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December 2006

アルメニアのクリスマスは今でも1月なのでしょうか

Shiho
浅学にして2巻が出るまで知らなかったのですが、世の中はこういうことになっておるのですね・・・というわけで、松山せいじ『ゾクセイ』第38話から、手芸部の神田詩保(ちなみに格好は、この間アキバのコトブキヤで食玩買ったときにレジに置いてあったフリーペーパー『A-STATION』vol.6から。このキワな雑誌についてはまたいずれ)。ギャルゲでは、感情移入をしやすくするために(なのでしょうか、私はおよそ創作物を感情移入によって愉しむ術を心得ていないのでわかりかねますが(笑))主人公の名前を変更できる場合があるのですが、マンガでこういうスタイルは初めて見ました。
#しかし、『エイケン』のときもそうでしたが、この作者は、ひょっとしたら狙ってやってるんじゃないか、というくらい「属性」なるものから遠い操作を平気でしますね(さすがに『エイケン』は読み続ける気力がありませんでした)・・・つーかそこで眼鏡外してどうする(笑

かつてレヴィ=ストロースが、フランスにおいて「火刑」に処されたサンタクロースについて、第二次世界大戦後のヨーロッパにおけるアメリカ的資本主義の伝播と、それと表裏一体となった「不気味なもの」の結合として分析を試みたことは周知の通りである(「火あぶりにされたサンタクロース」)。いわゆる「資本主義」が、<貨幣>という呪物によってそれ以外のあらゆる価値を平準化するのであるとすれば、20世紀初頭にファシズムにもスターリニズムにも陥らずに済んだ「成功した市民社会」の価値基準としての「アメリカ的資本主義」が、疲弊しきったヨーロッパにおいて「ヨーロッパ的なもの」を浸食するのは必然の結果であろう(さしずめマーシャル・プランは、「覇権循環」のために発動されたマジック・アイテムといったところか(笑))・・・仮に、第二次大戦後のヨーロッパにおいて「ヨーロッパ的なもの」が相対化され、そのことによって、クリスマスの祝祭が本来的に持っていた「異教的」な色彩が前景化されたのであるならば、その事態は、「キリスト教」というコードがヨーロッパにおいていかにコード化されてきたか、という経緯を逆照射するのに有益な分析対象となるだろう。
さて、先ほど『ちょこッとSister』の最終話を視聴していたのだが、この時期のダメなアニメにおけるいわば当然のお約束として、アイキャッチには紅白のおめでたくかつ扇情的な衣装をまとった無邪気なサンタクロースの図像が登場することになる。この図像が日本のオタク界においてどれほどの浸透力を持っているかは、書店で12月号のダメな雑誌が売っている書棚を少し眺めれば明らかであろう。果たしてこれも、「アメリカ的資本主義」に即した作用(動物化!)と見ることが出来るだろうか・・・「本来的には恰幅の良いおじさんが着る衣装を敢えて年端のいかない娘さんに着せる」というその選択には、なんらかのシニシズムが表現されているようにも思われるのだが(笑
#松山えいじが描く場合は順接的な「資本主義」の表現なのかもしれないが(笑

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今後おでん缶は物語にどう絡むのだろうか

Erica
・・・特に何も考えずにラフを起こして、改めて設定資料集を見ていたら、おんなじようなバックショットのイラストが掲載されてました。みんな考えることは一緒だということですね(キャラデザの方もインタヴューでわざわざ断っているくらいですし(笑))。というわけで『おとぎ銃士赤ずきん』から、「兄を慕うツインテールの魔剣士」グレーテル。「ツインテールの」はもはや説明不要のコトバだということですかそうですか(笑

私は大学の学部時代に「ファンタジー研究会」というサークルに所属していたが、そこでしばしば議論となり、とりわけ世代間の意見の食い違いが大きかったのが「そもそも<ファンタジー>とはどう定義されるのか」という問題であった。もう10年以上前になるが、この点については当時「ハイ・ファンタジー」と「ロー・ファンタジー」という区分がしばしば用いられていた。このうち前者の「ハイ・ファンタジー」は、「エピック・ファンタジー」や「ヒロイック・ファンタジー」と親和性が高く、『指輪物語』を範形として『D&D』や(特に日本では)『ドラゴンクエスト』を媒介に爆発的に拡大したものだが、稲葉振一郎はややシニカルに、<作中世界の現実性への懐疑>が希薄化しているこれらのエンターテインメント性の高い作品群を「ジャンル・ファンタジー」と呼称している(『オタクの遺伝子 長谷川裕一・SFまんがの世界』)。
一方、後者の「ロー・ファンタジー」は、妖精譚や妖怪譚などをその範形とするもので、まさしく<作中世界の現実性>のゆらぎそのものに視線を向ける文学であろう。必然的にエンターテインメント性が低くなるこれらの文学は、「ジャンル・ファンタジー」が人口に膾炙すればするほど、その「ファンタジー」としての存在がかえって難しくなることになるだろう・・・この状況は、「ジャンルSF」の拡大によって「本格SF」の存在が難しくなる、という問題(岡田斗司夫が「オタクの死」に先行して生じたと指摘する「SFの死」)と類似している。
「おとぎ話(Fairy Tale)」は、正しく「ロー・ファンタジー」の源泉として、とりわけ線形的な思考を支える技術によって因果性・科学性を担保される以前の世界のありかた、不可解な「ゆらぎ」の姿を伝える物語形式である。そこにあるのは「不気味さ」であり、「物質的な快楽には何の関係もない」(トマス・カイトリー『妖精の誕生 フェアリー神話学』)・・・現代日本社会において『おとぎ銃士赤ずきん』のような作品が、基本的には前近代の西欧の民話・伝承を、そのコンテクストから自在に切り離して物語の構成要素として「消費」していることは、ファンタジーが「ジャンル」となっていることを正しく象徴したものであろう。

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ところでジッソーくんはどうして顔の前に物をおくの?

