« で、結局リグジオネータってなんでしたっけ | Main | 地球に厳しく高燃費 »

二番目に喋ったことは「メロンブックスにようこそ」

Miku
甚だしく流行遅れですが、おそらく冬コミでさまざまに話題になるであろう初音ミクを描いておきました。ちなみにタイトルはアルバム『Mimic』所収「コンピューターおにいちゃん」から。元ネタの「コンピューターおばあちゃん」が「みんなのうた」で流れていたとき、背景のデジタル画面に途中から「YMO」って流れていたのを思い起こしますね(笑

それにしても、初音ミクの浸透が惹起した近時のさまざまな問題は、ウェブ社会において生じている変動を象徴的に示す事象であった。無論、この変動は予兆は、YouTubeのようなサーヴィスが現れてきている時点で顕在化していたのだが、直接の前兆と把握されるのは、やはりニコニコ動画であろう。この両者は、「知的財産」というフィクティヴな「権利」に直裁に対峙するものとして共通性を持つが、この問題系は、改めてベンヤミンを引証するまでもなく、「複製技術の時代」において「オリジナル」の作品が持つ「アウラ」が滅びていく過程として、既に前世紀の初頭から進行している事態の延長線上にあるものである(「複製技術の時代における芸術作品」)。この両者の質的な分界は、「アウラの消滅」という局面ではなく、作品のアクチュアリティが「きわめて散漫な試験官」である観客=消費者の側に力点を置いて創出されることに存するであろう・・・周知のように、ニコニコ動画においては、もはや、どのような「オリジナル」を複製したかという段階を超えて、どのように「オリジナル」を編集したかが評価の基準となっているからである。
初音ミクをめぐる問題系が、後者のベクトル上に定位されていることは、おそらく自明のことであろう。初音ミクの「消費」の作法は、一方で、ヴォーカロイドという手法を用いて「オリジナル」の再現を目指す、というものであり、一見、「オリジナル」の「アウラ」の価値を認めた振る舞いであるかのように見える。しかし、そこで追究されているのは、限定された機能をいかに駆使するか、という「技術」であり、再現された「作品」そのものではない。これは、「オリジナル」であると否とを問わず、「作品」をおよそ解釈可能な「テクスト」として取扱う、記号的な戯れの作法である。
このような「消費」のあり方を自明の前提として創出された初音ミクそのものに「オリジナル」としての価値を附与し、「知的財産」という近代的な枠組みで把握すること自体、実は様々に問題性を孕んでいるように見える。例えばボードリヤールはディズニーランドについて、「それ以外の場こそすべて実在だと思わせるために空想として設置された。にもかかわらずロサンゼルス全体と、それを取り囲むアメリカは、もはや実在でなく、ハイパーリアルとシミュレーションの段階にある」とし、「問題は、現実(イデオロギー)を誤って表現したというよりも、実在がもはや実在でなくなったことを隠す、つまり現実原則を救おうとすることにある」と述べる(『シミュラークルとシミュレーション』)。ボードリヤールのこの診断に従うならば、自らの「知的財産」にまつわる「権利」に極めて厳格な立場を取るウォルト・ディズニー社は、「《実在する》アメリカ自体がディズニーランドなんだということを隠す」という目的のために、つまり、実際には「動物的」に生を送っているアメリカ人が、自立した「近代人」であるかのように見せる装置を擁護するためにこそ、「オリジナル」のミッキーマウスがいるかのように振舞っているのかもしれない。

|

« で、結局リグジオネータってなんでしたっけ | Main | 地球に厳しく高燃費 »

「アニメ・コミック」カテゴリの記事

Comments

Post a comment



(Not displayed with comment.)




TrackBack

TrackBack URL for this entry:
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/57426/17500171

Listed below are links to weblogs that reference 二番目に喋ったことは「メロンブックスにようこそ」:

« で、結局リグジオネータってなんでしたっけ | Main | 地球に厳しく高燃費 »