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March 2008

いけない、おいらんになってしまう!!

Horo
やっと原作を読み終わったので、録りためたアニメを見ることが出来ます・・・ということで『狼と香辛料』の賢狼ホロ。多分100万人くらいが指摘してることだと思いますが、ありんす言葉からは反射的に林家喜久翁(元:喜久蔵)師匠を思い起こしてしまってどうしようもないのですがどうでしょう(笑
#しかし、OPがかなりの度合いで昔のZABADAKっぽいんでびっくりしました(OP曲すら聞いていなかったのです)。「五つの橋」とか「ハーベスト・レイン」とかを思い起こして、つい『桜』を聴きなおしたりしてしまいました(笑
##OPの「いさぎよさ」も、多分100万人くらいが藍さまのアレを思い起こしてるんでしょうね(笑

※少し加筆しました(2008.03.22)。
どうやら「エポック」と言葉が使い分けられているようだが、通例「エピック・ファンタジー」において語られる世界においては、その「叙事詩的」な時間は人間のものではなく、(弁証法的な)「進化」や「進歩」といった概念は持ち込まれないように思われる。従って、『狼と香辛料』を「エピック・ファンタジー」と称することには若干のためらいを覚える・・・無論、議論の存することろではあるが、例えばエンゲルスが指摘するように、経済活動、とりわけ、信用に基づく貨幣経済を前提とする「商人」の発生は、社会のありかたを不可逆的に変貌させるであろうからである(『家族・私有財産・国家の起源』)。
とりわけ、第1巻で語られる、貨幣の改鋳をめぐる「国家」の立ち現れ方などは、『狼と香辛料』の世界のヒエラルヒッシュな関係を構造化するシステムとしての<教会>の権威自体が、世俗の権力による「合理化」によって、いわば「脱魔術化」されつつあることを示している(『職業としての学問』)・・・我々の知るヨーロッパの歴史と異なるのは、『狼と香辛料』の世界では、その「脱魔術化」の作用を大きく踏み越える「奇跡」としてのホロが、実在する「暴力」として機能している点であろう(周知のことに属するが、ホロの原型は、ドイツの農村習俗に見られる「畑に最後に残されて立っている一握りの穀物」の中にいる「穀物の母」、及び、「狼または犬としての穀物霊」であろう(『金枝篇』(岩波文庫版)3巻151頁以下、242頁以下)。この「魔術的」な暴力が、<教会>という権威を、あるいは、貨幣経済という「脱魔術化」の装置を、いかにして踏み越えようとするのか、注意深く見守っていきたいところである・・・その間中、ホロとロレンスの甘ったるいかけあいを延々と聞かされるのかと思うと辟易するが(←良い意味で(笑

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なぜ神柱現出確率が一番高いのがメキシコなのか

Sorano
・・・小野敏洋でメキシコといえば、やはり当然のようにあの作品を思い起こしてしまうのですが、残念ながら1巻の帯のアオリ文句は「『バーコードファイター』『ネコの王』の鬼才」なのでした(まあ、この二つもスゴい作品ですが・・・特に前者(笑))。というわけで、『そらのカナタの!』からヒロインのそらの。中学生なのに、『ヒャッコ』のカトウハルアキに2巻の帯で「俺の嫁」宣言されてしまってますが果たして良いのか(笑
#小野敏洋は確かに「鬼才」ですが、それ以上に、クラシカルなSFをクラシカルにまとめる才能のある人だと思います(長谷川裕一にちょっと似てるかも)。どのあたりがクラシカルかというと・・・リウの髪型がどうしても『超人ロック』にしか見えないところとかでしょうか(笑

近時、特定のキャラクターに対する愛着を示す定型表現として、「~は俺の嫁」という表現が用いられることがしばしばある。この表現は、現代日本社会が単婚小家族をユニットとして形成されており、そのユニットへの参入はそれ相応の価値を含みこんだ営為であり、なおかつ、ロマン主義的感情の順接的な表現である、という前提によっているものと考えられる・・・すなわちここには、「恋愛」という「愛着」と、「結婚」という「制度」とは矛盾無く結びつくという価値が示されている。
ところで、「恋愛結婚」というシステムは、ヨーロッパにおいても中世から近世にかけて、とりわけプロテスタンティズムに即する形で「神聖にしてかつ世俗的な家庭」の権威化と、その中での男性原理の前景化の過程で、フィクティヴに構築されてきたものである(前野みち子『恋愛結婚の成立』・・・ヨリ一般的には、フーコー『性の歴史』)。このフィクティヴな価値が、明治期以降に我が国に移入された際、そこに「進歩」の価値を見出す代償として、江戸時代、すなわち「前近代」の家族関係が「封建的」なものとしてやはりフィクティヴに仮構され、単線的な歴史段階に序列化されたことも、やはり周知のことであろう(上野千鶴子『近代家族の成立と崩壊』)。
しかし、そもそも「恋愛」という本来パトス的な、あるいはデモーニッシュなものを「意思」と結合させて制度化(馴化、と言い換えても良いかもしれない)するこの一連の回路は、「近代」というシステムそのものが抱え込んでいる矛盾をそのまま体現しはしないか、という反論も当然あり得る・・・にも関わらず、この業界において「~は俺の嫁」という宣言が有効に機能するのであれば(例えば『MCあくしず』第6号の特集は「F-Xは俺の嫁」である)、オタク的ななにものか、というのは、私が想定しているような自己言及的な所作に導かれたポストモダン的価値(たとえばこんな)ではなく、フィクティヴに構築された<近代>の価値を「敢えて」選び取ろうとする場なのかもしれない・・・例えば、本田透の一連の議論は、極めてクラシカルに、再生産に付随する「資本主義的」矛盾を指摘するものだが、その文脈からは「~は俺の嫁」という宣言はどのように定位されることになるだろうか。

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