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January 2006

「脱生物時代」の到来まであと25年だとか

solty
「記憶をなくした機械少女」と「ワケありの賞金稼ぎ」の話、というだけでもう既にストーリーラインは見えておるのですが、そこに「これもワケありの少女盗賊」とか「未亡人情報屋&マセた娘」とか「なんとなくアウトローに好意的な美少女機動部隊」とか、これでもか、とギミックを盛り込んで鋭意進行中の『Solty Rei』。それでも、アンドロイドものに無条件にプラス修正がついてしまう私としては、やっぱり見てしまいます・・・すみません、「天然ボケの怪力娘」に弱いのですよ私(笑
#「・・・DVDってなんですか?」とか、製作サイドも狙ってやっているだけにとても悔しい(笑
##なんか、絵だけ見るとペガサス流星拳みたいだ(笑
###そういや、確かに「奥義!」ってつけてから叫ぶとなんでも必殺技っぽく聞こえます(小箱とたん『スケッチブック』)。「奥義!デイ・シムプトメトロギイ・デル・クラインヒルン・エルクランゲン!」とか(←『小脳疾患の徴候学』の独語原題。『黒死館殺人事件』から無作為抽出(笑))。
先日、大森望のイベントに合わせて上京してきた旧友のかとうさまと会って、久々に飲みながらSF談義に花を咲かせることが出来た。私はSF読みとしてはヘタレの部類だが、ツワモノのかとうさまは昨今のSF事情に詳しく、いろいろと有益な情報を仕入れることが出来たのだが(どうして突然<新しき太陽の書>が復刊されたのか、とか)、その中で私が関心を覚えたのは、世の中には「SFの書き手と読み手は、常に科学技術の発展をフォローし続け、互いに真剣勝負をしなければいけない」という綱領を掲げる<純SF主義者>が存在する、というエピソードであった。
確かに、SFがSFであるためには、つまり、ファンタジーやミステリやホラーや純文学から独立した固有の表現形態であるためには、このような姿勢は必要であるのかもしれない。なおかつ、比較的万人に評価されるSF作家は、読者が作品に触れた際に「科学」として整合的に想像可能な範疇について自覚的であるように思える。イーガンが評価されるのはこのあたりのバランス感覚の良さゆえではないか、とも思う。逆にバラードら「ニューウェーヴ」の担い手たちは、おそらく意図的にこの想像可能性を排除しているのであろう。ロジェ・カイヨワはSFについて「それ以前の非現実的な物語を継承し、全く同じ機能を果たしている」として、「理論と技術の進歩に対して恐怖を覚えた時代の苦悩を反映している」と指摘する(『妖精物語からSFへ』)。仮に<純SF>が作者/読者の「科学」的想像可能性をその担保として成立しているのであれば、ここにはパラドクスが生じかねない。クラーク流に言うなら、SFは「科学」と「魔術」の危ういバランスの上に成立している、相当際どい文学領域だと言えるだろう。
#『ディアスポラ』の読後感から私は(多分に個人的な思い入れの強さから)山田正紀の<神獣聖戦>シリーズを思い起こしたのだが、山田正紀は科学用語を「利用」しながらも、整合的に配置することはしないような印象を持つ。例えば、<非対称飛行>によって背面世界を跳躍するために物理実体を捨てた「狂人=鏡人」の描写には、<コニシ>ポリスの市民たちのような「科学的」リアリティは備わっていない。
ところで、ここで言う「科学」は、実は自然科学だけにとどまるものではない・・・現在の「自然科学」はもはや狭義の定義の中に留まっておらず、認識論や記号論、コミュニケーション理論などのさまざまな領域との相互乗り入れが盛んに行われる分野となっている。ハックスリーの『すばらしき新世界』やドフォントネーの『カシオペアのΨ』など、かつて「ユートピア小説」と言われた作品の多くが社会風刺の側面を備えていることからも判るように、実はSFは、社会科学と親和性が高いジャンルである。クラーク的定義による<純SF>の隘路を抜け出すためには、「科学」の定義自体を拡張するのも一つの方策ではないだろうか。
#イーガンもサイードの『文化と帝国主義』とか参照してるみたいだし(笑

