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October 2005

ひかるの立ち位置はどうやら公認らしい

fei
こういうタイトルだったら『ダ・ガーン』を描くべきだと思うのですが、そうすると蛍の絵にしかならないことはわかりきっていたのでここは敢えて外しました・・・といってもメインはドリルボーイじゃなくてフェイですが(でなおかつ色指定は適当ですが(笑))。このエピソード結構好きで印象に残っているのですが、他に印象に残った話のデータを『超勇者伝承』で見てみると、石田敦子が作監の回ばかりでした。シャドウ丸の回(のあずきとくるみ)とか・・・ダメじゃん(笑)。
この間の日曜日に「グレート・グレイブスピリット」にわたししんがぁさまに連れて行っていただいたのですが、その際谷田部監督が、「星史とヤンチャーとひかると蛍がどんな関係性なのか」といった趣旨の客席からの質問に対して、「あの後彼らがどうなったかは好きに考えてもらって・・・」と応えていたのがちょっと可笑しかったのです。つーかひかる正ヒロインじゃないんかい(笑)・・・わたししんがぁさまとこのあたり意見の一致を見ているのですが、ひかると蛍一緒にすると多分ティファになってしまうのでしょうね。いわばヤマキⅡの手下か(←伝わりにくい比喩(笑))。
勇者シリーズは比較的どの作品にも思い入れがあるのだが(ライブでは見ることが出来なかった『ファイバード』も、その後の諸先輩方の教育によってたっぷり補完できたし(笑))、敢えてその中でベストを選ぶと、おそらく『勇者警察ジェイデッカー』になるように思う。『マイトガイン』と『ガオガイガー』も好きなのだが、確信犯的なパロディである、という点において、これらをベストに推すのには若干のためらいが生じてしまうようなのである。
#だからDVD買うかどうかすごく迷う・・・存分に楽しめることは判っているだけに(笑)。
無論『ジェイデッカー』も、『西部警察』や『太陽にほえろ!』などの刑事ものの確信犯的なパロディではあるのだが、おそらくメインとなるのが、あくまで「機械に心は宿り得るのか」という、SFの中ではアシモフ以降連綿と続くきわめて古典的なテーマに真正面から取り組んでいる姿勢であることが大きく影響しているのだろう。それとも関連するのだが、勇者シリーズが構造的に抱えている、ドラマトゥルギーとしてのラブストーリーの不在(<普遍的な正義>と<偏頗する愛>の並列不可能性)を、ゲストキャラや脇役を効果的に使うことで間接的に描いてみせていることも魅力であろう。レジーナの美味しいところの持って行き方も、演出として非常に質が高いように思える・・・もっともこれは、行間に意味を読み込む高度な解釈技法に私が習熟していない、ということの反映でもあるのだが。

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1885年には何があったんだか(光は東方より・8)

yamaxanadu
※このブログには『東方花映塚』のネタバレがちょっとだけ含まれています。だからなんだ、って程度ですが(笑)。
年表上では清仏戦争とか第三次英緬戦争とかなのですが、いわゆる<総力戦>時代の前なので死者の数も限られてるような。ちなみに元号表記に直すと1885年は明治18年で、上海アリスから1年ずれます。惜しい(笑)。
というわけで、例のごとくデザインが合ってるかどうか激しく不安な中、山田こと四季映姫・ヤマザナドゥを描いてみました。最初名前見たときはかなり違和感を覚えましたが、ネタ的には「ヤーマ」+「ザナドゥ」なのですね。さすがにあれだけ多彩でクセのあるキャラにそれぞれ説教するのは難しいのでしょう、チルノの時とかかなり投げやりだったような気も(笑)。
<東方>シリーズには、そのシリーズタイトル自体が示すように、文化人類学的な意味での単線的な進化論、というかキリスト教文化圏中心史観に対する一定の距離を示すテクストがしばしば見受けられる。『東方花映塚』のファイナルステージの曲「六十年目の東方裁判」に原作者の「強い思い」が込められている、というのも、『東方紫香花』で作者自身が解説しているように、おそらくは暦が一回りする聖数としての「六十」の方により深い意味があるのだろう。しかし、幻想郷に咲く花が人間界における死者の魂であるのだとすれば、そこには周期的に殺しあって死者の山を築き上げる、という営為を繰り返す、という人間の愚かしい所業に対する一種の諧謔めいたスタンスを読み取ることも不可能では無いかもしれない。
東京裁判(極東国際軍事法廷)のキーナン主席検事の言葉の中に「これは文明の裁きである」という一節があるが、ここでいう「文明」が局所的な「文化」と対比される普遍的な価値を込めた言葉であるならば、そこに見られるのは基本的には単線的な進化論的思考であろう。しかし、進化論が逆転することの無い時間によって担保されているとするならば、これはすなわち「歴史」の裁きなのだ、という言明であるとも理解できる。いわゆる<言語論的転回>以降、歴史には「真実」と呼べるようなものはなく、ただ「事実」のフラグメントだけが解釈対象として存在するに過ぎない、という理解が通説となっており、また、裁判(広く言えば司法)は、「適正手続」という思想を導入することによって真相究明への執着への安全弁を備えている。「六十年目の東方裁判」に「戦後六十年」を読み込むことはおそらく牽強付会、というかむしろ興醒めなのかもしれないが、六十年、という歴史は果たしてこの国の何かを「裁く」ことに繋がるのだろうか?

