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July 2007

言い訳は用意しておきましょう

Ink_2
まずそれ以前に、深夜ならまだしも日付が変わる前(TVKは23:00から)にコレを流していることの言い訳を聞きたいものです(笑)・・・というわけで『もえたん』からぱすてるインク。設定画を見るの面倒だったので、紙媒体の『もえたん』を引っ張り出してきて描いたのですが、今見ると細部がいろいろ違うっぽいですね。
#原画のテイストを再現できないのは仕様ですのであしからず・・・『電撃萌王』(第二期)の「スク水描き方講座」を見て描けばよかったのか(笑
##しかし、「歌の力で文化を取り戻すのだ~」とか、まったくヒネりも必然性もないパロディを乱発するのはいかがなものか。第3話タイトルもホントは「怪奇大作戦」なんだろうし(笑

先だって、後楽園ホールで『ハッスル』を観戦する機会があった(藤田さまさんくーです)。一部であまり評判の良くない『ハッスル』だが、エンターテインとしてしっかりパッケージングされており、私は結構好感を持った(高田総統とインリン様は確かに、すばらしい「キャラ」である(笑))。しかし一方で、訓練を受けていない素人さんが「プロレス」のリングに上がる、ということにつき、根源的なところで違和感、というか、いろいろ考えさせるとことがあったことも確かである。象徴的だったのがメインの6人タッグマッチで、素人2人+坂田亘のハッスル軍と、巨大な外人レスラー2人+川田利明のモンスター軍(こんなところでスコット・ノートンが見られるとは・・・)が対峙し、そのコントラストを強調する、という設定だったのだが、最後に、決して体の大きい方ではない川田が(手加減しているのだろうが)まともに浴びせ蹴りをRGに入れてしまい、見ているこっちが心配になるようなフィニッシュだったのである。
試合後藤田さまと食事をしながら話していたのだが、確かに「ファイティング・オペラ」である『ハッスル』の主要な構成要素はストーリーラインであり、その意味で川田がピンフォールを奪う必要があったとしても(そうしないと天龍が出てこられないので)、果たしてそれを素人相手に、プロレス的にも説得力のある技で決める必要があったかどうかは疑問である・・・ここは、プロレスをプロレスたらしめている点は果たして何か、ということを考える際に重要なポイントであるように思われる。
おそらく、川田がプロレス技で坂田から3カウントを奪っていたのであれば、私はさほど違和感を感じなかったであろう・・・プロレスラーは、プロレス的に説得力のある技を受けても怪我をしないように体を作っているからである。また逆に、川田がプロレス的でない技でRGに勝ったとしても(例えば、チャゲ&アスカのモノマネ対決とか)、それはそれで違和感を感じなかったかもしれない。とすれば、私が感じた違和感は、「プロレス」というシステムに、本来的には参入し得ないアクターが混入したことによる違和感だった、ということになる・・・言うまでもなく、「プロレス」というシステムは「勝ち/負け」という二分法のコードではなく、「説得力のある技/ない技」というコードにより駆動されるものだからである(勝敗はこのシステムを駆動するコードではない)。
とすれば、果たして『ハッスル』が取っている戦略はプロレスにとって有効なのであろうか?これは、プロレスに限らず、コアな趣味について、広く<世間>と対峙する際にどのような戦略を取るか、という問いに繋がるであろう・・・というのは、おそらく『ハッスル』は、どんどん敷居が高くなってしまっているプロレスになんとか<世間>のへの回路を開くための努力だと考えられるからである。確かに、芸能人や著名人をリングに上げることは、この回路を開く効果があると思われるが、そこで上記したプロレスのコードを撹乱してしまうと、結局はそれはプロレスではなくなってしまい、本末転倒となってしまいかねないためである。
ここで参照対象となるのは、例えば『MCアクシズ』や『鉄道むすめ』などの試みであろう。私はミリタリーや鉄道にはさほど詳しくないが、もしこの試みがこれらの趣味を駆動するコード(それがどんなものかは私には想像することしか出来ない・・・これとかこれとか)を撹乱するのであれば、それはかえって有害なものとなりかねない。私のようなハンパな人間には面白い現象なのだが(笑
#藤田さまの意見では、ミリタリーと鉄道の二ジャンルはかならず一定数のファンが生産され続けるので(現在の教育システムがジェンダー論的にまずい、とかいう理由で根本から見直されたら判らんと思うけど(笑))、先細りする一方のプロレスほどこういった試みを企てる必然性は薄いようにも思われるが・・・。

