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京極夏彦を知らないってのは確かに意外かも

rena
※おことわり※
このブログには『ひぐらしのなく頃に』『ひぐらしのなく頃に解』のネタバレが含まれています(今回のネタバレ度数は割りと高めです)。未プレイの方はプレイしてからどうぞ。
それから、以下の作品についても言及があります。ネタバレってほどじゃないですが。
竹本健治『ウロボロスの偽書』『匣の中の失楽』
中井英夫『虚無への供物』
夢野久作「笑う唖女」

・・・誰を描こうかちょっと迷ったのですが、やっぱり「あの」シーンのインパクトと、「罪滅し編」での向こう側に行っちゃったときの一人称描写が気に入ったのでレナ。「目明し編」で向こう側に行っちゃった後の詩音の最後の方の一人称テクストとか、「祟殺し編」でやっぱり向こう側に行っちゃったあとの沙都子の描写とかもなかなか味わい深いのですが。
#『私的捜査ファイル(仮)』のカバー裏とかも結構良い感じですね(笑
さめのひとさまと火焔樹さまに奨められてプレイしていた『ひぐらしのなく頃に』をようやく「皆殺し編」までプレイし終えた。1シナリオに丸2晩かかるので、都合14日間を費やしたことになるのだが、これだけのテクストを読ませるのだから、やはりこれは非常に優れた「ゲーム」なのだと言えよう。作者自身は「謎解きに参加すること」、東浩紀はポストモダン的な「物語の複数性」に『ひぐらし』の「ゲーム性」を見ているようだが(「ゲーム的リアリズムの誕生」(『ファウスト』vol.6 SIDE-A))、『ひぐらし』の「ゲーム性」は、何よりもテクストを読み下すスピードをソフトの側から規定される「制度」に帰するように思う。言語を読解する際には、読者は通常、そのテクストを読む速度を任意に設定できる。しかし、「サウンドノヴェル」は、テクストの表示スピードをカーソルのクリック回数と効果音によって制御し、結果的にプレイヤーの任意性を奪うことが出来る。この「制度」に不満な読者には、「ゲームをやめる」(あるいは「サウンドノヴェル」としての楽しみ方を放棄する)という選択肢しか残されていないのである。
例えば、夢野久作にはこんなテクストがある(「笑う唖女」(『骸骨の黒穂』角川文庫)、147頁)。

「その時に彼に取縋っているオドロオドロしい姿が、泥だらけの左手をあげて、初枝の顔を指した。勝ち誇るように笑った。
 「ケケケケ……エベエベエベ……キキキキ……」
人形のような高島田の顔が、静かに雨樋の陰から離れた。長々と地面に引摺った燃え立つような緋縮緬の長襦袢の裾に、白い脛と、白い素足が交る交る月の光を反射しいしい、彼の眼の前に近づいて来た。」

仮に、夢野久作のテクストに頻出するこの特異なカタカナの表記を不快に思う読者がいるならば、その読者には自在に読解のスピードを速めてこれを「斜め読み」することが許されている。しかし、これが「サウンドノヴェル」である場合、プレイヤーは(おそらく一字ずつゆっくりと、しかも効果音付で表記される)この笑い声を、表示されるスピードで読むことを強制される(これを拒否するには、「ゲーム」をやめるしかない)・・・そしてなによりも、『ひぐらし』は、「ゲームをやめる」という選択肢を選ばせないような巧みな演出が施された、きわめて良く出来た作品なのである。
#日常会話の中に「向こう側」の要素が侵入してくるときの不協和音とか、ちょっとした効果音のタイミングとかが、とにかく絶妙に計算されてますね・・・夜中プレイしてるとリアルに怖いです(笑
さて、肝心の「謎解き」だが、私はミステリのリテラシーが低いので、もっぱら提示される物語を玩味する側に回ってしまうのだが、さめのひとさまの話だと、とりわけ「皆殺し編」について、「プレイヤーが予見不可能な媒介を導入することが適切か否か」という点が議論されているようである。勿論、狭義のミステリ(パズラー)であるならば、これは許されるべきではないが、『ひぐらし』はおそらくパズラーとして作られてはいない(単に「正解が存在する」ことを明記しているだけである)。ミステリの要素の本質は「原因-作動-結果」という説明原理、すなわち「線形的因果性」であり、この説明原理に則っていれば、「プレイヤーにとって未知だが理論的(科学的に、ではない)に存在可能な媒介項」を設定することは許されてしかるべきであろう・・・そして、少なくとも「皆殺し編」までの事象は、この条件を満たしていると私は考える。
#ちなみに、この「因果的線形性」を担保出来ているならば、西澤保彦の<神麻嗣子の超能力事件簿>のように、超自然現象を導入したミステリをパズラーに近いものとして構築することが出来るのである。
さて、多少なりともミステリをかじった経験がある人ならば、ギャルゲー的な「主人公一人称」が「叙述トリック」を成立させるのに適していることはすぐに了解可能だと思うが、『ひぐらし』の作者は(全く活字を読まないにも拘らず)この手法を有効に活用している。このことは「綿流し編」と「目明し編」の対応関係で明らかだが、「叙述トリック」に見られる「ミスリーティング」が最も有効に用いられている場は、例えば「綿流し編」の後で魅音が「名前しか出てこない」監督への言及を行っていることに象徴されるように、<問題編>にそれぞれ附属する「お疲れさま会」なのではないか、などと深読みしてみたくなる(各シナリオをクリアした後「お疲れさま会」を経由しないと次のシナリオに進めないのは理由があるのではないか?)。各「お疲れさま会」においては、「謎」が「人為的な殺人事件か超常現象か」という形に大きく単純化されて提示されており、その極端な形が「皆殺し編」でそれぞれ(「線形的因果性」にはぎりぎり則った形で)示されたのではないか、とも思う・・・「暇つぶし編」をプレイした後に「スタッフルーム」を見て、私はつい『ウロボロスの偽書』を連想したのだが、『匣の中の失楽』や『虚無への供物』のように、「お疲れさま会」こそが「本文」で、各シナリオは「作中作」、という入れ子構造、というのはどうだろうか?「罪滅し編」におけるメタ構造も、このように理解すれば違和感が無いように思うのだが(笑

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