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September 2006

機動新学期ふらっとらいんX(ラノベ時空にひきずりこめ・3)

Flatline1
いい加減に、ネタだけでコミックスを買うのはやめたほうがよいのではないかと自分でも思うのですが、もともとがネタ人生なものでなかなか歯止めが利きません・・・とゆーわけで、ででん♪『ふらっとらいん♪』から、町田千春&御神楽夢姫。キャラ選択の動機が「前者のあだ名が『ちはちゃん』だったから」というのは秘密でもなんでもありません(笑
#セーラー服の上着にスパッツ、というとてつもないセンスに惹かれた、というのもありますが。
##しかしどうでも良いのですが、先般『さよなら絶望先生』を読んで、ガンダムXのレベルが「A.I.」より低いというのはいくらなんでも、と絶望した次第(「サイン」より高いのが救いかw)。

・・・続刊が出ることが前提だとなかなか話が進まない、というのも、ラノベの一つの特色なのではないかとも思うが(その分、人気が持続しないとすぐ打ち切られるようだが)、最近出た竹宮ゆゆこ『とらドラ3!』はまさしくその路線を地で行っているような作品であった。
#この論法で行くならば、『グイン・サーガ』は途中からラノベであったということになる(笑
しかし何より、『とらドラ3!』の何に感銘を受けたかと言うと、全体の話が「・・・おまえ、貧乳なのか・・・っ?」(97頁)という一言に集約されてしまう、というところである(しかしもうちょっと言い方はないのか、と思わないでもないw)。先に、スク水を着替えるのに一章割いているラノベ(と思われる)について言及したことがあったが、この巻はそれに匹敵するインパクトであった。もっとも、そんなこと言ったら、『ふらっとらいん♪』なんかそれ以外の要素がいっそすがすがしい程欠落しているのだが・・・「戦闘的なフェミニスト」の立場から書かれた『倒錯の偶像』において、ブラム・ダイクストラは、19世紀末の男性のエートスの一側面としての、「女の成熟した肉体が子供のような精神の受動的純潔を汚しているのだとすれば、女性のあらゆる肯定すべき特質、あらゆる受動的・迎合的特質を子供自体のうちに探したほうがよい」という把握が、ポール・シャバスの描く少女画に代表されるようなさまざまな含意を持つ図像を量産した、と指摘するが、ダイクストラが批判するこのエートスのありかたが100年経ってもあまり変わっていないということは、美水かがみ『らき☆すた』の中で、主人公の泉こなたによって述べられる「病まない病まない、需要はあるさ」という台詞に端的に表現されてしまっている。
#ちなみに、この『倒錯の偶像』を手にする人のうち、作者の意図をまっとうに引き受けている読者は果たしてどれくらいいるのだろうか。著者が自説を補強するために15年かけて蒐集した図像の数々に、読者は「思わず慄然と」しなければならない筈なのだが(笑

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でこれはどこのチームのルールですか

Choco
いつもながらわかりにくいネタで恐縮なのですが、『ちょこッとSister』の地上波放送時、放送コードに触れそうな映像には「KEEP OUT」ラインが入るのですよ(さすがに『マシンロボレスキュー』みたいにハングルや中国語が入ったりはしないのですが。ちなみにDVDでは別処理になる由)・・・とりあえず、ヒロイン?のちょこを描いてみました。衣装はちょっと迷ったのですが、私の手持ちの武器の中では件のエンディング曲のダンスにフィットするのはこれくらいだったので、うろおぼえで『ヴァンパイア』のフェリシアのコスプレという設定で一つ。
#思い返してみると結構キワドい服(毛皮?)なので、ネタ的にはちょうど良かったのかも(笑

藤田さまが、引越しにあたって里親を探している、ということだったので、つい先日、6人ほど妹をもらい受けることとなった。もっとも、夢野澄香〔註:プレビュー版〕は実は既に私の手元にいるのでダブってしまったのだが・・・というわけで今私のパソコンデスクの上には『週刊わたしのおにいちゃん』のフィギュアが林立しているのである。これはなかなかに壮観であり、ふと自分の来し方を振り返ってみたい衝動に駆られないでもない(笑
まあそれはさておき、「妹」という問題系が多分にカリカチュアライズされた形でクローズアップされたのは、この『わたおに』や『シスタープリンセス』などが発表された数年前のことであって、その後は拡散した印象があったが、『ちょこッとSister』のような作品が発表されるところを見ると、この問題系は拡散したわけではなく、単に世俗化して市場に根付いたためことさらに注目を集めなくなった、ということなのであろう。実際多くのギャルゲにも「妹キャラ」という立ち位置のキャラクタは必ずといってよいほど登場しているようである(無論ラノベもそうであろう)。
周知のことに属すると思われるが、柳田國男は大正末年に「以前には丸で知らなかつたこと」として「兄妹の親しみが深くなつて来た」ことをフィールドワークを通じて報告し、この現象は「卑俗なる唯物論」に還元されるべきではなく、このことに「若い者らしい又人間らしい熱情が潜んで居たとしても、世には是ほど無害なる作用が果して他にも有るだらうか」と述べている(「妹の力」)。先に取り上げた本田透の『萌える男』が『シスタープリンセス』を引き合いに出して「家族の復権」を「萌え」のあるべき帰結として提示するのも、あるいは柳田のこの議論を踏まえてのことかもしれない・・・レヴィ=ストロースの反論を聞きたくなるところである(笑

