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March 2007

「これがWNF(ワールドネコミミフェデレーション)のやり方か――!?」

Tama
後楽園ホールにチャンピオンカーニバルを見に行ってきたのですが(藤田さまさんくーです)、その際菊タローがわざわざポーズを決めて華麗にヒップアタックを決めていました・・・確かに、今越中はどういうわけか旬のレスラーなのですね(笑
#試合自体はカード編成の問題もありいろいろ難しいことになっていましたが・・・菊タローは実力もあるのに、こういう時にワリを喰ってしまうのがちょっとかわいそうですね。
というわけで、高雄右京『天然家族みにっつめいど』から、「天然ネコミミメイド」の吉祥寺たま。2巻の途中まで、一応SF的なバックボーンがあるようなないようなストーリーだったのですが、「中学校編」に入ってから、どうやらそういう瑣末なことはどうでもよくなってしまったようです(笑

だらだらと語り続けているが、「新春メイドさん放談2007」に関し「創作のメイドさんが妄想に陥ってしまうのは何故か」という点について若干・・・このことはおそらく、いわゆる「言語論的転回」後に展開された、「歴史叙述」と「フィクション」との関係性を問う問題系へと結びつく(ゲオルク・イッガース『20世紀の歴史学』)。
まず、テクストの紡ぎ手としての「作者」、とりわけ、「歴史」を素材として利用する場合の「作者」側の問題であるが、「物凄く調べてる人でも、創作では妄想の「メイドさん」を書」いてしまうことが、「読者」に何がしかの「ショック」を引き起こすのであるならば、その「読者」が暗黙のうちに前提する価値の一つには、「創作」を行う「歴史小説家」(この場合「メイドさんもの」を創作する創作者)は、その「創作」にあたって可能な限り資史料を蒐集し、「歴史考証」を行う中から何がしかの価値ある<物語>を塑成するべきである、という公準が存在するように思われる。
もしそうだとするならば、ある局面では、その「創作」の価値は、そこで素材とされる「歴史考証」の妥当性、言い換えれば、「歴史叙述」としての価値(「メイド」研究としての価値)へと転換されてしまうことにはならないだろうか・・・「歴史小説家」に対して、「創作」とはいえ仮にも「歴史」に取材するのであるから、常にその実証性、妥当性を学問的基準によって検証される「歴史家」たれ、と要請するのは、やや酷なのではないか、と思わないでもない。理論的には、実証性に重きを置かない「歴史小説家」が、「創作」のために真面目に歴史的な資史料を蒐集せず、まさしく「妄想」だけでその作品を創り上げたとしても、そのことがただちに「創作」としての価値の減少を帰結するとは限らない。そもそもそれが「創作」である以上、「読者」のイメージを喚起するために「作者」が歴史的素材を恣意的に「動員」することには、とりたてて問題視するべき点はないように思われる。
もし問題があるとすれば、(これも鼎談で適切に指摘されているが)むしろ「読者」が「創作」を「歴史叙述」として受け止めてしまうような場合であろう。この場合の第一のパターンとしては、「読者」の側が、テクストを実証性や妥当性の基準によって精査せずに「フィクション」を「歴史叙述」であると誤認する場合が考えられよう(例えば、『エマ』の「英國」を「英国」であると誤認するような場合)。この立場はしかし、上述したような、「歴史小説家」は究極的には「歴史家」たれ、とする立場と価値観を共有することになろう・・・すなわちそこには、実証可能な「客観的な歴史」が(少なくとも理論上は)存在する、という前提があるからである。
この点、第二のパターンとして想定される、「読者」が「創作」を敢えて「歴史叙述」として受け止める、という選択について検討する必要がある。つまり、言語を媒介する以上は叙述とはなべて「解釈」であり、歴史叙述と文学は理論上区別できないのだから、自らにとって価値のある叙述を「歴史」であると主張する場合である(『エマ』の「英國」こそがわが「英国」なのだ、と是認するような場合)。この「選択」については、自分が身を置く時間/空間と「断絶」した対象については、その言説はさほどの問題を惹起しないように思われる・・・このことが、「創作のメイドさんが妄想に陥ってしまう」ことの一つの理由なのではないだろうか。「創作のメイドさん」は「妄想に陥っている」のではなく、「妄想であることを(敢えて)選んでいる」ように思われるし、その「選択」が楽しめる「読者」であれば、「テクストの快楽」に意識的に身をゆだねる(溺れるのではなく)ことは一向に差し支えないのではないか、とさえ思えるのである。
#逆に、自分が身を置く時間/空間と「連続」した対象について、敢えてこの「選択」を行うことには、さまざまな問題が含みこまれる危険性がある・・・などと、ひと時の『国民の歴史』などの流行り方を見ると思ってしまうのである(笑

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せっかくだから俺はこの「メイドさん」を選ぶぜ!

