« September 2006 | Main | November 2006 »

October 2006

ナノナノはナノナノなのだ!休んじゃダメなのだ!

Nanonano
※おことわり※
このブログには、『ひぐらしのなく頃に解』のネタバレが若干含まれています。未プレイの方はプレイしてからどうぞ。

最近歳をとったせいか、こういう「動物的」な元気につい惹かれてしまいます・・・というわけでルーンエンジェル隊の中から、ナノナノ・プディング(台詞は前作とのコラボアルバム『ANGEL CALL』の中から)。アニメ版『GA2』の出来はスタッフが交代したのでいろいろ危惧されていたようなのですが、私は今のところ愉しんで見ています。とはいえ、まだキャラ付けがなかなか上手くいかないところはあるようですね。特にアプリコット・桜葉・・・あの姉の天然パワーはあまりに偉大すぎます。
#総じて、前作よりみんな良い人っぽいのが災いしたか?

「同士〔ママ〕よ、祭りを起こせ!」という惹句についふらふらと、『GA2』のOP曲「宇宙で恋は☆るるんルーン」のCDを購入して、職場で(!)リピートしながら聴いているのだが、「ハイテンション」と「祭り」というキーワードからは、どうしても鈴木謙介『カーニヴァル化する社会』を連想してしまう(ちなみに私は「ミスターハイテンション」井上亘を思い起こさないでもないが、これは多分少数派であろう)。しかし同時に、「カーニヴァル」と「祭り」は果たして今どれくらい区別されているのか、という疑問も起こらないでもない。
折口信夫は「まつり」の原義は「神言を代宣するのであつたらしい」とし、平安期には「神は楽舞を喜ぶものと考へる信仰」が著しくなった旨述べた上で、春祭りが「一等醇化されてゐない」としているが(「村々の祭り」)、キリスト教圏における謝肉祭がゲルマンにおける春祭りを起源とするという説があるところからすると、あるいはこの二つの「祝祭」は類似の事象と捉えることが出来るのかもしれない。しかし、こと現代日本語における語法においては、「祭り」のイメージは、「カーニヴァル」のイメージ(その中でも特に、ラテン語圏におけるそれ)に包摂されているような印象を受ける。鈴木が「カーニヴァル化」として2chなどの「祭り」を前景化しようとするのも、このような語法の影響なのかもしれない。
ここでちょっと飛躍するが(飛躍してばかりだがw)、『ひぐらしのなく頃に』の終幕が「祭囃し編」だったことを思い起こしてみたい。伝奇小説的な舞台装置を持つ『ひぐらし』が、「祭り」というイメージに、いわば折口的な、超越的な審級を前提としたイメージを重ね合わせるのはさほど意外なことではない。しかし、多くの論者が指摘し、かつ、作者自身も(既に「皆殺し編」の時点で)告白しているように、「祭囃し編」は、『ひぐらし』の世界を貫く一つの思想、というか理念が純化した場合の結末、すなわち、マルチエンディングを備えるゲームにおける「トゥルーエンド」の提示であって、ミステリで言うところの「解答編」ではない。
実は、私は「祭囃し編」をプレイしていて、いささか唐突だが吉川英治版の『水滸伝』を思い起こした。周知のように、吉川英治版『水滸伝』は、作者の死去により、108星集結のすぐ後で終わっている。しかし、これも周知のように、108星集結の後の『水滸伝』は、ただひたすら彼らが欠けていく過程を追う、かなり憂鬱な物語であることを考えると、最も盛り上がったところで吉川英治の『水滸伝』は中断されているのだとも言える。これは勿論仮定の話だが、『ひぐらし』世代の読者が仮に吉川英治版『水滸伝』の続きを与えられても、彼らはひょっとすると「その結末を見届けない」という選択をするのではないか、そんなことをふと考えたりもしたのである・・・これは「祭り」というより、むしろ「カーニヴァル」的な営為なのではないだろうか?
#あるいはこれは、コーエー版『水滸伝』で、徽宗そっちのけでひたすら108星を集めるのに似た感覚かもしれない(笑
『ひぐらし』の作者が、小説ではなくノベルゲームをそのバックグラウンドとしていることの当然の結末なのかもしれないが、ここでもやはり、「メタリアル・フィクションの誕生」における東浩紀の理解が妥当であったということになるだろうか。以前書いたように、私自身としては、「罪滅し編」と「皆殺し編」におけるメタ構造(世界の複数性の提示)を更にメタ化する(作品の複数性の提示)ことでオチがつくのかと思っていたが、そもそもこの世代の作家は「オチがつく」ことの自明性の中に生きてはいないのだろう。ところで、この「オチがつく」ことの自明性に生きることと、実際に「オチがつくこと」は、重なるようで重ならない・・・自明であるからこそ「敢えてオチをつけることを拒絶する」というスタンスもありうるからである。このスタンスは<物語>の構造にきわめて自覚的なふるまいとなって顕現することが多いが、その端的な例として、私が『GA』第三期後半のED曲「ドタバタ☆エンジェループ」の中のフォルテの台詞を「オチ」に持ってくるであろうことは、賢明な読者諸兄ならばおそらくまるっとお見通しのことであろう(笑

| | Comments (7) | TrackBack (0)

これをきっかけにパルマケイア叢書買う人いるんだろうか(ラノベ時空にひきずりこめ・5)

Tress
前回とは逆のパターンで、「女帝」トレスに聖應女学院(←なんとなくネーミングに釈然としないものを感じますがw)の制服を着せてみました・・・こういうネタを拾う際につい前後を読み返してしまうのですが、やはりレティシアのおバカさん加減は可愛らしいものです(笑
#一人称「わたい」のミルバ(24巻)と張りますね(笑

