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February 2007

一番楽しみなのは「火星人と今日子と醤油」なのですが(せっかくだから有効活用・5)

Chimaki
まず最初に私信、というかお詫び(当ブログを見ていただいているとのことだったので)。
先日、久しぶりに後輩たちと会う機会があったのですが、その席で年甲斐もなくえらそーに説教をぶってしまいました(私は単にたまたま年嵩なだけで、無論彼らのほうが数段才能もあり、経験も積んでおるのです)。こういう舌先だけの人生を送っているため、ただでさえ宴席などでは場を混乱させてしまうというのに・・・もっと慎み深く生きねばなりません。ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい(←繰り返される謝罪)。
これに懲りずに、またお付き合いください。いやほんとうに申し訳ない。

さて、イラストは『スーパーメイドちるみさん』から、鬼教官の鬼原ちまき先生を「モップで色々なポーズ」から。どんどんキャラが増えるので、このマンガどこに向かっているのかもはや良く判りません。なんだか微妙にセンスがヘンなので(ペットがタコだったりする)、ついつい買ってしまうのですが。
#そもそも主人公がナース好き、って(笑
##あ、黄金龍じゃないですよ(そんなマニアはイヤだ)。

深夜に、新房監督テイスト全開で暴走する『ひだまりスケッチ』を見ていると、「ドキドキビジュアル4コマ誌」という謳い文句の『まんがタイムきらら』のCMが入る。一時期雨後の筍のように発刊されていた、いわゆる「萌え4コマ」誌も、一通り淘汰されて落ち着いた感がある。今回のネタの『スーパーメイドちるみさん』は、同誌の創刊号からのラインナップだが、その第1巻(2003.5初版)の帯には「メイドまんがの金字塔!!」という自負の文句が踊っている(一緒に「壊して!?壊して!?壊しまくり!!!?」ともあるが・・・)。その一方で、最新刊の第6巻(2007.2初版)の帯には「メイド喫茶には絶対いないメイド」という惹句が用いられていることは、この4年で業界に生じた変化を反映しているようで興味深い。
『スーパーメイドちるみさん』の物語は「ちるみがメイドなのに物を壊す」という単純なギャップの存在により駆動することが多い(その意味では、極めて普通のギャグマンガだとも言える)。その後、トラップマニア(ちゆり)、子供(ちまき)、修理屋/子供好き(ちふゆ)、職人(ちおり)とどんどん増える「メイド」が、その特性を家事などの「メイドらしさ」に全く振り分けていない(さながらGARPSでキャラメイクしているかのようだ(笑))ところからしても、1巻の帯とは裏腹に、この作品は「メイドまんが」の正統な水脈に位置づけるにはいささか無理があるように思われる。
しかし、カリカチュアライズされた「メイド」のイメージを増幅させる「メイド喫茶」が出現して人口に膾炙することで、『スーパーメイドちるみさん』は、「メイド喫茶とは違う」という逆説的な形で、その作風を適切に表現する位置づけを獲得することになる。いささか皮肉なこの事態は、「メイド喫茶」が生み出した思わぬ副産物と言えようか。
#こういうポジショニングが無いと、付和雷堂さんのメイド漫画とかもなかったかもしれないし(笑

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確かに略せば「もえたん」ですが(せっかくだから有効活用・4)

Kirara_1
※おことわり※
このブログには、以下の作品のネタバレが若干含まれています。未読の方は読んでからどうぞ。
竹本健治『キララ、探偵す。』
コナン・ドイル「銀星号事件」
G・K・チェスタトン「見えない男」

最近は「萌える探偵小説」なるジャンルがあるようなので・・・そんなこと言うなら、「萌えるタンガニーカ湖」だって「萌える担保物権」だって「萌える胆大小心録」だって「萌える単側波帯通信」だって「もえたん」ですが(←以上、広辞苑を座右においての戯言(笑))。一体何が起こってしまったのかと思いながら手にとってしまった『キララ、探偵す』のヒロインのキララを「二人のポーズ」から。
竹本健治なんだからきっと何かやってくれるかな、と思いながら読んだのですが、特に何事もおこらなかったので拍子抜けでした(キララが不審者を取り押さえるときの描写に使われた「ストラングル・ホールドに似ているが違う」という、一般人にはさっぱり伝わらない比喩が可笑しかったくらい)。『ウロボロスの純正音律』を買えってことでしょうか。
#ベタな帯のセンスはちょっと可笑しいのですけど(笑)。しかし本当に「史上初の美少女メイドミステリー」なんですかね?『女王陛下のメイド探偵ジェイン』シリーズは・・・あ、「美少女」じゃないってコトか(笑
##どうでも良いですが、氏はロボット三原則を組み替えて「ロボットは法を守らなければならない」というところから説き起こし、この中に「ロボットは所有者の財産なので、それを損壊する行為はこれに反する」ため、この中にアシモフ版三原則第3条が含まれる、と述べていますが・・・所有権の全面性を念頭に置いた議論なんでしょうけど、法律学の立場からはちょっと・・・(笑