Pikachoo
もはやここまで似ないといっそ爽快なくらいなのですが(泣)、羽うちわ持ってるメイドは他にいない、というところで区別していただければと・・・というわけで、10年続いているにも関わらずいまだにシリーズ名の無い付和雷堂さんのメイド漫画から、ぴかちゅーこと宙光。特技は兵法と亜空間戦闘、それとローキックを少々(笑
基本的には時事ネタ、というか流行りモノのネタがこれでもかと詰め込まれてるのですが、ベースとなっている知見がかなり重なっているので(三国志とか銀英伝とか)、私は非常に愉しんでしまいます。
#ちなみにイラストの背景は7WAYSHOTのつもり・・・重りを見ると16tと書いてみたくなるのは人として当然のことかと(笑
##タイトルは・・・言うまでも無いですね(笑

前回に引き続き「メイドさん放談2007」に関連して、「何で眼鏡っ娘でもなく幼馴染でもなくツンデレでもなくメイドさんなのか」という点を考えてみたい。初めに結論めいたことを述べるならば、「メイドさん」が(少なくとも現代日本社会において)過剰に意味を喚起する存在であるとしても、「メイドさん」だけがその対象となるわけではないであろう。かつて当ブログでも折に触れて、「萌え」と「オタク」の関係について雑文を草したことがあるが(これとかこれとかこれとかこれとか・・・ずいぶんあるなぁ(笑))、おおまかに要約すると、解釈行為としての「萌え」には解釈主体としての「オタク」のあり方が大きく関わっており、その行動様式は「再帰性」や「自己言及性」として特徴付けられる、ということを基本的には語ってきている(のだろう、多分(笑))。お気づきのように、私の雑文は基本的には、東浩紀や稲葉振一郎などの社会学・現代思想系の「オタク」分析に大きく示唆を受けているが(その全てが妥当だと思っているわけではないが)、これらの議論においては解釈対象は基本的には「記号」であり、そこにあるのは「「メイドさん」でなければ萌えない」、というような「質の差異」ではなく、「「メイドさん」の方が萌える(が他のものの「萌え」の可能性も担保されている)」というような「量の差異」---かつて使った用語に従えば「価値付与可能性」の差異---であろう。
それでは、このような「量の差異」を生ぜしめる要因が「メイドさん」には備わっているだろうか。試みに、「萌えの極北(笑)」として継続的に蒐集した『電撃萌王』(第一期)の「萌絵萌絵コロシアム」が取り上げたテーマを列挙してみよう:下着、水着、寝間着、学生服、メイド、浴衣、部活動、妹、ウェイトレス、おへそ、ケモノっ娘、お姫さま、働く娘さん、水着(二回目)、スポーツ少女、「これが私の萌絵王!」・・・サンプリングとしてのバランスはいささか怪しいが(笑)、大まかに分類すると、身につける衣装(身体的特色含む)についてのテーマと、存在そのものに引き付けたテーマに二分されるようである。「メイド」と「ウェイトレス」がどちらも独立のテーマとして取り扱われているという点は興味深いが、ここで着目したいのは、「ウェイトレス服」は「衣装」のテーマとしては成立にくいが、「メイド服」はおそらく容易に成立し得る、という点である(この互換性が成立するのは他には「学生」と「学生服」であろうか・・・「水泳選手」はやや普遍性に足りないように思われる)。ある一定のグラフィックイメージが固定されている、というのは、価値付与可能性の点からはやはりプラスであろう。
しかし、ここでやはり注意しておくべきは、歴史上実際に存在した「メイド」の殆どは、今我々がイメージするような「メイド服」を着用していたわけではない、ということである。墨東公安委員会さまが鼎談において適切に指摘するように、ヴィクトリア朝末期の中・上流階級は(おそらく今の「オタク」の直系のご先祖様ではあると思うが(笑))、同時代的には「メイドさん」に「萌え」ているわけではなかったのであり、仮にイギリス人が「メイドさん」に思い入れを持つことがあるとしても、それは、(再言すれば)「創られた伝統」としての「メイドさん」の「偶像」に対する後世における思い入れにならざるを得ない・・・ましてや、歴史上の接続の無い現代日本人においては、このことは自明であるが、この「断絶」が逆に、「創作のメイドさんが妄想に陥ってしまう」という構造を導いているようにも思われる。
#この点は更に次回。

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おらといっしょにぱらいそさいくだ(せっかくだから有効活用・6)