Jissoh1_1
実相寺監督の作品と言うと真っ先に思い浮かべるのは、個人的には「恐怖の宇宙線」なのですが(子供たちがウルトラマンを罵倒する、というのも印象的でしたが、なによりガヴァドンAの可愛らしさがたまりません)、小学校の頃再放送で『ウルトラマン』を見ていた際も、子供心に「空の贈り物」や「怪獣墓場」はなんとなく他の作品と違う、という印象を持ったものです。最近のものでは、『ウルトラQ darkfantasy』の「闇」や「ヒトガタ」が好きでした。
#『姑獲鳥の夏』はまあ・・・予算が少なかったのかな、と(笑
##ちなみに、メトロン星人はともかくとして、なぜシーボーズ少女なのかは問わないでください(笑

一週間ほど前かえんじゅさまから、実相寺監督が他界したとのお知らせをいただいた。少なからぬ驚きと共に、なんともいえない喪失感を覚えたのを記憶している。ある一定以上の年代で、特撮に多少の思い入れのある人間であれば、おそらく同様の思いに駆られるのではないだろうか。
『ウルトラマン』や『ウルトラセブン』における実相寺監督の作品は、特異なカメラアングルと演出にこだわることによって、意識的にか無意識的にかはともかくとして、昭和のウルトラシリーズが構造上抱え込まなければならなかった二項対立的な<正義>の問題を、ある程度相対化することに寄与していたように思う。
#無論、周知のように、実相寺作品でなくとも「小さな英雄」や「ノンマルトの使者」などのように、明示的にこの二項対立構造に言及するものも少なからずあったのだが。
一方、平成ウルトラマンでは、作品自体がこのような二項対立的な価値を意図的に排除する方向を採ることによって、実相寺監督の話は、例えば『ウルトラマンティガ』の「花」や「夢」のように、価値観やイデオロギーを提示することではなく、監督独自の美学を表現することに徹することとなった。おそらくこのことは、ウルトラシリーズにとっても、実相寺監督にとっても、結果としては良いことだったのではないかと私には思える・・・かつて実相寺監督は円谷一監督について、「人間、死ぬときまで子どものときからつちかってきた夢を抱いていられるのは幸せなことではないか」と語ったことがある(『ウルトラマン誕生』)。今はこの言葉を、実相寺監督自身に捧げることが出来ればと思う。

謹んでご冥福をお祈りいたします。

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こんなこともあろうかと超時空ひまし弾を開発しておきました

Oroku_1
最近、かつてマイナーな出版社から出されていたマイナーなマンガが新装版で出ることが多いですね。というわけで、『コミックマスター』連載だった、佐藤明機『楽園通信社綺談』から、「水中女船頭」土手のお六。「船首衝角に装備した超時空ひまし弾が火を噴くとき、全宇宙が便所にかけ込むのじゃ」・・・凄まじい台詞まわしなのですが、この設定、本編にしっかり絡んでくるから恐ろしいです(笑

それがどんなクリエイターのものか自覚せぬまま触れた作品が、その後の趣味志向の方向性をかなり強く規定することはままあることであるように思うが、長じてからその作品をいわば「再発見」した際には、まるで自分があらかじめ敷かれたレールの上を歩んでいるような、なんともいえない奇妙な気分になるものである。
#例えば私の場合、小学校くらいのころに「みんなのうた」で聞いた妙に印象深い曲が、実は谷山浩子の「まっくら森の歌」だったことを大学時代に「再発見」した時は、それが谷山浩子なだけに、しばしぞっとしたものである(笑
『楽園通信社綺談』もそのジャンルに含まれると思うのだが、私が偏愛している作品群の一つに、全体像を描くことを拒絶するような巨大な建築を舞台にしたものがある。自らの偏向をあらかじめ示す「マイリスト」の中にも、マーヴィン・ピークの<ゴーメンガースト>3部作や、小栗虫太郎の『黒死館殺人事件』などを挙げているが、他にも、思いつくままに挙げれば、山尾悠子「遠近法」、ヤン・ヴァイス『迷宮一〇〇〇』、スティーヴン・ミルハウザー「バーナム博物館」など枚挙に暇がない・・・ところで、いわばその「原体験」となった作品の一つに、中学校ぐらいの時に読んだ「複雑怪奇なアパートの中で自分の部屋を探してさまよう」というシチュエーションを描いたマンガがあったように記憶している。気にはなっていたのだが、おぼろげな記憶では絵柄も定かではなく、この作品については10年以上の間謎のままであった。
ところが数年前のある日、まったくの偶然によって、私はこのマンガを「再発見」することになった。タイトルは「ユーカリ荘物語」、今はなき『マイアニメ』に1980年代に連載されていた連作短編で、1回5頁のものがわずか3話で中断している(ということは、当時わたしは『マイアニメ』を読んでいたということになる。確かこの頃、よくわからないので月ごとに別のアニメ情報誌を買う、ということをしていたように思う)・・・この、私の記憶の片隅に引っかかり続けていた作品の作者は、なんと吾妻ひでおだったのである(笑
#ちなみに『ミニティー夜夢』に所収。

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