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「萌え」システムと「オタク」の自己観察

digicharat
いまさら『デ・ジ・キャラット』でもなかろう、という意見もあろうかとは思うのですが、第一期(とカウントしているかどうかわかりませんが)のアニメは私は結構好きです。「ほかほかご飯」とか、「教えてほっけみりん」とか、桜井カントクならでは、というところがありますね・・・いや勿論、沢城みゆきの声が良いよね、というのもあるのですが(笑
#ちなみにタイトルはある高名な先生の論文集のパロディなのですが・・・火焔樹さまに「この本どれくらいの部数刷ってるんですか」と冷静に突っ込まれてしまいました(笑
昨年の流行語ともなり、様々な文脈で使われるようになった「萌え」というコトバだが、この現象について桃井はるこは、『電撃萌王』誌上の連載において「萌えのインフレだわ!」と辛辣に指摘している。「ひとつの『時代』」の終焉を告げるこの桃井の絶唱と共に同誌が終刊を迎えたのは(通巻16号)、ある種象徴的な出来事である。桃井は既に、第1回の連載で「萌え」を「定義すること自体がナンセンス」であると述べているが、この点は、現在の「萌えのインフレ」状況に鑑みれば極めて示唆的であったと言えよう。桃井が示唆しているのは、定義することにより対象が不可避的に変化するという「萌え」の<自己言及性>である。
#それでも桃井は、第1回の連載で敢えて、「萌え」について「既存のセクシャリティとはちょっとずれた」ところで身をよじってしまうような気持ちを喚起する「第三の性」という比喩?を使っている・・・イーガン用語で言えば「汎性」ということになるだろうか(笑
##なお、ここで「萌え」の語源について云々するつもりはないが、『恐竜惑星』がそのソースという説はおそらく妥当ではあるまい。個人的には、『セーラームーンS』の土萌ほたるの存在が大きいとする説に説得力を感じるところである。
「萌え」の構造を考察するにあたって、さしあたりキー概念として提示したいのは<価値付与可能性>と<自己言及性>である。前者を縦軸、後者を横軸とすると、以下のような四つの象限が得られる。

 価値付与可能性
      ↑      
   B  │  A
      │
  ------+----→自己言及性
      │ 
   D  │  C
      │

ヴィレム・フルッサーによると、20世紀において新たに登場したグラフィカルな記号(「テクノ・コード」)が、アルファベットによる論理性・因果性に親和的な思考を浸食しているのだという(『テクノ・コードの誕生 コミュニケーション学序説』)。このような社会に我々が生きていることを前提とすれば、<価値付与可能性>を帯びる記号は、第一次的には画像、すなわち「絵柄」であるだろう。東浩紀が「データベース消費」として提示する概念に即して記せば、「萌え記号」が多く含まれているほど<価値付与可能性>が高い、ということになることになる。しかし、このベクトルは、「萌え記号」の数量的な増加に止まらず、一つの「記号」が持つ質的な<価値付与可能性>をも含むものであろう(「萌え記号」をコンスタントに発表する「絵師」の存在がそれを証明する)。
しかし一方で、単に<価値付与可能性>が高いというだけでは「萌え」は機能しない。横軸の<自己言及性>は、「記号」の解釈者の振る舞いに関するベクトルであるが、これはすなわち、解釈者としての「オタク」が「萌え記号」の消費の際に持つ「再帰的構造」が、「萌え」を支えていることを示している(象限B→Aへの移行)。東浩紀は、『シスター・プリンセス』の「妹が12人」という確信犯的なバカバカしさよりも、『デ・ジ・キャラット』の「着脱可能なネコミミ」に、より<自己言及性>が強いと理解しているようである(「動物化するオタク系文化」(『網状言論F改』所収))。この自己言及的構造に自覚的でない場合、「オタク」を対象としたビジネスは失敗する(メイド喫茶の成立可能性の成否はおそらくここに存在する)。また、「ビスけたん」や「OSたん」などの擬人化行為に見られるように、「オタク」の自己言及的な振る舞いが<価値付与可能性>を備えると、それは「萌え」として機能するようになる(象限C→Aへの移行)。
このように見てくると、「萌え」と「オタク」の関係は、ある種の「オートポイエーシス」として把握することが出来る、システム論の範疇の問題なのかもしれない。多くの社会学者が「オタク」について語ろうとするのは、おそらくこういった構造をその運動系に見ているからなのであろう。
#いや、私は社会学は素人なのでよくわからんのですけどね(笑