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きっと五丈原にも温泉があるに違いない

Ekitoku
・・・まさか自分がこのネタのイラストを描くことになるとは思いませんでしたが(笑)、『一騎当千DD』から張飛益徳(個人的には「翼徳」の方を使いたい感じ)。初代の『一騎当千』のときはあまりにネタ過ぎてついていけない感じだったのですが、『DD』は何故かするずるとオンエアを見続けてしまいました・・・世代的な問題なのかもしれませんが、字幕で「成都学園一年 張飛益徳」とか出されると、それだけで笑えてしまいます。
#しかし許猪に負けるのは能力的にいかがなものか(いやほら、張飛武力99だし)。
##しかし最近のアニメは、どうしてもオチに温泉を持って来たがるのですな。『おとぎ銃士赤ずきん』も温泉だったし(笑
###『さよなら絶望先生』なんか初回から温泉だったし(笑

最近とあるきっかけで、東浩紀の『ゲーム的リアリズムの誕生』を精読する機会があり、それと併せて『コンテンツの思想』を読んだのだが、後者のうち、桜坂洋・新城カズマとの対談がなかなかに面白かった。というのは、東浩紀も桜坂洋も、イラストを描くときに「オーソドックスに目から描く」と述べており、そのことと、東浩紀が他の対談でこだわっている「キャラ」にグラフィカルなイメージが必須であるかどうか、という問題がリンクしているのではないか、という気が少ししたからである。
東浩紀は、キャラの「固有名」の創作について、その構造を理解できないと述べている。だからこそ、「小説には言葉の世界しかなくて、虚構の固有名しかないのに、それが固有名として力をもっている」として、評論と小説が本質的に違う、という立場を取るのであろうし、逆に、東浩紀が「オーソドックスに目から描く」イラストには、「固有名」としてのキャラの本質は備わることが無いのだろう(創作者である桜坂のイラストには備わるのかもしれない)。『動物化するポストモダン』では、「萌え記号」だけの単一の層としてデータベースがイメージされ、消費の観点からはその組み換えによって「萌えキャラ」を創作しうる、という理解が示されていたが、創作の側の観点からは、データベースには「キャラクター」の層も存在する、というように論が修正されているのも、この事情を反映しているのだろう。
このあたりは、小説もイラストもネタ程度にしかかじっていない私には、心情的によくわかるところである・・・思うに、評論という作業は、創作(キャラの「固有名」の創作も含む)の手段から疎外された立場から、創作を行いうる人々が造り上げる価値を収奪し、その交換過程において言説の価値を仮構する、という、エンゲルス的な意味での「生産者の仲介的階級としての商人」の所業(G-W-G’)なのではないだろうか・・・おそらく、評論家は「小説」の価値に、自らが参画できないからこそこだわるのだろう。
#当然、私がこのように「張飛」をネタにイラストを描いても、そこに「キャラ」は立ち上がってこないはずである(笑

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大きな歴史を食べちゃった(光は東方より・13)

Keine

・・・最初見たときは「ワーハクタク」という字面がなんのことなのかさっぱりわからなかったのですが、「were-白沢」なのですね。月齢に支配されて変身する、という属性だけで十分「妖異」なのだろうと思いますが、変身した結果「白沢」という妖怪になる、というメタな「妖異」が存在し得るのは、さすがに幻想郷ならでは、というところがあります・・・というわけで、変身前の上白沢彗音。どういうわけか変身後の姿の方が有名なのですが(笑
#しかし、『東方求聞史紀』によると、けーね先生は変身前でも宿題を忘れたりすると頭突きをかましてくるらしいですな(笑
##ちなみにタイトルは「けーねのえかきうた」(『東方乙女囃子』所収)より。

先頃、ちょっとした機会に、前近代の日本史を専攻している後輩筋の学生さんたちの前で、歴史学方法論について簡単な報告を行わざるを得なくなり、しかたがないので、あまりつっこんで読んだことの無い様々な近時のアプローチについて、聞きかじりのレベルの適当な話を適当にすることとした。ところが、やや意外なことに、それこそブローデルだのウォーラーステインだのといったメジャーどころの理論についても、前近代の日本史を専攻している学生さんはどうやらそれほど関心を抱いていないらしいのである。
上記した通り、私は決して歴史学方法論について詳しいわけではないが、それでもさすがに、いわゆる「戦後歴史学」的な語りがその自明性を失うと共に、アカデミズム的な「実証」の作法も射程に限界が来つつある、ということを、折に触れて感じるところがある(永原慶二『20世紀日本の歴史学』)。そこで勢い、ポストモダニズムについても多少の関心を持たざるを得ないのだが、後輩諸兄は、基本的には「実証」によって事が足りる、と今でも考えているようである・・・「大きな物語」ほどの共通了解にはならないにせよ、その後の歴史を語る際に、何がしかの共有可能性のある言説があるとしたら、やはりそれは、例えばフーコーのような思想家のものであるように思えるのだが、あるいは、ポストモダンの歴史家は既に、対話可能性という問題関心自体を失っているのだろうか?
#ハーバーマス的な「コミュニケーション」が持つ権力性を警戒しているのかもしれんけど(笑

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