有名な「ヴァン・ダインの二十則」には、犯人が「端役の使用人等」であるのは安易なので避けよ、との一項がある。このことは、20世紀初頭の物語作法では、そもそもメイドが「端役」以上の存在として描かれることはむしろ希であった、ということを示すと同時に、少なくとも都市において働くメイドには、使用者側の人間からは「透明」でなければならないという特性があったことを反映していよう。
以前かえんじゅさまのところの同人誌に寄稿した雑文でも述べたことがあるが、この「透明」さは重層性を帯びているように思われる・・・まず第一に、メイドは物理的に、使用人の目に付かないように行動するという空間的・時間的な制約を課されている。例えば、家女中は使用者側の家族が起き出す前に朝の洗顔用の水や暖房用の石炭を準備しなければならなかったことや、バックヤードに専用の通路があったりすることなどがこのレベルの問題である。これらの点は、「フェア」なミステリにおいて重視されるアリバイや「隠し通路」などの厳密さには反する要素になり得るだろう。
しかし、ミステリにおいてより重要なのは、心理的な「透明」さである。同時代的な文献においてはしばしば、「召使は人間であって荷役馬ではない」ことが強調されたというが(Alan Ereira, The People's England, Routledge & kegan Paul, London, 1981, p.55)、このことは単にメイドの労働条件の劣悪さを示すだけではなく、そもそもメイドが「人間」扱いされていなかった、ということを示してもいるだろう。
#この比喩に従うと、メイドが犯人のミステリは「銀星号事件」並みの意外さ、ということになる(笑
その後家電製品に代替される「家政」の構成要素としてのみ認識されていたのであるとすれば、メイドは、例えばある部屋に「出入りした人間は誰もいなかった」という限定をいともやすやすと免れることが出来る・・・何故なら、彼女らはそもそも「人間」ではないのだから。このような「透明」さについてよく引き合いに出されるチェスタトンの「見えない男」よりも、構造的にはその「透明」さはより高いようにも思われる。
無論、現在「ヴァン・ダインの二十則」に則るようなクラシカルなミステリが書かれることはほとんど考えられないが、それでも、かつてメイドが備えていたであろう「透明」さから考えると、探偵役に廻るのはいささか反則気味ではある・・・もっとも、キララは作中でさっぱりメイドらしいことをしないので、「僕たちにはメイドが必要だ。」という帯が想定する「メイド」とは何なのか、その前提自体がもう違うのかもしれないが。

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何故に氏のガンダムXの評価は斯様に低いのだろう(せっかくだから有効活用・3)

Umi
※例によってフランス語の表記は略します。
・・・普段に輪をかけてさっぱり似ないのですが、不朽の名作『かってに改蔵』16巻の勝家居候中の羽美のカッコを、何種類かある「立つ」のポーズから(羽美はまちがってもこんなポーズとりませんけど(笑))。久米田センセイの線は独特のタッチなので、あのすっきりした感じを出すのはとても難しいのです。当然、背景の呪い人形も似ません(笑
#ちなみにガンダムXのD.O.M.E.は「えんえん設定を語」ってるわけじゃないんですってば(笑
##ガンダムフィックス・フィギュレーションにもラインナップされたことですし・・・町田のヨドバシで既に投売り状態でしたけど(泣

『決定版!! メイドポーズ集』は複数のモデルを使って、ヴァージョン違いの「メイド服」を着用させているのだが、その中の一人は、ミニスカートに膝丈のドロワーズという、いささか当惑させられる装いをしている・・・一方、イラストにした羽美の「人気取り」の服装は、ほぼ膝丈のスカートに、それよりも長いドロワーズを合わせているようである。
しかし、おそらく現在我々が「ドロワーズ(drawers)」と呼称しているものは、歴史的には異なる出自を持つ、類似した形態のものについての総称であるようである。カトリーヌ・ド・メディチが率先して着用することで16世紀のイタリア・フランスで流行したカルソン(calecon)、ナポレオン治下のパリで出現したパンタロン(pantalon)、新大陸からのセンセーショナルな濫入者であるブルーマー(bloomer)、そして19世紀末葉に再び議論となったディバイデッド・スカート(divided skirt)・・・これらは、少なくとも図像から把握できる限りでは殆ど同じ形状であるが、それが隠されるべきかどうか、という、インナーの性質についての議論誘発的な命題一つ取ってみても、その評価は実にさまざまであったとされる。
例えばセシル・サンローランは、ドロワーズの着用の定着に、衣服の「幼児化」と「プロレタリアート化」、すなわち、子供服と労働服からの伝播の過程を見ている(『女性下着の歴史』)。また、1850-60年代のイギリスに現代の大衆消費社会の源流を見出す戸矢理衣奈は、ナオミ・ウルフを引照しながら、それまで「家庭」に閉塞されていた女性に「動き」と「外出」がもたらされたことに、インナーの「誕生」のコンテクストを求めている(『下着の誕生 ヴィクトリア朝の社会史』)。
#無論、ヴィクトリア朝が厳格なモラルの時代だった、というイメージ自体が虚構性を帯びていることは、例えばスティーヴン・マーカスの『もう一つのヴィクトリア時代』などの指摘を俟つまでもないであろう。
インナーが「インナー」であるかどうか、という命題は、畢竟、その着用者である女性が社会においてどのような視線の下にあるか、ということを反映することでしか規定されない。ドロワーズが本来的には子供服であるというのであれば、その視線は同時に、「子供」とは何か、という視線から逆照射されることにもなる(アリエス『子供の誕生』)。そして、それが本来的には労働服(この「労働」に「人類最古の職業」を含めるかどうかはさておくとして)であるとするならば、そこに立ち現れてくるのは、「労働する女性」とは誰であったのか、という問題である・・・上流階級においては、「運動服」の普及がインナーの誕生に大きく影響したとされるが、「メイド」が着けるインナーの性質は、原初的にはこれとは異なったものであった筈である。

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