Ayanami2
昨日所用で郵便局に赴いた際、ついつい気の迷いでエヴァの切手シートを購入してしまいました。「今や日本のアニメを代表する作品の一つとされている」のですかエヴァは・・・というわけで、「仰向けに寝そべる」ポーズで綾波をば。実に数年ぶりに描いたのですが、これまで一体何点メイド服の綾波が描かれてきただろうかと思うと、なにやら愉快なようなぞっとするような(笑
#タイトルについては・・・エヴァの映画を見たとき、どうにも諸星大二郎の『妖怪ハンター』を思い起こして仕方がなかったのですよ(笑
##初出時のコミックスでは一緒に収録されていた「生物都市」の方が、イメージ近いかも知れません。
###つい最近では『百合星人ナオコサン』にこのネタがありましたね・・・しかし今の若い人に由里徹が通じるのだろうか(笑

いつも興味深く拝読している墨東公安委員会さまのブログにて、この新年に斯界に一家言持つ紳士が集って開催された鼎談である「メイドさん放談2007」の記録が公開されたとの報に接し、早速閲覧させていただいた・・・自分の過去の悪行に過分な言及をいただいてしまい汗顔の至りなのだが(苦笑)、そこで語られた今の「メイドさん」についての現状分析が非常に興味深いものであったので、少し思うところなどを何回かに分けて綴ってみようかと思う。
#ちょうど何回かメイドさんネタを続けていたことでもあるし(笑
鼎談の際墨東公安委員会さまが言及して参照を求めている、ブラム・ダイクストラの『倒錯の偶像』については、私も過去若干取り上げたことがあるが、その文脈では、19世紀末の世紀転換期に語られた<女性悪>についての言説が前提とする、主として男性の側からの女性への「倒錯」した視線が、20世紀末の世紀転換期に至ってもさほど変容を被っていない、ということを指摘するに留めた。このレベルでは、「戦闘的なフェミニスト」であるダイクストラの批判は当を得たものであった、ということになるのだが、今回上掲の鼎談から、こと現今のメイドさんのあり方の分析に際しては、もう少し鳥瞰的な、同書についてのメタレベルでの検討が有益ではないか、との示唆を得た。
補助線となるのは、鼎談の主催者の酒井シズエさまが提唱する「メイドさん大統一理論」である。私が理解した限りでは、現今のメイドさんをめぐる問題状況は、畢竟、「メイドさん」が過剰に意味を喚起する存在であることにある、というのがその含意であるように思われるが(多分(笑))、その意味の過剰さが極点に達したのがヴィクトリア朝だったのではないか、という酒井さまの指摘に対して、『倒錯の偶像』が分析対象として提示されるのである・・・ここで検討すべきは、「倒錯」の内実ではなく、むしろそれが「偶像」を通じたコミュニケーションとして展開した、という点であるように思われる。
上述したように、「魔女狩りを連想させるような容赦ない筆致」でなされる筆者の男性たちへの批判はそれ自体としては真っ当なものであろう・・・もっとも、批判の文脈に引き付けることで<女性悪>の内実自体に矛盾が畳み込まれてしまっている印象も受けるが。
#今回イラストのネタにした綾波レイの今ひとつ固定しないキャラ造形は、逆説的ではあるがこの点で示唆的であるかもしれない・・・病弱崇拝と地母神的豊穣(あるいは母胎回帰願望)を一人のキャラクタに重ね合わせるのは、少なくとも私には難しい。
しかし筆者がいわば正攻法のフロイト的アプローチ(「倒錯」に対する批判)を執拗に重ねるほどに、私はしばしば、それが同時代の図像作成者-図像鑑賞者の回路に対してどの程度有効な手法であるのか、という疑問を抱く。かくも大量の「倒錯の偶像」が頒布され、消費されたという現象は、過剰に意味を充満させた「偶像」に「倒錯」を読み込むことの出来る「読者」が存在することが前提となっているが、一方で、筆者が同書の図版蒐集に大変苦労した、というエピソードが示すように、その「偶像」の記名性は比較的薄いように思われる・・・ウォーターハウスやロセッティといった「大家」と、(私が無学なだけかもしれないが)同書に至るまで名前すら知らなかった絵描きが「倒錯」の度合いという尺度で並列に示される同書の分析は、図らずも、ロラン・バルトの言うような「作者の死」を象徴しているようにも思われる・・・ここで問題とされるべきは、何故このように意味の過剰な「偶像」が流通しえたのか、言い換えれば、かくも解釈者に過度な負担をかけるコミュニケーション様式が何故当時成立しえたのか、という点ではなかろうか。その点で、「末期ヴィクトリア 朝ってのはある意味オタクの天下」であったと喝破し、かつ、中産階級への着目の必要性を指摘する墨東公安委員会さまの立場には、大いに賛同するところである。
#他にも、「なぜメイドさんでなければならないのか」とか「創作のメイドさんが妄想に陥ってしまうのは何故か」とか、面白い論点はあるのですが、また別稿にて。

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