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October 2007

ちょっとした心理テストです

Humboldt
最初は特に他意はなく、デザインのつもりで描いたのですが・・・この背景が「前シッポ」に見えた人は自己申告でペンギン帝国に出向いてペンコマの仲間入りをしてください(笑)。というわけで、近年希に見るツッコミ不在マンガの双璧、なかま亜咲『火星ロボ大決戦!』から<読心のフンボルト>。「帝王様私は?」「うむフンボルト、 お前は/可愛いぞ」「え~?」とか、この種の展開が敵味方問わず延々続きます。つーか誰か止めてやれ。
#ちなみに、もう一つの壁は古賀亮一の『ゲノム』。『ニニンがシノブ伝』は楓がいるのでまだ話が機能するのですが、『ゲノム』は誰もパクマンさんのドリームを止めないので(笑
##『火星ロボ~』では、主人公?のギコとかが突っ込み役にまわることが多いのですが、あくまでこれは相対的な話なので・・・。

さてそれでは、「アホの子」属性とは何か。ネットでもしばしば言及される、野本由紀「私的知恵故障」(『空想美少女大百科』(別冊宝島421、1999))では、「天然自然のものが不思議でしようがない」「パンツが見えても気にならない」「口はいつでも半開き」の三点が特徴として挙げられており、更に、外見的な特徴として「たぬき顔」「ルックスは中の上」「女の子らしいファッション」が挙げられているが、この野本の論考のキー概念は「自意識」、すなわち「女であること」、「見られていること」から自由な「白痴のような美しさ」であろう。
#このあたりの言説分析としては、井上章一『パンツが見える。 羞恥心の現代史』(朝日新聞社、2002)がよく引かれるところであろう。
##そういや、『ネギま!』の夕映には当初「パンツや下着が見えてもそんなに気にしないケド他の人には意外なトコが恥ずかしかったりする」という設定があったようですな(5巻)。
すなわち、「アホの子」属性について語ることは、(当然といえば当然のことだが)ジェンダー的にバイアスがかかっている近時のメディア言説の中で、あえてそのバイアスから次元をずらしたキャラクター造形を提示することで差異化を図る、という戦略についての評価を定めることなのかもしれない。「アホの子」は、例えば「フェミニン/マスキュリン」や「ガーリッシュ/ボーイッシュ」といった対抗概念により水平化される言説に異を唱え、ジェンダー的な問題系の束縛から解放された魅力を帯びることになるのであろう。
さて、個人的な問題関心としては、「アホの子」という類型が帯びる「知恵」への距離のとり方がいささか興味深く思われる。「アホの子」という呼称自体が指し示すように、上述の野本の分析における「自意識」からの解放は、「白痴のような美しさ」として描出される。しかし、これとはまったく逆の方向性として、知識を蓄積することでこの「自意識」からの解放を強調する方法論も存在すると考えられるからである(「知識の蓄積」と「知恵」を同視出来るかどうかは議論がありうるが)。もっとも、人文科学系のそれはロマン主義に傾斜するため、ここで採用されるのはもっぱら自然科学系の「知恵」、すなわち「マッドサイエンティスト」の類型であろう。これは過去のキャラクター類型でも、それこそ手垢がつくほど用いられてきたものだが、果たして昨今の「アホの子」に対してはどのような位置関係に定位されるのであろうか。
#そういえば、ギャルゲーで「社会科学系の知性」を強調するキャラ造形ってあまり見ないような。何故だろうか?

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「然し、入口の扉を中心にして、水星と金星の軌道半径を描くと、その中では、他殺の凡ゆる証拠が消えてしまふのです」「そーなのかー」(光は東方より・14)

Rumia
・・・<東方>には結構「アホの子」属性候補がいるような気がしますね。筆頭はチルノですが前に一度ネタにしてしまったので、次点のルーミアを描いてみました(ほかにも橙とかみすちーとかがそうかな)。こう返されてしまうと法水麟太郎にもどうしようもないでしょう。以下類例。
「皮肉な話だけど、市川の精神病院にいる爺やさんから教えられた、この聖不動経の経文をよく見るといい。ここには、君のしたことの一切が、全部、書き付けられているんだから」
「そーなのかー」
「二十年前にかの・・・Mを逐い走らしたかの卒業論文『胎児の夢』が、眼に見えぬ宿命の力をもって確実に彼をモトのところへグングンと引き戻してきたのだ」
「そーなのかー」
#しかし『風神録』は難しい・・・。

近時、初音ミクの動向を踏まえ、巷間では「アホの子」属性についての議論が盛んなようである。一般的に、「属性」の措定には、ほぼ同じベクトルを向いている「キャラクター」類型を蓄積することで、創作者/消費者の双方において共通了解を調達する可能性を上昇させる効果が見込まれているように思われる。すなわち、ある一定の「型(アーキタイプ)」の了解を共有することで、「キャラクター」の愉しみ方自体をテンプレート化することが、作り手・受け手共に可能になるわけである。これは単純に、効率の問題としては有効な方策である。
その一方で、「属性」の措定は、「ツンデレ」をめぐる言説に見られたように、「ほぼ同じベクトルを向いている」はずのキャラクターの集合を「定義」によって細分化するという作用ももたらすようである。そこで、例えば『つよきす』のような作品について、その全てのキャラクターを「ツンデレ」のテンプレートとして愉しむことが出来るか、それとも、定義による細分化作用によって、結果的に自らの「ツンデレ」の愉しみ方を先鋭化するかは、畢竟、消費者の側の作法に委ねられることになる。
「アホの子」属性についても、おそらく上記の二つの作用が同時に働いているのだろう。ネットの噂では(笑)、ともかく「アホの子」に類するキャラクターを集積してデータベースを作ろうとする動きがある一方で、その内部を定義によって細分化し、場合によっては「これはアホの子ではない」とオミットしたりする動きも平行して見受けられる。
どちらの方向性を取るかは、上述したように消費者の側の問題なのだが、「アホの子」をめぐる議論の特色といえそうなのは、「初音ミクがアホの子である」というところには最大公約数的な共通了解があるところであろうか。初音ミク自体には本来的には「キャラ」が備わっていないというところからすると、この現象は興味深い問題意識を投げかけているようにも思われる・・・究極的には、無限に意味を飲み込むことの出来る空洞にしか、人は共通了解という約束事を設定することが出来ないのかもしれない。
※オチがつかなかったので、この項続きます・・・。

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