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赤外線照射ビームに強いんだそうな(光は東方より・10)

cirno
なんだかんだと言ってアキバに行く度2~3枚は東方アレンジCDを買ってしまうのですが、その中に何故か、チルノのテーマ「おてんば恋娘」のアレンジに「五反田スク水道場」ってタイトルがつけられているアレンジがあったのですよ(笑・・・描いてみると、チルノの⑨っぷりとスク水は意外と相性が良いのかもしれないなと思ったり思わなかったり。
#そういえばこの間、吉崎観音監修『もえよん学園』を完全にネタとして購入してみたのですが、そこでまず第一に持った感想が「吉崎観音はブルマとスク水が上手いなぁ」だったのは、我ながらいろいろマズいように思いますよええ(笑
急に入った仕事で、後輩が書いた論文の校正、というか手直しを依頼されたので、ここ一週間くらい詰めてこれに取り組んでいたのだが、先日電車移動の途中で、原稿を取り出してああでもないこうでもない、といろいろ考えていた際、ふと横の座席に座っている男性が読んでいる小説のキャッチーな挿絵に目が留まった。私自身も、『マリみて』とか移動中に読んだりするので、まあ別に驚いたり咎め立てされたりすることではないのだが・・・客観的には、結構これは人目を引く行為なのだな、と我が身を振り返りながら、一方で論文の構成について頭を捻りつつ、挿絵の頁が来る度に横目でそれを眺めていた。
#ホントはあまり褒められるべき行為ではないのだが、車内で読むものについては、自分が何を読んでいるかを観察されるリスク?が含みこまれていると思うのですよ。私は結構、小説を読んでる人がいると、どんなものを読んでいるかつい気になってしまいます・・・。
挿絵の多さと各ページごとの活字の分量から、ライトノベルであるらしいことは想像がついたのだが、内容自体については当然よくわからない。が、どうやら話に区切りがついたらしくあらたな章にページが進んだ際、私は思わず目を疑うことになった。
「第三章 **〔固有名詞:失念しました〕、旧スクを着る」
・・・平行して「この章のタイトルに<公法的>と入れるのは抽象的に過ぎるだろうか」とかなんとか、そういったことを考えていた私にとって、これはなんというか、大変な衝撃であった。全く内容が想像できないのだが、隣の男性が読んでいる小説の中では「旧スク」(多分(「旧型のスクール水着」の略であろう)を着ることが独立したチャプターとして成立するような物語が展開されているのである。なお、私がその場で論文の草稿を読むのを断念したのは言うまでも無い。
#どんな内容なのかすごく気になりますねコレ(笑

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もはやスズダル中佐はマイヤー様でしかイメージできなくなってしまった