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私の地元ではヘルメットありませんでしたけど

Ogiue
この間の日曜日に所用でJRに乗った際、4~5歳くらいの男の子を連れた30代半ばくらいの女性が、横で文庫本を読みふけっていたのですが、結構な頻度で妙にきらびやかなトーンが貼られたイラストが視界に入るので、横目でちょっと文面を追って見ました・・・そこで、車内でBL小説、ってパターンに初めて遭遇してしまったので(子供そっちのけだったのがちょっとおかしかったです)、このブログの駆動力たるシンクロニシティの発生とみなして、『げんしけん』についてなど少し。
#どうでも良いですが、『週刊石川雅之』にも出てきましたが、自転車用のヘルメットは地方の高校を示す記号として有効だと認知されとるのですね。

私はBLものについてはさっぱり知識がないので、たまたま別件で原書房のホームページを見ていたときに目にした杉浦由美子『オタク女子研究』を購入してざっと目を通してみた。杉浦の言によると、オタク女子は世の中のあらゆる事象を二元論で把握する想像力を備えており、かつ、その想像界(とかいうとラカンぽいですねw)に自分が参入しない点で、本田透の著作に代表的に看取されるようなオタク男子とは決定的に異なるのだという。しかし、そもそもデカルト的な二元論は、思考による抽象作用において神学的世界から「人間」を分離することで<主体-客体>関係を構築するのであろうから、その意味ではオタク男子の思考パターンの方がいわゆる「二元論」に近いようにも思う(ちなみに古い地球人の私には、今のオタク男子の思考も今ひとつ理解できないが)。オタク女子の抽象は、「二値論理」に近いのだろう・・・しかし、杉浦の展開するテクニカルタームを追っていくと、そこにはもはや論理学の世界を超えた、リゾーム状(とかいうとドゥルーズ=ガタリぽいですねw)の世界が広がっているようでもある。
#今思いついたのだが、オタク女子の思考がなべて「カップリング」を前提とする、ということは、その抽象は徹頭徹尾<関係性>に着目しているということになるので、これはある意味、極めてシステム論的なのかもしれない・・・確かルーマンによると、「システムには入力も出力もない」のだそうだが、その関係性がジャニーズであろうと民主党であろうとミリタリーであろうと、システムそのものには影響しないのだろう。きっと(笑
むしろ気になったのは、先述の本田透の著作と同様、杉浦もまた「一神教としてのキリスト教」という概念と共に、「恋愛至上主義」への違和を表明している点である・・・本田は「恋愛資本主義」と表現しているが、前者は価値の傾斜が生じる、ということを強調した表現なのだろう(「ヤンキー文化」なる表現もある・・・ネグリ=ハートの<帝国>のパラフレーズかもしれないw)。後者は、貨幣が宗教や伝統といった様々な価値を相対化する役割を持つ、という点からすると、より適切な表現かもしれない。この、オタク男子・女子双方から提出される違和に対して、オタク男子とオタク女子を主な構成要素とするやや歪んだユートピア像を提示する(ように見えるのだがw)『げんしけん』は、果たしてどのようなポジショニングになるのだろうか。
#個人的には、『くじびきアンバランス』の行方にしか関心は向かないのだが(笑
##しかし、現代日本人のヨーロッパ理解には、カトリックとプロテスタントの差とか、ローマ教会とギリシャ正教の差とかはトリヴィアルな次元のものなのですかね?それこそ、宗教改革の折生じたイコン排斥運動の際の信者のエートスのありかたなんかは、こういった問題系とダイレクトに関わると思うのですが(この点、永田諒一『宗教改革の真実 カトリックとプロテスタントの社会史』を参照のこと)。


