そーか「まず少し俯く」のが正しいのか

いや、何ごとにも「正しい方法」というのがあるのだな、と(謎笑・・・ちなみに典拠は第5話の次回予告)。というわけで、個人的連載テーマ「わが愛しの高燃費娘」として、『舞-HiME』から美袋命。けっこう前の作品になりますが、なかなか面白く見たのを記憶しています(続編の『舞-乙HiME』はちょっと・・・)。CV清水愛さんのイメージソング「ココロの剣」の絶妙な棒読み加減がたまりません(笑
さて、「高燃費娘」の「高燃費」たる所以は、「大食らい」によって摂取したエネルギーが「廊下どたたた」によって即座に消費され、蓄積されないという点である(ちなみに、これが能力の上昇、などの価値概念を含みこむと、「スポーツ少女」の類型になる・・・なお、スポーツがジェンダー的な視線を介在させるものであることは前述の通り)。生物学的な連環については詳らかにしないが、エネルギーが蓄積されない<身体>の表象は、やはりさまざまな意味で「小さい」というところに求められよう。
小倉孝誠の紹介するところによれば、19世紀ヨーロッパの女性美の表象には、「ほとんど身体性を感じさせない、あるいは透明な身体をまとったような」ものと、「ブルジョワ的な秩序が身体的なレベルで具現するようなもの」との分岐が見られるという(『<女らしさ>の文化史』)。前者はさしずめウォーターハウス的な美しさ、後者はルノワール的美しさ、とでも言えようか。本ブログでもかつて述べたが、前者においては、この文脈における「小ささ」の表象は、「子供の呼び声」という形で、ブラム・ダイクストラが指摘するような世紀転換期の「女性嫌悪」へと順接的に結合することになるだろう(『倒錯の偶像』)。
一方、後者においては、この文脈における「小ささ」の表象は、価値付けられることを拒絶することになろう。というのは、「ブルジョア的な女性美」とは、「夫が社会的に成功したことの反映」であり、そこで志向されている価値は、世代(及び夫が蓄積した資本)の再生産に資するか否か、つまり、「母である女性」として適切かどうか、という点に求められるからである・・・しかし、本来フェミニズム/ジェンダー論は、ダイクストラの指摘する「女性嫌悪」よりもむしろ、このような「近代的」な女性像をこそ排撃しようとしていたのではなかったか。
無論、20世紀末葉から21世紀を迎えて、このような指摘は機能しなくなっているという指摘は容易である。この点で示唆的なのは、やはり「胸ぺったんガールズ」である(『みんなで5じぴったん』がオリコンで紹介された際、なんとも気まずい思いをしたものだが(笑))。この3人の中で最もオーソドックスなのは、岩崎みなみの見せる反応、つまり、「ブルジョワ的女性美」に対する(オイディプス的!)コンプレックスとしての描出であろう。一方、小早川ゆたかの表象は、ダイクストラが評するならば、「女性嫌悪」を過剰に重層させたイメージ(「病弱崇拝」と「子供の呼び声」)と断罪されることになろう・・・とすると、あくまで「希少価値」と胸を張るこなたのスタンスこそが、ジェンダーに規整されないきわめてポストモダン的な振る舞いなのだ、と評し得るだろうか。


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