アの国から’83

おそらく、全国3000万人のダンバインファンなら必ず一度はやってるネタだと思うのですが、映画版『ゲド戦記』公開記念として、今更ながら「ゲド少女」を描いてみました。さすがに旧型、まあカラーリングは地味だし武器は剣だけだし、実に見栄えのしない感じがなんとも言えません。ちなみに、『ロマンアルバム・エクストラ』を見て描いているのですが、巻末に掲載されている富野カントクのインタヴューは絶好調で電波な感じです(笑
・・・最近昔話ばかりしている気がするが、私にとって、小学校高学年の時見た『聖戦士ダンバイン』は極めて鮮烈な印象のある作品である。小説を通じていわゆる「ハイ・ファンタジー」に触れたのは、確か中学校の時に<エルリック・サーガ>を読んだのが最初だったと思うので、これはいわば原体験に近いものであろう。その後、『ソーサリー』などのゲームブックを経由して、『コンプティーク』に連載されていた「ロードス島戦記」に触発されてTRPGにはまり込む、というルートはおそらく結構多くの人が辿っているコースだと思うが、『ダンバイン』に対する思い入れの度合いとその角度は、我々の世代の「ファンタジー」に対するスタンスにそれなりに大きな影響を与えているようにも思う。
「ダーナ・オシー」や「レプラカーン」といったオーラバトラーの名称が象徴するように、バイストン・ウェルは一方で、特にヨーロッパの妖精譚(フェアリー・テイル)を強く意識した世界であるように見える。「アイドルだけれど働き者で、マスコットにもなる妖精」のチャム・ファウの造形は、パックやティル・オイレンシュピーゲルのような性格付けと、ヴィクトリア朝に挿絵として流布したグラフィック・イメージをほぼ踏襲している。私は大学に入ってから、この種の妖精譚に耽溺することになるが、そのバックボーンには、おそらくバイストン・ウェルのこういった世界観があるようである。
しかしその一方で、バイストン・ウェルは、アの国の地方領主のドレイクが実力で勢力を拡大しようとする、ヨーロッパ中世的な叙事詩(エピック)の物語が紡がれる舞台でもある(もっとも、物語の主役はシーラ・ラパーナとエレ・ハンムとリムル・ルフトなので、中世騎士物語のようなマスキュリンな世界ではないのだが(笑))。ところが、ひねくれものの私は、どういうわけか中途から「エピック・ファンタジー」に批判的になってしまい、当時多くの名作を看過してしまっている(単に、そのころ圧倒的にクトゥルーにはまっていたからかもしれないが(笑))。この頃『指輪物語』も読んだのだが、もっぱら批判の対象としてのエピックとして読んでしまっていたらしく、つい最近映画化にあたって読み返すまで、あまり強い印象を持っていなかったくらいである(申し訳ない限り)。
・・・何が言いたいのか、といえば、私は『ゲド戦記』を同時代ライブラリ版で初めて読んだので(1992年初版)、それまで「ゲド」といえばフラオン王の愛機の古ぼけたオーラバトラー、という理解だったのである(図書館の書架では見かけた記憶があるが)。勿論、『ダンバイン』における「ゲド」は『ゲド戦記』を意識的に踏まえたオマージュなのだが(バイストン・ウェルには「多島海」もあるくらいである)、こういった転倒現象は、意識的になっていないと日常的に生じる、普遍的な現代的現象なのであろう。それを咎め立てるのではなく(かつて自分にはそういう傾向があったので強い自戒を込めて)、オリジナルとオマージュの緩やかな関係を承認した上で、その豊穣な文脈に視野を広げる寛容こそが、今は求められているのだろう。




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