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August 2006

それよりもいつから伊豆の国市がロシア語圏なのかが気になります(ラノベ時空にひきずりこめ・2)

Haruhi
*おことわり*
このブログには、『涼宮ハルヒの憂鬱』のネタバレが若干含まれています。未読の方は読んでからどうぞ。
いや、私横浜市民なので、TVKで視聴していたのです・・・まあ、柳生一族だってシベリアに行くくらいだから不思議は無いのかもしれませんが(笑
それはともかく。
Q.『涼宮ハルヒの憂鬱』とかけて『とらドラ!』と解く。そのココロは?
A.帽子屋だったら(大ガラスと書き物机の関係と同じように)「かいもく見当もつかん」と答えるところですが、私的感想は「『TRICK』の影響力って大きいんだなあ」です(笑

というわけで『涼宮ハルヒの憂鬱』である。私は先にアニメ版を3話ほど見て、面白そうだったので先に原作を読もう、と思っていながらなかなかきっかけがなく、先だってようやく1巻を読み終えた(古い地球人の私は、まだオリジナルとシミュラークルの互換性に慣れることが出来ないのである)。話の構造は比較的古典的なもので、それこそ古典的なファンタジーやSFから「ライトファンタジー」まで、この種のいわばメタ構造のプロットには事欠かないと言える。おそらくその評価は、地の文と会話文が交錯する、読点の少ない特殊な一人称の語りと、なによりもエキセントリックなキャラクター造形によるものであろう。
#1巻だけしか読んでいませんが・・・乱暴に言えば、ハルヒはマアナ=ユウド=スウシャイのようなものですね(←ダンセイニファンだけ笑ってください(笑))
さて、先のブログで敢えて、ラノベの本質を「近視眼的な人間関係」と表現したが、それが「近視眼的」になる理由は、いささか過剰に描かれる「非日常性」が、おそらく誰もその構造について本当は関心を持っていない、という点で「ガジェット」と化して作品を覆い尽くすことにより、その中核として描かれるべき「人間関係」自体もまた矮小化され、「ガジェット」となる(あるいはそれと区別が付かなくなる)からではないか・・・こんなことを、『涼宮ハルヒの憂鬱』の読後にちらと考えた。例えば、ハルヒがエキセントリックな行動に走る要因として、小学校のときに「ちっとも普通じゃなく面白い人生を送っている人」が「あたしじゃないのは何故?」という、まことに若者らしい悩みが描かれているが(かつての「教養青年」たちはそこから逃れるために三木清とか西田幾太郎とか、少し前なら浅田彰とか柄谷行人とかに手を伸ばしたのだろうが、今の若者はどこに手を伸ばすべきか考えあぐねているらしい・・・この点、高田里恵子『グロテスクな教養』を参照されたい)、私の読後の率直な感想は、「このハルヒのモノローグがネタでない保証はどこにもない」というものであった。
#そういえば、作中突然ハルヒが男子生徒のいる教室で着替え始める件(と、これも突然主人公の前でこの行動様式を撤回する件)があるが、これはどこか特定の方向(アルクトゥルスとかじゃなくて(笑))への牽制球なのだろうか(笑
この点で、やはりアニメ版の視聴を中途で止め、原作に立ち返ったことはある意味妥当な判断だったようにも思う。何故なら、おそらく原作通りの結末を迎えるアニメ版を、何の予備知識もなく見たとしたら、私はおそらく、アニメ版のスタッフが悪乗りして原作と乖離した「ベタ」な展開を「ネタ」として挿入したと解釈しただろうからである・・・そして、まだ1巻しか読了していない以上、これが原作においても「ネタ」でないことを確かめるために、私は引き続き「ラノベ時空」に居続けなくてはならないのである。
#なにしろ、第1話をまるまる使って作中作を(しかもとても凝った作りで)再現するようなスタッフだし(笑

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「耐えがたきを耐え、忍びがたくさん忍び!」(ラノベ時空にひきずりこめ・1)

Taiga_1
乗りかかった船、といいますかなんといいますか、勢いでふたたび幽々子さま・・・じゃなくて竹宮ゆゆこ『とらドラ! 1・2』を買ってみました。標題のネタがちょっと時期を外してしまったのが残念ですが、「勤労怪奇ファイル」と「蘇る勤労」を同列でネタにするのはいかがなものかと(←お前が言うな、という感じですが(笑))。
#個人的には「手乗りタイガー」こと逢坂大河みたいな造形は・・・まあ嫌いではありませんが(笑
##「実測143.5センチ」がやはり大きいか(何が(笑)。

