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December 2007

二番目に喋ったことは「メロンブックスにようこそ」

Miku
甚だしく流行遅れですが、おそらく冬コミでさまざまに話題になるであろう初音ミクを描いておきました。ちなみにタイトルはアルバム『Mimic』所収「コンピューターおにいちゃん」から。元ネタの「コンピューターおばあちゃん」が「みんなのうた」で流れていたとき、背景のデジタル画面に途中から「YMO」って流れていたのを思い起こしますね(笑

それにしても、初音ミクの浸透が惹起した近時のさまざまな問題は、ウェブ社会において生じている変動を象徴的に示す事象であった。無論、この変動は予兆は、YouTubeのようなサーヴィスが現れてきている時点で顕在化していたのだが、直接の前兆と把握されるのは、やはりニコニコ動画であろう。この両者は、「知的財産」というフィクティヴな「権利」に直裁に対峙するものとして共通性を持つが、この問題系は、改めてベンヤミンを引証するまでもなく、「複製技術の時代」において「オリジナル」の作品が持つ「アウラ」が滅びていく過程として、既に前世紀の初頭から進行している事態の延長線上にあるものである(「複製技術の時代における芸術作品」)。この両者の質的な分界は、「アウラの消滅」という局面ではなく、作品のアクチュアリティが「きわめて散漫な試験官」である観客=消費者の側に力点を置いて創出されることに存するであろう・・・周知のように、ニコニコ動画においては、もはや、どのような「オリジナル」を複製したかという段階を超えて、どのように「オリジナル」を編集したかが評価の基準となっているからである。
初音ミクをめぐる問題系が、後者のベクトル上に定位されていることは、おそらく自明のことであろう。初音ミクの「消費」の作法は、一方で、ヴォーカロイドという手法を用いて「オリジナル」の再現を目指す、というものであり、一見、「オリジナル」の「アウラ」の価値を認めた振る舞いであるかのように見える。しかし、そこで追究されているのは、限定された機能をいかに駆使するか、という「技術」であり、再現された「作品」そのものではない。これは、「オリジナル」であると否とを問わず、「作品」をおよそ解釈可能な「テクスト」として取扱う、記号的な戯れの作法である。
このような「消費」のあり方を自明の前提として創出された初音ミクそのものに「オリジナル」としての価値を附与し、「知的財産」という近代的な枠組みで把握すること自体、実は様々に問題性を孕んでいるように見える。例えばボードリヤールはディズニーランドについて、「それ以外の場こそすべて実在だと思わせるために空想として設置された。にもかかわらずロサンゼルス全体と、それを取り囲むアメリカは、もはや実在でなく、ハイパーリアルとシミュレーションの段階にある」とし、「問題は、現実(イデオロギー)を誤って表現したというよりも、実在がもはや実在でなくなったことを隠す、つまり現実原則を救おうとすることにある」と述べる(『シミュラークルとシミュレーション』)。ボードリヤールのこの診断に従うならば、自らの「知的財産」にまつわる「権利」に極めて厳格な立場を取るウォルト・ディズニー社は、「《実在する》アメリカ自体がディズニーランドなんだということを隠す」という目的のために、つまり、実際には「動物的」に生を送っているアメリカ人が、自立した「近代人」であるかのように見せる装置を擁護するためにこそ、「オリジナル」のミッキーマウスがいるかのように振舞っているのかもしれない。

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で、結局リグジオネータってなんでしたっけ

Yanyan_2
いや、『やんやんのクイズいっちょまえ』の答えの一つだということは音で記憶してるのですが、何の名前だったかさっぱり思い出せませんでした(ぐぐってみたら、R-TYPEのボスキャラの名前でした)・・・というわけで、やんやんが表紙だったもので、ここはヒトたるものの義務として、『美少女ゲームクロニクル PC98編』を購入しました。しかし、『マーシャルエイジ』は今から15年前ですか。いやはや。

