像はいっそすがすがしいほどに違うが、両者の関羽像はかなり近似している)。
#これはあくまで仮説だが、「データベース消費」的な作品における「オリジナル」とのズレを測定することで、(狭義の)物語構造における「キャラ」の構造的重要性を割り出すことも出来るかもしれない。
##しかし、張飛は本来もっと重要なキャラなのでは・・・。

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三角締めの良い資料がありませんでした

Triangle
・・・いや、探せばあるんですけど(多分)、最近は純粋な形の「三角締め」を使う選手は必ずしも多くないのかな、という印象を受けます。で、ベスト・オブ・ザ・スーパージュニア優勝記念、ということで、井上亘のフィニッシュホールドのトライアングルランサーを仕掛ける本田透の「脳内妹」、本田悠ちゃん(決勝戦で金本をタップさせた変形型で、足をロックしてエスケープしにくいようになっています)。
#モノクロ一枚絵だけを見て描いているので、色指定違ってたらすみません・・・つーか、いつのまにかツリ目がえらく苦手になってしまいました(泣

またしてもずいぶん間が空いてしまったが、先般、数年前に出版されてひとしきり話題となった、本田透『電波男』が文庫化されたので、良い機会だと思い一読してみた。無論、氏が展開している言説については間接的に知っており、ネット上を中心にさまざまな議論となったこともおおよそ知悉してはいたのだが、改めて原文に触れてみて想起したのは、意外なことに、近時の歴史的言説をめぐる「記録/記憶」の問題系に関する議論、とりわけ、歴史学方法論についての篤実な仕事を重ねている大門正克による、阪神・淡路大震災をめぐる一連の文章であった(『歴史への問い/現在への問い』)。
大門は、これらの仕事の中で「小さなもの」(この問題系には、二宮宏之の「ソシアビリテ論」が接続される)へのこだわりについて強調し、「経験」に即した語りを実践することによって、<グランド・セオリー>解体後の言説空間における歴史的な「語り」を補強しようとしているようである。この問題意識は、おそらく、例えば「受苦者の連帯」を語ろうとする山之内靖のスタンス、あるいは、ややベクトルは異なるかもしれないが、ネグリ=ハートが主体として立ち上げようとする「マルチチュード」とも軌を一にするように見える。
これに対し、同じように震災体験を経た本田の言説は、<恋愛資本主義>と名指しされるようなオイディプス的(!)関係を鋭く批判するものであるが、その批判は大門のような「小さなもの」や「経験」への着目という戦略ではなく、敢えて<恋愛資本主義>と対置されるような、別の<グランドセオリー>を構築しようとする方向に向かっているようである。しかし、その対抗言説は、本田自身も自覚的であるように、「トラウマ」や「ルサンチマン」といった(ラカン的な)<近代>の道具立てにより構築されている。それは無論、強固で説得力のある構築物ではあるが、<グランドセオリー>の解体とはそもそも、価値観の共有という前提そのものを疑わざるを得ない事態のことではなかったか。
おそらく本田の言説は、その説得力と雄弁さにより、<近代>的な諸価値を前提とする<恋愛資本主義>に対する極めて有効なアルタナティヴとして機能してきているのであろう。しかし、この「アルタナティヴ」を立てるという方法論自体に、今の「オタク」たちは乗ってこないのではないか、という危惧も同時に見え隠れする・・・「オタクの可能性」は、例えば、東浩紀が賭けようとするような、現代社会において不可視化する権力が非対称的に「テーマパーク」になろうとする際、その権力主体の意図とは無関係に「データベース」を(「動物的」な消費の結果として)構築してしまう、という範囲のものでしかないのかもしれない、というのは(東浩紀・稲葉振一郎「ポストモダン以後の知・権力・文化」(東『批評の精神分析』))、あるいはペシミスティクに過ぎるだろうか?

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