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February 2006

「それはカラシのつまったちくわです」

hortori
この『小夜侘介の事件帳 奈良ボマー』、すごく内容が気になりますね(笑・・・というわけで石黒正数『それでも町は廻っている』から、主人公の嵐山歩鳥。単なる「ミステリ好き」じゃなくて「恐怖の現代病 探偵脳」に罹ってるっぽい感じが良いです。周囲の人の容赦ないツッコミ振りもなかなか。
人に言ってもにわかには信じてもらえないのだが、実は私はメイド喫茶には行ったことが無い(どういうわけかコスプレ居酒屋には行ったことがあるが)。かつては、行く先々で少し変わった制服を見かけると、それこそ百貨店の売り場からどじょう屋まで、人目を気にしながらスケッチをとっていたものなのだが、いまや、少なくともアキバでは、メイドの格好をした売り子さんが闊歩しているのは日常の風景になりつつある。メイド喫茶のガイドブックも山のように発売されており、もはやその希少性は失われているようである。
#一応目立たないように、一時記憶に映像を焼き付けて、人気がなくなったところで記憶が薄れないうちに再生して一気に描き上げる、というスタイルだったように思う・・・今考えると、これはこれで非常にアヤしい(笑
ところで、「メイド喫茶」というコトバは、実はかなり矛盾を孕んだ用語法であるように私には感じられる。周知のことだが、メイド服は本来「職業服」であって、家庭内で働くメイドが主人にあたる女性と見分けがつくように、意図的に時代遅れのお仕着せを与えられていた、という性質のものであり、黒のロングスカートに白のエプロンと室内帽というスタイルは、ヴィクトリア朝後期の一時期にかろうじて一般化した、ホブズボーム流に言うならば「創られた伝統」に過ぎない(その後家電製品の普及による家事労働の縮減と大戦による女性労働力の必要性から、メイドという存在自体が減少していくのも勿論、周知のことであろう・・・もう少し補足すれば、この一般化にはおそらく、男性召使いの給与の高騰に伴うパーラーメイドの発生および定着が背景となっている)。
ところが興味深いことに、実際の「メイド」が着用する期間がきわめて短かったにも関わらず、このスタイルは、1909年に第1号店が開店された’Lyon’s Corner House’においてウェイトレスの制服として採用されたことによって、家庭から「商業」の場へと持ち込まれて命脈を保つことになる(Elizabeth Ewing, 'Women in Uniform : through the centuries', pp.54ff. もっとも、Nippiesと呼ばれた彼女らは、第二次大戦と共に姿を消したという)。その意味では、我々が概念する「メイド服」は、本来の記号性を相当程度カリカチュアライズした代物なのだと言うことも出来よう。「商業」の場において身につけられる「制服としてのメイド服」は、おそらく、家事労働を同じ空間において行いながらも雇用者との間には社会的な位相のズレを帯びる、という、「職業服としてのメイド服」が持っていた意味の地平からは遠く隔たったところに存在するものである。
#とはいえ、UFOキャッチャーで展開してるメイドカフェの制服フィギュアコレクションはちょっと集めてみたかったりするのですが(爆

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ロンドン&パリっ娘にも大人気

DXgirl
・・・やはりどうにもメカは苦手なのですが(なんというかこう、まとまりのない感じになってしまうのです)、ガンダムダブルエックス娘を描いてみました・・・実際塗ってみるとガンダムってあんまり色数ないんで、白のボディをどう処理したらよいのか悩みますね。むう。
#しかし、ダブルエックスのリフレクタは過剰ですな・・・実際ほとんどサテライトキャノン撃ってないのに(笑
先日町田にある某古書店のアニメ関係の書棚を眺めていた際、明貴美加の『超音速のMS少女』をつい懐かしくなって購入してしまった(昔購入したような記憶もあったのだが、少なくとも今は手元にない)。この画集、出版は1994年(『Vガンダム』放映当時だからそんなもんでしょう)なのだが、当然そのころ「萌え」というコトバはまだ発明されておらず、帯には「ポップでキュートでとてもキャッチー」と、一般的な形容詞?が羅列されることでその代替を果たしている。
さて、いささか興味深いのは、この「MS少女」が「'80年代的なお遊び」と位置づけられていることである。序言に見られるように「セーラー服を着た美少女が、バズーカ砲を撃ちつつ走りまわる」という「今〔1994年当時:筆者註〕想えばあまりに馬鹿馬鹿しいシチュエーション」が「熱狂をもって受け入れられた」のがこの「'80年代」であるとするならば(いうまでもなくこれは『プロジェクトA子』のことであろう)、そこに読み込まれているのはおそらく、大澤真幸の表現を借りるならば「消費社会的シニシズム」である(『戦後の思想空間』)。「セーラー服」と「バズーカ砲」が、本来それらが定位されている意味から浮遊し、自覚的に「遊び」として相対化される・・・当時コジェーヴが読み込んだような「スノッブ」的スタンスがここには確かに看取されるが(北田暁大『嗤う日本の「ナショナリズム」』)、それが「シニシズム」であったことが忘却されたポスト80年代においては、この「遊び」はおそらく、全てを「ネタ」として取り扱うことで判断や価値付けを回避する、という、性質の悪い価値相対主義の運用へと結びつく。
#ここで、同じく80年代に「美少女とパワードスーツ」という「いかにも魅力的な、しかしながらその時すでに致命的な程手垢にまみれたテーマ」を出発点としながら、その後独自の世界を開拓していった、加藤洋之&後藤啓介の仕事について思い起こしてみても良いかもしれない(コメントは開田裕治が『東京夢漂流』に寄せたもの)。
それでも、「馬鹿馬鹿しさ」を真正面から引き受けたMS少女は、「80年代的なもの」という、「戦後日本」が負った極めて重い枷を填められながら、今でも「超音速」で飛び続けているのだろう・・・「MSと美少女が好きだから=MS少女(キャッ(はぁと))」という、ストレートだが強力なエンジンに支えられて。

