で、結局リグジオネータってなんでしたっけ

いや、『やんやんのクイズいっちょまえ』の答えの一つだということは音で記憶してるのですが、何の名前だったかさっぱり思い出せませんでした(ぐぐってみたら、R-TYPEのボスキャラの名前でした)・・・というわけで、やんやんが表紙だったもので、ここはヒトたるものの義務として、『美少女ゲームクロニクル PC98編』を購入しました。しかし、『マーシャルエイジ』は今から15年前ですか。いやはや。
一般論として、近時生産される創作物の中には、明確に「ノスタルジー」を喚起するという方法論を採用しているものがかなりの程度見受けられる。自らが過去に経験した<物語>を再提示されるとき、人はその<物語>を自分のライフヒストリーの中に位置づけて「懐かしみ」、その懐旧作用によって自らの過去を再定位することになる。つまり、「ノスタルジー」に駆動される作品は、<私>の歴史として位置づけられることで、アイデンティティ確認のための装置として機能しうる、ということであろう。このこと自体は、かつて述べたように、創作者の側の縮小再生産を導く危険性があるとはいえ、さほど問題視する必要はないように思われる。
しかし、上述した議論でやや楽観的に記したような、「ノスタルジー」に駆動される作品が世代間の対話可能性を開く、というようなオプティミスティクな観測は、当然裏切られる可能性もある。例えば、1970年代のロボットアニメには、ポストモダン的情況に立ち至る前の近代的理念、すなわち、「進歩」や「成長」についての信頼がその背景に存在している。このようなあり方がゆらいでいくのが、その後の富野作品や庵野作品の展開過程ということになろうが、この過程をライフヒストリーとして経験している世代としては、上記の近代的理念に即した作品も、「ノスタルジー」に駆動されるものとして消費し得る・・・今年放映された『天元突破グレンラガン』は、そのような作品であろう。
#終盤、人間のシモンと獣人のヴィラルがグレンラガンに乗ることでアンチスパイラルに立ち向かう、という展開を見たとき、「ああ、なんてヘーゲル的な弁証法!」と嘆息したものである(笑
しかし一方、若い世代の消費者が、『グレンラガン』の「ノスタルジー」を、ポストモダン的な作法で消費するのではなく、いわば過去に存在した虚構の歴史によって自らのアイデンティティを確認する装置として受容することがあるとしたら、これは慎重な留保が必要となろう。言うまでも無く、そこには、近代という理念が行き詰まりを見せた、という視角が欠落する可能性があるからである・・・一般化するならば、<物語>を「語られた歴史」として受容する場合、それをアイロニッシュな視角によって一度点検してから、「ノスタルジー」へと落とし込むという操作が必要なように思われる。なぜなら、<物語>にはさまざまな圏域において「政治性」がまとわりつくからである(貫成人「『歴史の物語論』批判」(『新・哲学講義8 歴史と終末論』所収・・・ヨリ一般的には、『ナショナル・ヒストリーを超えて』などを参照されたい)。
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