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鍋島といえば閑叟のアームストロング砲

Nekomusume
いやその、『しましま曜日』でゆかりちゃんがネコミミに着られる?時のネタが「怪猫鍋島の猫騒動」なのですが・・・相変わらず読者の年齢層を勘案しないネタだなあ、と(←お前が言うな(笑))。というわけで、最近の私の心のオアシス、第五期『ゲゲゲの鬼太郎』のネコ娘。予告で「山奥のハワイアンセンター」というからてっきり水着だと思ったらそうじゃなかったので、昔の水着姿で補完することにします。水着苦手なんですけど。

さて、先に取り上げた「知恵故障」型の「アホの子」が、ジェンダー的な視線の存在を前提として、「女であること」を超克する、という類型であり、この問題意識においては、<知恵>の「故障」と「蓄積」は、一見逆のベクトルを向いているようで、「女であること」の「自意識」を基準点として絶対値を取るとおそらく等価なのではないか、という仮説を述べた。この類型に即して述べるならば、いみじくも竹本泉が「なんか色っぽい」ものとしてイメージする「猫娘=ネコミミ娘」は、「女であること」の「自意識」に順接的な存在であり、(野本に代表されるであろう)フェミニストからは「憲兵のような厳しさ」で摘発されることになるだろう(野本前掲「私的知恵故障」169頁)。
一方、『ゲゲゲの鬼太郎』における「猫娘」は「ネコミミ娘」ではない。そもそも、「猫娘」は動物を媒介とした妖異であり(ちなみに、ヨーロッパにおける猫に関する怪異譚のルーツには、日本の化猫騒動があるとのことである(仁賀克雄編訳『猫に関する恐怖小説』(訳者あとがき))、そこで示されるのは、ホラー/テラーという、ロマンスと比較的親和性の低い物語類型である。水木しげるの「猫娘」がこの系譜に連なることは明らかであり、とりわけその立ち位置は、第三期『鬼太郎』において、人間のヒロインである夢子が登場することで自覚的に示されている。
とすると、第五期『鬼太郎』において、「猫娘=ネコ娘」が「健気で元気な女の子はいつだって最高」と述べられるような立ち位置を与えられていること(前田久「ネコ娘 その変化 その愛」(『オトナアニメ』vol.6))を、どう考えるべきであろうか。ホラーという領域でも、SFやファンタジーにおいて生じているのと同様、「妖異」がガジェットと化し、「ジャンルホラー」への転化が進行していることの端的な例、ということであれば、おそらく説明は容易になるであろう(稲葉振一郎『モダンのクールダウン』)。しかし一方で、第五期『鬼太郎』は、各エピソードの冒頭で、鬼太郎が「やあ、人間のみなさん」と語りかける、ちょっと『ウルトラQ』を連想させるような、作品世界のフィクティヴな側面を強調する演出を行っている作品でもある。とすると、その作品世界において、「猫娘=ネコ娘」が与えられている立ち位置もまた「演じられている」ものとしてフィクテイヴなものなのかもしれない・・・第五期『鬼太郎』において、「猫娘=ネコ娘」が「コスプレ」としてネコミミをつける日が来るとしたら、これは興味深いことになるに違いない。

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