一般論として、近時生産される創作物の中には、明確に「ノスタルジー」を喚起するという方法論を採用しているものがかなりの程度見受けられる。自らが過去に経験した<物語>を再提示されるとき、人はその<物語>を自分のライフヒストリーの中に位置づけて「懐かしみ」、その懐旧作用によって自らの過去を再定位することになる。つまり、「ノスタルジー」に駆動される作品は、<私>の歴史として位置づけられることで、アイデンティティ確認のための装置として機能しうる、ということであろう。このこと自体は、かつて述べたように、創作者の側の縮小再生産を導く危険性があるとはいえ、さほど問題視する必要はないように思われる。
しかし、上述した議論でやや楽観的に記したような、「ノスタルジー」に駆動される作品が世代間の対話可能性を開く、というようなオプティミスティクな観測は、当然裏切られる可能性もある。例えば、1970年代のロボットアニメには、ポストモダン的情況に立ち至る前の近代的理念、すなわち、「進歩」や「成長」についての信頼がその背景に存在している。このようなあり方がゆらいでいくのが、その後の富野作品や庵野作品の展開過程ということになろうが、この過程をライフヒストリーとして経験している世代としては、上記の近代的理念に即した作品も、「ノスタルジー」に駆動されるものとして消費し得る・・・今年放映された『天元突破グレンラガン』は、そのような作品であろう。
#終盤、人間のシモンと獣人のヴィラルがグレンラガンに乗ることでアンチスパイラルに立ち向かう、という展開を見たとき、「ああ、なんてヘーゲル的な弁証法!」と嘆息したものである(笑
しかし一方、若い世代の消費者が、『グレンラガン』の「ノスタルジー」を、ポストモダン的な作法で消費するのではなく、いわば過去に存在した虚構の歴史によって自らのアイデンティティを確認する装置として受容することがあるとしたら、これは慎重な留保が必要となろう。言うまでも無く、そこには、近代という理念が行き詰まりを見せた、という視角が欠落する可能性があるからである・・・一般化するならば、<物語>を「語られた歴史」として受容する場合、それをアイロニッシュな視角によって一度点検してから、「ノスタルジー」へと落とし込むという操作が必要なように思われる。なぜなら、<物語>にはさまざまな圏域において「政治性」がまとわりつくからである(貫成人「『歴史の物語論』批判」(『新・哲学講義8 歴史と終末論』所収・・・ヨリ一般的には、『ナショナル・ヒストリーを超えて』などを参照されたい)。

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鍋島といえば閑叟のアームストロング砲

Nekomusume
いやその、『しましま曜日』でゆかりちゃんがネコミミに着られる?時のネタが「怪猫鍋島の猫騒動」なのですが・・・相変わらず読者の年齢層を勘案しないネタだなあ、と(←お前が言うな(笑))。というわけで、最近の私の心のオアシス、第五期『ゲゲゲの鬼太郎』のネコ娘。予告で「山奥のハワイアンセンター」というからてっきり水着だと思ったらそうじゃなかったので、昔の水着姿で補完することにします。水着苦手なんですけど。

さて、先に取り上げた「知恵故障」型の「アホの子」が、ジェンダー的な視線の存在を前提として、「女であること」を超克する、という類型であり、この問題意識においては、<知恵>の「故障」と「蓄積」は、一見逆のベクトルを向いているようで、「女であること」の「自意識」を基準点として絶対値を取るとおそらく等価なのではないか、という仮説を述べた。この類型に即して述べるならば、いみじくも竹本泉が「なんか色っぽい」ものとしてイメージする「猫娘=ネコミミ娘」は、「女であること」の「自意識」に順接的な存在であり、(野本に代表されるであろう)フェミニストからは「憲兵のような厳しさ」で摘発されることになるだろう(野本前掲「私的知恵故障」169頁)。
一方、『ゲゲゲの鬼太郎』における「猫娘」は「ネコミミ娘」ではない。そもそも、「猫娘」は動物を媒介とした妖異であり(ちなみに、ヨーロッパにおける猫に関する怪異譚のルーツには、日本の化猫騒動があるとのことである(仁賀克雄編訳『猫に関する恐怖小説』(訳者あとがき))、そこで示されるのは、ホラー/テラーという、ロマンスと比較的親和性の低い物語類型である。水木しげるの「猫娘」がこの系譜に連なることは明らかであり、とりわけその立ち位置は、第三期『鬼太郎』において、人間のヒロインである夢子が登場することで自覚的に示されている。
とすると、第五期『鬼太郎』において、「猫娘=ネコ娘」が「健気で元気な女の子はいつだって最高」と述べられるような立ち位置を与えられていること(前田久「ネコ娘 その変化 その愛」(『オトナアニメ』vol.6))を、どう考えるべきであろうか。ホラーという領域でも、SFやファンタジーにおいて生じているのと同様、「妖異」がガジェットと化し、「ジャンルホラー」への転化が進行していることの端的な例、ということであれば、おそらく説明は容易になるであろう(稲葉振一郎『モダンのクールダウン』)。しかし一方で、第五期『鬼太郎』は、各エピソードの冒頭で、鬼太郎が「やあ、人間のみなさん」と語りかける、ちょっと『ウルトラQ』を連想させるような、作品世界のフィクティヴな側面を強調する演出を行っている作品でもある。とすると、その作品世界において、「猫娘=ネコ娘」が与えられている立ち位置もまた「演じられている」ものとしてフィクテイヴなものなのかもしれない・・・第五期『鬼太郎』において、「猫娘=ネコ娘」が「コスプレ」としてネコミミをつける日が来るとしたら、これは興味深いことになるに違いない。

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