色指定違ってたらすみません

※おことわり※
このブログには、西尾維新<戯言シリーズ>及び麻耶雄嵩 『夏と冬の奏鳴曲』のネタバレが若干含まれています。未読の方は読んでからどうぞ。
いやあ、さすがにスクールカレンダーまでは買わなかったので、ストッキングの色がわかりませんでした…だったらカラーで描かれているキャラを選べば良いようなものですが、<策師>萩原子荻を描いてしまうとなんだか負けという気がしたので(笑)、ここは敢えて「全身突っ込み待ち少女」西条玉藻をチョイス(私が描くと全然<狂戦士>っぽくないのですが)。しかし『零崎軋識の人間ノック』、まあなんというか・・・作者自身も「打ち上げお祭り二次会」って言ってるから、これで良いのかもしれませんが。
#『西尾維新クロニクル』や『ザレゴトディクショナル』を見ると、<戯言シリーズ>は崩子ちゃんのせいで総崩れになる可能性もあったのですな。空恐ろしい話です(自分もかつてネタにしたのでヒトのことは言えませんが)。
先のコミティアで、以前hirさまが日記にて言及していた、<オタキング>岡田斗司夫の講演『オタク・イズ・デッド』が売っていたので、購入して目を通してみた(関係ないが、店番の方がこちらが恐縮するくらい丁寧だった)。内容は(一部ネットで知ってはいたが)題名から想起されるような過激なものではなく、時代の先行者からの次世代への噛み砕いた形での問題提起、といったもので、私はさほど違和感は感じなかった。ただ、岡田がかつての「オタク」に備わっていたスキルとして提示する「自分の好きなことは自分で決める能力」「自分の中に折り合いをつける能力」と、岡田が正確に指摘する「萌え」の「メタ的な視点」は、さほど矛盾しないようにも思われる・・・岡田の「オタク評論」の限界についての言及に私が感じる違和感も、おそらくこのあたりから来るのだろう。多くの「オタク評論」が、モダニティについての議論(特に端的にはギデンズの「再帰的近代」)を踏まえていることからすると、その焦点が「萌え」に向けられることはいわば必然であるように私には見える。
ここで興味深いのは、2002年刊行の『クビシメロマンチスト』について、作者の西尾維新が、葵井巫女子は「萌えキャラであること」がストーリー上の要請(ミスディレクション)という「小賢しい計算」があった旨『ザレゴトディレクショナル』で述べている点である。この手法についてはおそらく、麻耶雄嵩の 『夏と冬の奏鳴曲』が先行するものだと思うが(舞奈桐璃の造形はミスディレクションではないけれど「アンチ」ミステリにするための必然の仕掛けである)、このとき(講談社ノベルス版、1993年)はまだ「萌え」という概念は出来上がっていなかったのだろう。
しかし一方で西尾は<戯言シリーズ>において(「とりあえずライトノベルと呼ばれる作品」に共通の体験として)、作品を創る際にイラストが頭の中にあるかどうかの違いという点から、『クビツリハイスクール』以降はテンションが違う、とも述べている。仮に、グラフィカルな記号こそが線形的な思考を超える記号として端的なものであるとするならば、竹の手によるイラスト以前に造形された「萌えキャラ」である葵井巫女子の位置は、いわば宙吊り状態に置かれてしまう・・・自己言及的な性質を持つことについては恐らく争いがないであろう「萌え」の概念を考える際に、西尾の中にあるこのブレは、興味深い素材となるのかもしれない。



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