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温泉浴衣娘の逆襲

yukatagirl
旅先で撮影した温泉宿内部の写真を加工して、ギャルゲー風の素材にしてみました。フォトショップで加工すればそれっぽくなるかなと思ったのですが、私の塗りは白っぽくて今ひとつこういう用途には向かないようですね。フィルタを別のにすればよかったかな。
#途中の廃屋使ってホラーっぽく、とも考えたのですが(笑
先の連休を利用して、藤田さま、さめのひとさま、火焔樹さまと連れ立って奥那須の北温泉に一泊二日の強行軍を敢行してきた。北温泉はこれで都合3回目となるのだが、朝10時頃東京を出立すると、まだ日が高いうちに現地に入ることが出来るという手軽さに比すと、ロケーションから得られる非日常性の度合いは極めて高い。最寄り駅であるJR黒磯駅に降り立つと、そこは単なる人気の少ない地方都市なのだが、小一時間バスに揺られて山に登ると、一転して足元もおぼつかない銀世界の中に放り出される、という按配である。しかも、バス停から更に30分ほど歩かねばならず、最後の勾配は車も通行できない急な雪道となっており、これもまた日常性を剥ぎ取るイニシエーションの効果を持っているものと思われる。
北温泉自体は「有名な穴場」という形容矛盾がぴったりくるようなスポットで、安政年間に建てられた母屋も、実際にはぎりぎり不自由さを味わわずにすむように巧みに補修されている。昔の趣を残す風呂もあれば(「天狗の湯」はリアルに「ゲンセンカン」風味である(笑))、河原沿いには比較的新しい露天風呂も設置されており、女性専用の浴場も別途準備されているなど、実は「湯治場テーマパーク」というのが正しい位置づけなのかもしれない・・・宿に着くと毎回、和装に割烹着を着込んだいかにものおばあさんが宿帳の確認にくるのだが、実は前回とは別人で、ひそかに代替わりしている可能性も捨てきれないのである。
#なお、朝9:45に帰りのバスが出てしまうので、8:00から『仮面ライダーカブト』、8:30から『ふたりはプリキュア スプラッシュスター』を見て帰途に着きました。ちなみに前回来たときは『明日のナージャ』を見てから出立した記憶があります(笑

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逢ふことをあこぎの島に引く網のたびかさならば人も知りなん

eaglet
『ふたりはプリキュア』が新シリーズ『スプラッシュスター』になったらしいので、とりあえず第一話を見てみました。基本的には前シリーズから引き継がれている設定は無いようですね(サブタイトルが「おっどろきの再会」だったので、転生ものかと思ったのですが)。今シリーズはエコロジー色を前面に出す意図からか、旧シリーズのブラックが大地の精霊使い(?)「キュアブルーム」に、旧ホワイトが大気の精霊使い「キュアイーグレット」になりました。旧ホワイトは化学部でしたが、イーグレットは美術部です(なぜか自宅には天文台があります)・・・しかしこの場合、イメージ的には美術部のほうに大地の精霊を担当させるのが普通だと思うのですが、このねじれが今後どう処理されるのか楽しみではあります。
#今のところキュアブルームの背景にはヒマワリ咲いてますけどね(笑
##ちなみに題名は「阿漕」の語源になった和歌。繰り返すことが転じて今の語法になったんだとか・・・よくこんなコトバ子供番組の決め台詞に持ってくるなあ。敵は「アクダイカーン」だし(笑
(追記:代官は幕府の職だと思っていましたが、実際は諸藩にもいたんですね。不勉強で知りませんでした。お詫びして訂正します)

『ふたりはプリキュア MaxHeart』の最終回を実は私は出張先で見たのだが、その出張に同行いただいた4歳の娘さんをお持ちの職場の先輩が、飲み会の席で「最近の仮面ライダーは子供に見せるには難しすぎる」とコメントされていた(娘さんに仮面ライダーを見せることの是非はこの際問わずにおく(笑))。平成ウルトラマンもそうだが、『クウガ』以降の仮面ライダーは単純な善悪二元論では割り切ることの出来ない複雑な構造を持っており、確かに小さな子供さんは理解に困難を伴う筈である。それに比較するならば、『プリキュア』は善悪二元論を堅持したまま最終回に至っており(なぎさとほのかの間の葛藤は描かれていたが)、比較的理解しやすい物語構造を取っていた印象がある。
基本的な部分での単純さ、という局面において、「男の子向け」のウルトラマンや仮面ライダーなどの特撮よりも、むしろ『セーラームーン』や『プリキュア』などの「女の子向け」のアニメの方が、より強く二元論的な構造を維持している、というのは、なにやら興味深い現象のように思われる。ジェンダー論の台頭に見られるような男性原理の解体、あるいは正義の多元化などといったポストモダン的状況の反映、というのはやや穿ちすぎかもしれないが・・・少なくとも言えるのは、『明日のナージャ』はその路線から外れてしまった不幸な事例だということであろう。個人的にはああいうの好きなんだけど(笑
#『おじゃ魔女』をどう評価するか、という難しい問題もありますな。


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