djanne
※おことわり※
このブログには、グレッグ・イーガン『宇宙消失』及び『万物理論』のネタバレが若干含まれています。もし未読の方は読んでからどうぞ・・・例によってほとんど関係ないですけどね(笑
いやその・・・『ねこめ~わく』と<人類補完機構>を両方読んでいないとわからんネタなのですが、火焔樹さまに指摘されて初めて、この二人境遇がそっくりだ、ということに気付いてしまったのです(笑。竹本泉のことだから、ひょっとすると『ねこめ~わく』自体に(直接的でないにせよ)<人類補完機構>の見えざる影響があるのかもしれませんね。
とかなんとか書いておきながら、一応干支なので、全国3000万人の<人類補完機構>ファンが年賀状に描いているに違いない(多分)<殉教者>ド・ジョーンを描いてみました。本当は成長後ヴァージョンにしたかったのですが、服装の描写がなかったので・・・しかし、成長前の彼女、「明るい青のスモック」を着た「年は五つくらい」って描写、なんかこう、いろいろマズくないすか(笑
『ディアスポラ』の評判が良いらしいので、前々から読もう読もうと思いながら未読のままでいたイーガンの作品をつい最近になって読み始めた。一応順序に従って『宇宙消失』→『万物理論』と読み進んだが、少なくともこの二冊は、前評判にたがわず極めて面白く読んだ。私は全くの文系人間で素人なのだが、素人ながらに量子論については前々から若干興味を持ってはいるので、よくよく考えるといろいろ疑問ではあるのだが、いっそこれくらい大風呂敷を広げてもらうと読後感は極めて爽快である。
#個人的には、人間がニュートン的/ユークリッド的宇宙にしかリアリティを感じられないことには、多分それなりの理由があるのだとは思うけど(笑
ところで、イーガンの作品には「人間の改変」というモチーフが(様々なレベルで)出てくるのだが、その改変・解体・変容のありかたがきわめてSF的でかつドラスティックであるにも関わらず、そこには、同じような解体モチーフを道具立てとして持つ<人類補完機構>シリーズに見られるような、「人間」に対するある種冷徹な距離感があまり感じられないように思うのは私だけであろうか。イーガンの作品では、肉体のみならず、記憶や感情すらも操作可能である場合が多いが、このことは逆説的に、人間の肉体や記憶や感情は操作するに値する、という「価値」を含みこんでいるのではないか、とも思える。『万物理論』でしばしば登場するジェンダーの議論と同じく、議論すること自体が既にバイアスの中にいることを証明する、といったような意味での、「人間」という存在の「メタ価値」の匂いを、どうしても私は嗅ぎ取ってしまうのかもしれない。
#書いてきてふと思ったのだが、『宇宙消失』も『万物理論』も、ドラマを駆動する主人公が「ドラマを駆動する」ことを当然の前提としている立場にあるのは偶然なのだろうか?クトゥルフTRPGの経験者なら誰しもが賛同してくれると思うのだが、「元刑事」とか「ジャーナリスト」とかがパーティーの中に一人くらいいないと、大抵話が進まないのである(笑

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姉さん六角蛸錦(光は東方より・9)

reimu
遅ればせながら、新年明けましておめでとうございます。更新もかなり滞ってしまっていて、またもやイラストの描き方を忘れそうになっていますが、また追々ペースを掴んで行くことが出来ればと思います・・・というわけで、新年にちなんで霊夢を初描き。しかし、みなさんこの不可思議な袖をどんな風に処理しておるのでしょうか。
#ちなみにタイトルは京都の筋の名前を列挙するわらべうたなのですが、意外と知名度低いみたいですね。『巫女みこナース』の歌詞で初めて知った、って人も多いみたいです(笑
##ちなみにOPがカラオケに入りました(爆
毎年恒例の行事として、火焔樹さま、さめのひとさま、藤田さまと一緒に正月三日に神田明神に初詣に行ってきた。勿論氏子でもなんでもないのだが、初詣なんてそんなものである。そもそも神田明神自体、平将門の怨霊鎮めのためのヤシロでもあるのだろうし、本来の祭神であるオオナムチの他に明治になってスクナビコが祭神になったりしているそうだから、村社として農耕共同体の祭祀を司る姿からは大きく逸脱しているわけである。しかも境内には堂々と大黒天も祀られているのだから、もはや神仏習合どころの話ではない。日本人の信仰のあり方として、しばしばその雑居性が語られることがあるが、初詣はある種その象徴とも言えよう。
#道教なんかはその点ラディカルで、どんな宗教でも自分の体系の中に組み込んでしまうんだそうな・・・確かキリストも道教の神様の末席に入っていたような。
さて、これも恒例になっているおみくじでの運試しの後、藤田さまが「IT守護」なるお守りを購入していた。最近はどうもお守りの守護対象が細分化しているらしいのだが、この「IT守護」のお守りたるやその極みのようなものである(ちなみにデザインは、藤田さま曰く「森前首相が言うようなIT」のイメージのチープなもので、社会システムの構築者としてSEとして働いている藤田さまのマシンがこれで守護されるのかどうか甚だ不安な代物であった)・・・しかし、この「IT守護」のお守りを見て、私を含む全員が「このお守りはそのうちOS別になるに違いない」とコメントしていたのがなかなかに可笑しかった。みんな苦労してるんだね(笑
#さめのひとさまが、お守り売り場を見て「コミケのブースのようだ」とコメントしていたのも個人的にはツボだったが・・・確かに、誰か一人くらい霊夢ばりのリボン付の巫女さんが売り子していたら絶対収益が違いそうだ(笑

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