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May 2007

ひょっとして今はない店舗なのかも

Apple
先の木曜日、<瓦斯燈の偉い人>蘭丸さまから、赤坂アンミラツアーのお誘いをいただいていたのですが、仕事が終わらずに行くことができませんでした(泣
・・・で、ストレス発散のためにここはアンミラの絵、と思ったのですが、久々に参加した先の「メイドさん学科」のオフ会の二次会で『赤い光弾ジリオン』の話題が出てたなあ、と思い起こしたので、せっかくなのでアップルに着せることにしました(手元に1枚しか資料がないので難儀しましたが・・・まあ似ないのは仕様ということでw)。
ここから激しくうろ覚えなのですが、ジリオンのドラマCD『お洒落倶楽部』で三択のクイズがあり、選択肢の一つが確か「赤坂アンナミラーズ」だったように思い込んでいました。ところが、別の選択肢である「リキマンション」が実は赤坂にあるので、これは勘違いのようです(ちなみに正解は「リックスが待ち構えている(だったか?)鍾乳洞」です)。いったいどこの店舗だったんだろう?
#実は、このCDが私が「アンナミラーズ」という店を知るきっかけとなったのです(笑

日曜日に後輩の結婚式があり(おめでとうございます)、その場で大学時代の先輩・後輩と邂逅する機会に恵まれた。当然のように昔話に花を咲かせることとなったのだが、こういった昔語りは実に楽しいもので、上記した「メイドさん学科」のオフ会もそうであったように、10年やそこらのタイムラグは一瞬で消し飛んでしまう。
この行動様式は「ノスタルジー」と表現して差し支えないものと思われるが、今の「オタク」業界において、この「ノスタルジー」を動員する形で、現在進行形で作品が生産されるのであれば、確かにこれは、前回も言及したような「閉塞」、すなわち、縮小再生産に繋がる危険性を帯びる。しかし、これも前回指摘したように、「ノスタルジー」に駆動されることを見越した作品が必ずノスタルジックに消費されなければならないわけではないので(今の若者が『地球へ』を新鮮なものと捉えてもそれはそれで一つの愉しみ方である)、この点は実はさほどフェイタルな問題では無いように思われる。
むしろ、仮に「オタキング」岡田斗司夫が指摘するように、本当に「今の20代の人は価値の相対化がヘタ」なのだとすれば(唐沢俊一・岡田斗司夫『オタク論!』)、上記のような「ノスタルジー」に駆動される作品は、世代間の対話が困難だとされる「オタク」のあり方において、対話のチャンネルを開く格好の素材となるのではないだろうか。特定の時代体験を特権化するのではなく(「エヴァをリアルタイムで見ていた」が「TYPE-MOONの同人時代を知っている」に転化するのは確かに容易いだろう(前島賢「僕をオタクにしてくれなかった岡田斗司夫へ」『ユリイカ』17巻9号))、時代体験が重層的に蓄積された作品を前にした際の解釈のズレ、すなわち、「ノスタルジー」に駆動される消費とされない消費のズレを対話によって確認しあうことで、それぞれの「世代」がどんな知見や解釈作法を前提としているか、ということが共有されていくのではないだろうか・・・とはいえ、例えば実際に若者と『まなびストレート!』論を交わす機会を見つけること自体が難しいのだろうが(笑

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べ、別に前回は細胞ネタを振ったわけじゃないんだからねっ!

Mee_1
・・・ツンデレっぽく言ってみれば許されるかなあ、と(笑
#いや、ホントに前の記事を書いたときには深く考えていなかったのですが・・・作中、生徒会顧問の先生が「昔学生運動やってて」と回想するシーンがあるのですが、作品世界が2035年だから、学生時代に運動家、ということはかなりの希少価値なのでは(笑
##というわけで、今活動中の団体を表示してしまうとまずそうなので、ヘルメットに検閲を入れてみました(笑
先だって非常に上手くまとまって終わった『まなびストレート!』から衛藤芽生・・・「いわゆるツンデレキャラ」とか紹介されてるけれども、きわめて古典的なつくりの作品なわけですから、そんな今風の表現じゃなくて、それ相応の古典的な類型で紹介してあげないとちと可哀想な気も。昔ならやっぱり「委員長キャラ」でしょうかね・・・なんとなく一番「活動」しそうな感じだし(笑
・・・べ、別に平野綾が声を当ててるキャラを選んでるわけじゃないんだからねっ!(笑

「特定の年齢層」、具体的には「90年代のギャルゲーにハマっていた世代」に大人気(だったらしい)の『まなびストレート!』だが、更科修一郎は、この作品の消費のされ方に対して、それ自体がノスタルジーに駆動されていた「学園ギャルゲー」を更にノスタルジックに愉しむ、という「二重の意味」のノスタルジーによる「閉塞」を見ている(「さらたね談」(『オトナアニメ』vol.4))。ここで名指しされている「学園ギャルゲー」としては、例えば『卒業』(1992)や『ときめきメモリアル』(1994)などを想起することになるのだろうが、「80年代的なもの」が、例えばMS少女のように比較的固定されたイメージであるのに比すと、「90年代」の作品群には統一的なイメージを見出すことにはいくばくかの困難を覚えるようにも思われる。
確かに、上記した2作品のように、90年代前半の「学園ギャルゲー」は、いささか陳腐なまでに順接的なノスタルジーに駆動されていたと言えるだろうが、その一方で、90年代後半の作品には、ひとつのディケイドの中でありながら、既に前半期の作品を参照することによって成立しているものが散見される(『同級生2』(1995)、『下級生』(1996)などが典型例であろうか)・・・その中で、とりわけ、「ギャルゲー」であることのみに過剰に特化した作品(というよりある種のムーヴメント)としては、おそらく『センチメンタルグラフィティ』(1998)に指を屈することになるであろう。コンテクストから完全に切断された記号としてのキャラクターのみが、「ゲーム」本体の質とは無縁な形態で「消費」される、というこの事象は、単なる「ノスタルジー」に駆動される「学園ギャルゲー」とは明らかに質を異にしている。
『センチメンタルグラフィティ』はある意味で意図的に「空虚」な作品だったわけだが、この「空虚」は、更科が『まなびストレート!』に見る「既存の作品から切り貼りしているのが透けて見える」ことによる「空洞」、同世代を癒す「閉塞」とは、若干の意味のズレを見せている。なぜなら、『センチメンタルグラフィティ』を愉しむことの出来るスキルを身につけた「エヴァンゲリオン以降」のポストモダニストたちは、おそらく、『まなびストレート!』の「消費」にもはや「ノスタルジー」など必要としないであろうからである。

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