ラノベ(ライトノベル)というジャンルは、最近かなり一般化しつつあるとはいうものの、それでも私にはまだかなり縁遠い領域に属している。既往の読書遍歴にはおそらく類似のものがあるはずなのだが、『とらドラ!』を読んで痛切に感じたのは、どうやらラノベを読む際には私はそれ相応のモードに入る必要がありそうだ、ということである。そこでそれを仮に「ラノベ時空」と名付け、目に付くものを分析してみようと思い立った次第。
上述の、ラノベに類似する既存のジャンルとしてすぐに想起されるのは、10年ほど前に一連の「ライトファンタジー」を出していた一連のレーベルであるが、今のラノベについては、これらとは現象面においてかなり違った展開が散見される。その一つが、ラノベ原作のアニメが作られるのに加え、これを原作としたコミックスも作られる、という事態である。「ライトファンタジー」は挿絵のウェイトが高い点でラノベと共通するが、それにしても、活字-コミックス-アニメの三者の関係の流動性は、ますます高まっているようである。
#個人的には、いくら挿絵の影響力が大きいとはいえ、活字とコミックスでは情報量に格段の違いがあるようにも思うが。
それからもう一つ、竹宮ゆゆこの前作『わたしたちの田村くん』の読後とはやや位相の異なる感想を抱いた(ちなみにこれもコミック化される由)。『とらドラ!』の1巻では、前作と同じように、あとがきで「バトル分やセカイ分や燃え〔ママ〕分が見当たらない気がするのですが?」「仕様です」と断られており、本作がラノベとしては異色作であるとの自意識が表明されている。しかし、作者のこのような自認にも関わらず、私はむしろ、ラノベの本質的な部分は本作でも十二分に維持されているのではないか、という認識を強くした。「セカイ系」と分類される作品に典型的に見られるように、かつて「ライトファンタジー」では(まがりなりにも「ファンタジー」を標榜する以上は)<物語>の根幹の一部を成していた「非日常性」の介在が、ラノベでは単なるガジェットとして機能するに過ぎなくなってしまっており、(言い方はよくないかもしれないが)極めて近視眼的な人間関係に回収される傾向があるようである(例えて言えば、「セカイの運命を背負っていることによる重圧」と、「複雑な家族関係のため性格が捻じ曲がった」ことが、「ツンデレ」というヒロインの属性として等価に扱われるような感じだろうか(笑)。とするならば、「バトル分」でも「セカイ分」でもなく、この「近視眼的な人間関係」こそが、実はラノベの本質なのではないか、とも思われたのである。
#あ、この項続きます・・・。

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物流管理(Business Logistics)でもありません

Blgirl
こういう加工のしかたをするからいかんのだ、という批判を受けそうな感じですが、川原泉『レナード現象には理由がある』の中に、「BL」という略語を標題のように誤解する件があったので、シンクロニシティが発生したものとみなしてネタにすることにします。しかし、「BLの代表的存在である安部晋三」という文字列でドキドキするには相当の修行が必要な気がするのですがどうでしょう(笑
#どうせならもっと狙った絵柄にするべきなんでしょうけど・・・しかし、実際イラストに起こすときに、どうしても原画にあるような膝を外向きにしたポーズに出来なかったのは(なんだかバランスがとれないのです)、私の中に染み付いた「ジェンダー・ハビトゥス」の表出なのかもしれません(笑
##しかし、フェミニズム/ジェンダー論の立場からは、BLものってどういう評価なんでしょうね。

仕事柄しばしば関連する言説に触れる機会があるのだが、どうもルールのわからない格闘技を見ているようで今ひとつピンと来ないため、ルールブック代わりに上野千鶴子他『バックラッシュ! なぜジェンダーフリーは叩かれたのか?』を一読してみた。しかし、これだけをルールにすると公平を欠くようにも思えたので、仲正昌樹『ラディカリズムの果てに』も併読(順番としては後者が先だったが)。論者によって強調点が異なる上に、ところどころ立場の違いもあるようでにわかには理解しがたい部分もあるのだが、なんというか、思想系の論争と言うのは、論争の場を設定するのが極めて困難なのだな、という素朴な印象を抱いた。
ある論考について、論者が批判の論考を寄せ、それに対して更に反批判が行われる、という形の「論争」はアカデミズムの世界では日常的に見られるものだが、このタイプの論争は、論者の間にかなりの程度の共通了解がないと生産的なものにはならない。そうでない場合は、反批判の際の論文の引用の仕方が恣意的だ、とか、そもそも学問的批判ではなく人格否定だ、とか、およそ学問的なものとは程遠い罵倒の応酬にしかならないのが通例である・・・であるとすれば、そもそも立脚点を異にする思想系の「論争」が、基本的には罵倒の応酬にしかならないのは、構造的にはいわば必然の結果なのかもしれない。
このブログの問題関心に引き付けると、例えば宮台真司の巻頭インタヴュー「ねじれた社会の現状とめざすべき第三の道」の中で、本田透の一連の著作についてトラウマとルサンチマンの図式として理解し、批評を行う部分がある。ここでの宮台の立場は、あくまで「現実」というものが有意味なものとして存在するという暗黙の前提を維持しつづけているようにも見える。しかし、ソシュールの「有縁性」概念を持ち出して、「萌え記号」と「現実」の連環を強調する宮台のこの言説は、例えば同書の別の論考(斉藤環「バックラッシュの精神分析」)で批判されている内田樹の「身体性」を基軸にした言説と、果たしてどれくらいの距離があるのだろうか?
#わたしはここで、『うる星やつら』で、シュガー・ジンジャー・ペッパーに一服盛られて、ラーメン丼に「美しい・・・」とつぶやくあたるのエピソードを思い起こしたのですが(笑

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