例によって、秋の番組改変期である。うんざりするほど放映されている深夜アニメの中から、いくつか「録画しておいたら気晴らしに見るかもしれないもの」を適当にチョイスして保存しているが、今のところ(まだ2話だが)ライブで視聴している作品の一つに『乙女はお姉さまに恋してる』がある・・・無論、順接的な愉しみ方ではなく、ネタとしてだが(笑
#しかし、最近のいわゆる「アホ毛」は数が増える傾向にあるのですね・・・最初見たときは「実は昆虫人間」とかいう『ミクロイドS』みたいな小ネタなのかと勘繰ってしまいました(笑
##しかし、設定を見て一瞬唖然としたのだが、いまさらこういうネタが許される、というのは、現代日本社会において「ベタ」と「ネタ」の区別が消失していることの正確な反映なのであろう。
ちょうど、佐藤八寿子『ミッション・スクール』を読んでいたところだったので(昨今のブームに乗ってしまっている感もあるが、移動時に手軽に読める、という点で、自分の専門分野から遠いジャンルについては、新書はやはり便利である)、近代日本において「あこがれの園」として「想像/創造」される「ミッション・スクール」像の、極度に戯画化された姿が再現されていることにある種の感慨すら覚えた・・・作中で描かれる「ミッション・ガール」は、佐藤が指摘するような、ジェンダー的視線によって作り出された「ファム・ファタル」とはかけ離れた有り様なので、まさしくこのイメージが(データベース的/動物的に)消費されていることも確認出来る。
#佐藤が冒頭で掲げる「ミッション・スクール」がリリアン女学園なのは、『マリみて』においては「ミッション・ガール」がかろうじて単なる消費の対象という単純化を免れている、という含意なのだろう・・・しかし、同書の中で「私立リリアン女学園にかなり近い」と認定される実在の「ミッション・スクール」の関係者はどう思っているのだろうか(笑
私の母は明治学院大学の出身で、在学中はグリークラブに所属していたのだそうだが、本人はまったくキリスト者ではないにもかかわらず(それどころか、神道系の新宗教の信徒である)、今でも聖歌に憧れを持ち続けているのだそうである。佐藤に倣ってブルデュー流に言うならば、キリスト教的プラティークはかくも強力に機能する装置なのだと言えようか・・・「第九」を年末の風物詩と認定してしまう国に住まう身としては、それが特殊キリスト教的な現象なのかどうか判断に苦しむところだが。

| | Comments (0) | TrackBack (0)

それはまあ、ナガトいれば頼りますわな(ラノベ時空にひきずりこめ・4)

Nagato
ナガト違い、ということで、長門有希に銀河帝国初代皇帝ナガトの衣装を着せてみました。通例カール5世だったりルードヴィッヒ2世だったりミヒャエル・シューマッハだったりするかもしれませんが、私としては「皇帝」といえばナガトです・・・同じように、「社長」といえばオクタヴィアス、「部長」といえばライオットです(笑
#それに、シューマッハといえば普通「騎士」でしょう(笑
##しかし、見返してみたらナガトが光剣撃ってるシーンは出てこないですね・・・レベル5だから、D弾撃つにも6以下1回ですよ。ポッドがないと結構キツいですな。
###長門有希のキャラクター造形は比較的よくあるパターンなのですが、一番近いのはアニメ版『ギャラクシーエンジェル』のヴァニラさんではないでしょうか。ちょっと?お茶目なところとか(笑

私の世代だと、超能力と言えばデニケンとかシュタインホイザーとかの紹介するタイプのもの、つまり、サイコキネシスやテレパシー、テレポートなどをその代表とするものであり、今描かれている作品で比較的この雰囲気を残しているのは『絶対可憐チルドレン』であろう(椎名高志はなんだかんだと言って、きっちりと古典的な手法でネタを料理する良心的な作家である)。その点、『超人ロック』の超能力はやや異質で、その表出は世界のありかたと密接に結びついているため、他の作品との互換性はかなり低いように思われる。
#「ラフノールの鏡」とか、非常に上手いイメージの使い方である。
##ゲームで出てくると時々死ぬほどイラつかされることがあるが(笑
しかし、『涼宮ハルヒ』シリーズで描かれる「超能力」は、この『超人ロック』以上に特殊なものであり、およそそれを「超能力」と呼称してよいものかいささか判断に苦しむ。「未来人」の朝比奈みくる(及び、それに付随するタイムパラドクス)がある種ウェルズ的とも言えるくらいにきわめてオーソドックスであり、「宇宙人」の長門有希がある種クラーク的とも言えるくらいの描かれ方をされているのに比すと、「超能力者」の小泉一樹のあり方はむしろ、その背後にある「機関」を呼び出すための媒介としてしか機能していない・・・この三者がハルヒの願望の投影であることに鑑みると、このコントラストは、シリーズ中しばしば言及されるハルヒの<健全>さと、ラノベならではの<逸脱>への願望に、「非日常」の表象が引き裂かれたことの帰結と見ることもできようか。
ところで、勘の良いヒトなら伏線にお気づきだと思うが、デニケンなどの名前を出したことには相応の理由がある。『涼宮ハルヒ』シリーズを読み終えると現れる「第二次世界大戦の敗北は、軍事力の敗北であった以上に、私たちの若い文化力の敗退であった」という文言で始まる「角川文庫創刊に際して」と題する文章は、デニケンの『宇宙人の謎』やシュタインホイザーの『超能力の秘密』の後にも共通に配されるものなのである・・・果たして、これらに示される「祖国の文化」の「秩序と再建への道」の明日はどっちなのだろうか(笑

| | Comments (4) | TrackBack (0)

« September 2006 | Main | November 2006 »