それよりもいつから伊豆の国市がロシア語圏なのかが気になります(ラノベ時空にひきずりこめ・2)

*おことわり*
このブログには、『涼宮ハルヒの憂鬱』のネタバレが若干含まれています。未読の方は読んでからどうぞ。
いや、私横浜市民なので、TVKで視聴していたのです・・・まあ、柳生一族だってシベリアに行くくらいだから不思議は無いのかもしれませんが(笑
それはともかく。
Q.『涼宮ハルヒの憂鬱』とかけて『とらドラ!』と解く。そのココロは?
A.帽子屋だったら(大ガラスと書き物机の関係と同じように)「かいもく見当もつかん」と答えるところですが、私的感想は「『TRICK』の影響力って大きいんだなあ」です(笑
というわけで『涼宮ハルヒの憂鬱』である。私は先にアニメ版を3話ほど見て、面白そうだったので先に原作を読もう、と思っていながらなかなかきっかけがなく、先だってようやく1巻を読み終えた(古い地球人の私は、まだオリジナルとシミュラークルの互換性に慣れることが出来ないのである)。話の構造は比較的古典的なもので、それこそ古典的なファンタジーやSFから「ライトファンタジー」まで、この種のいわばメタ構造のプロットには事欠かないと言える。おそらくその評価は、地の文と会話文が交錯する、読点の少ない特殊な一人称の語りと、なによりもエキセントリックなキャラクター造形によるものであろう。
#1巻だけしか読んでいませんが・・・乱暴に言えば、ハルヒはマアナ=ユウド=スウシャイのようなものですね(←ダンセイニファンだけ笑ってください(笑))
さて、先のブログで敢えて、ラノベの本質を「近視眼的な人間関係」と表現したが、それが「近視眼的」になる理由は、いささか過剰に描かれる「非日常性」が、おそらく誰もその構造について本当は関心を持っていない、という点で「ガジェット」と化して作品を覆い尽くすことにより、その中核として描かれるべき「人間関係」自体もまた矮小化され、「ガジェット」となる(あるいはそれと区別が付かなくなる)からではないか・・・こんなことを、『涼宮ハルヒの憂鬱』の読後にちらと考えた。例えば、ハルヒがエキセントリックな行動に走る要因として、小学校のときに「ちっとも普通じゃなく面白い人生を送っている人」が「あたしじゃないのは何故?」という、まことに若者らしい悩みが描かれているが(かつての「教養青年」たちはそこから逃れるために三木清とか西田幾太郎とか、少し前なら浅田彰とか柄谷行人とかに手を伸ばしたのだろうが、今の若者はどこに手を伸ばすべきか考えあぐねているらしい・・・この点、高田里恵子『グロテスクな教養』を参照されたい)、私の読後の率直な感想は、「このハルヒのモノローグがネタでない保証はどこにもない」というものであった。
#そういえば、作中突然ハルヒが男子生徒のいる教室で着替え始める件(と、これも突然主人公の前でこの行動様式を撤回する件)があるが、これはどこか特定の方向(アルクトゥルスとかじゃなくて(笑))への牽制球なのだろうか(笑
この点で、やはりアニメ版の視聴を中途で止め、原作に立ち返ったことはある意味妥当な判断だったようにも思う。何故なら、おそらく原作通りの結末を迎えるアニメ版を、何の予備知識もなく見たとしたら、私はおそらく、アニメ版のスタッフが悪乗りして原作と乖離した「ベタ」な展開を「ネタ」として挿入したと解釈しただろうからである・・・そして、まだ1巻しか読了していない以上、これが原作においても「ネタ」でないことを確かめるために、私は引き続き「ラノベ時空」に居続けなくてはならないのである。
#なにしろ、第1話をまるまる使って作中作を(しかもとても凝った作りで)再現するようなスタッフだし(笑



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