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エイヘアのプリンセス

Hime
てっきりクトゥルフ用語だとばかり思っていたのですが、火星の別名エイヘア(Aihai)が記されるC・A・スミスの作品はクトゥルフものに含まれていないのですね・・・土星の呼称サイクラノーシュとセットでおぼろげながら覚えていたのですが、どうりで用語辞典に載ってないわけだ(ちなみにこの名称が出てくる「ヨー・ボムビスの地下墓地」は『魔術師の帝国』に所収)。

イラストは、先だって2巻が刊行されたアキヨシカズタカ『双月巫女』からヒロインのヒメを描いてみたが(ちなみに特にプリンセスなわけではない(笑))、この作品が「SFスローライフコミック」と謳っていることに象徴されるように、火星はもはや懐古趣味的なガジェットとして機能する舞台装置となっているようである。もっとも、私の火星ものの原体験はおそらくブラッドベリの『火星年代記』なのだが、私が大学の学部時代に既にイアン・マクドナルドの『火星夜想曲』という良質のオマージュ(と呼んでいいのかわからないが)が出ていたことに鑑みると、「テラフォーミング後の火星」という舞台は、かなり早い段階から一つのジャンルとして成立していたのかもしれない。
もう1世代上になると(竹本泉のように)火星SFの原体験はバロウズやウェルズになるのだろうが、これらが比較的オプティミスティクな宇宙観に基づいていることに比すと、(勿論作家の個性の問題もあるだろうが)ブラッドベリの火星イメージに見られるペシミズムは、火星が比較的身近な舞台装置であったことの反映であるのかもしれない(光瀬龍の『東キャナル文書』などにも同じことが言えそうである)・・・フロンティアとしてはあまりに地球に近接している火星は、母星の将来がもはや単純な進歩史観(大きな物語)によって描くことが出来なくなったことをヴィヴィッドに受け止めることになったのではなかろうか。
#その意味では、近時の火星ものの代表である『ARIA』が、ある種突き抜けたオプティミズムを備えていることはなかなかに興味深い。

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暗黒星を祭る文

Setsuna
ちょっとばかり時期を逸してしまった上に(『ひぐらしのなく頃に解』にかかりっきりだったのは秘密でもなんでもありません(笑)・・・このネタはまたいずれ)、おそらく全国3000万人くらいがネタにしているかと思うのですが、わりとあっさりと立場をなくしてしまったセーラープルートこと冥王せつなさんを描いてみました。これも久しく描いていなかったので細部忘れてしまったのですが(さすがにこれは手元に資料がない)、こんな感じだったでしょうか。
#「暗黒星」といえば通例は江戸川乱歩ですが、ここではブログの性質上ユゴスのことを指します(笑。
##このニュースが流れた際に、歌詞の中に太陽系の惑星の名前を列挙する歌をどうするのか、といったようなネタが「報道ステーション」で取り上げられていましたが・・・個人的には、真っ先に想起されたのは『宇宙大帝ゴッドシグマ』のEDテーマでしたが何か(笑

それにしても、国際天文学連合が惑星の定義を見直し、冥王星が太陽系の惑星から外れるに至る経緯は、端から見ているとあまりにもあっさりとしたものであったように思う(投票の仕方も『紅白歌合戦』レベルだったような)。確か現在の88星座を確定して、ねこ座とかがちょう座とかハーシェル望遠鏡座とかを星図から追放したのもこの連合だったと思うが、今回の顛末がいかにも唐突に思われたことは、逆に、我々が普段いかに天文について関心を払っていないか、ということの証明にもなるだろう。
#『天文ガイド』とかを購読していれば、惑星の定義見直しについての議論が継続されていたことがわかったのかもしれない。
ものの本によると、冥王星の発見に貢献したパーシヴァル・ローウェルは我が国にも因縁浅からぬ人物で、明治中葉に滞日した際、フェノロサの仲介でラフカディオ・ハーンと知己になったとの由。「冥王星」の名も、ローウェルの死後その遺志をついで海王星外惑星の発見に至ったクライド・ウィリアム・トンボーの苗字(Tombaugh)と、ローウェルのイニシアル(P.L.)を組み合わせて"Pluto"とした、とあるが、なにやらどこまでが都市伝説なのか図り難いような逸話である(山内雅夫『占星術の世界』・・・しかし、手元にもう少し信憑性の高い文献があるかと思ったが、私の天文への関心も所詮はこの程度、ということだろうか)。いずれにせよ、太陽系の最果てに冥王が鎮座する、という、いささか出来すぎな感もしなくはない我々の宇宙観が、今後どのように揺らいでいくのかという点には、若干の関心を覚える・・・松本メーターと共に過去の遺物になってしまうのかもしれないが。

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