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キシリア様是非リックアッガイを作ってください

gundam
実は、30数年生きてきて人生初めてガンダム、というか連邦側のモビルスーツ描きました(笑)。定規使って線引くの苦手なんで、その帰結として昔からメカは苦手だった覚えがあります(でもよくオーラバトラーは描いた記憶が(笑)・・・ザク、というかMSVは結構描いたんだけどなあ(←局地的すぎか))。ちなみに絵は『トニーたけざきのガンダム漫画』を見ながら描きました(Gメカに乗ってるトコ)。「木馬責めは左からあ!」とか、大笑いです。ジ・オリジンには全然興味が無いのですが、『ガンダムエース』掲載のパロディはコミックスが出るとなんだかんだといって買ってしまいます。共通言語だからなあ。
先にも記した通り、私はライブ(再放送含む)でガンダムファースト(というとガ教のヒトに怒られるが)を見ていたわけではないからか、さほどガンダムには思い入れが無いし、ガンプラブームにも乗らなかった。おそらく初めてまともに見たサンライズのアニメである『聖戦士ダンバイン』には相当な思い入れがあるのだが(小学校のころ学校でツクダのシミュレーションを友達とプレイしていた)。
#ちなみに『ダンバイン』前後の『ザブングル』と『エルガイム』にもやっぱり思い入れがあります。特にエルガイム。HMのデザインとか、当時結構衝撃的でした(のわりに何故かファイブスターにははまらなかったのだけど)。
さて、今年から「New translation」として『Z』の映画が放映され始めた。当然第一部は見に行ったのだが、明らかに「ガンダムファーストの続編」という位置づけで、『Z』そのものが持っていた、ある種富野カントク特有のコンプレックスの発露、といった色彩は薄くなっている印象を受けた(ファ・ユイリィの扱いがぞんざいなのは全然変わらなかったが(笑))。今度第二部が放映されるのだが、副題「恋人たち」ってのはかなり違和感を覚える。『Z』ってそういう話じゃなかったと思うのだが・・・確かに、キャラとして一番魅力的に描かれているのはフォウ・ムラサメだが、あれはあくまでインターミッション(勿論、人為的ニュータイプ、という構造上のプロットの一環ではあるが)であったろうし、ベルトーチカ・イルマに至っては本編では明らかにチョイ役だったと記憶している。『Z』の魅力の大部分をシロッコ謹製の奇矯なMSに求めてしまう私としては、もっとメッサーラとかギャプランとかの活躍に期待したいところである。
#あ、でも映画第一部のギャプランの変形シーンは堪能させていただいたのだが(笑)。あとはアッシマー。HG出てるんだっけ?勢いで買ってしまいそうだ(笑)

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現近鉄守備打撃コーチ元広島正田の実家はソバ屋(黄色い楕円の謎・2)

moegi
・・・適当に調べずに書いてしまったのだけど、『黄色い部屋の謎』、おそらく一般に流通してる創元推理版は『黄色い部屋の秘密』なのですね(笑)。こうしてまた元ネタが拡散するのですなあ。
ちなみにイラストはふじもとせい『カラカラ様 そのいち』からヒロインの萌黄。まああんまり面白みの無いキャラなのですが、こういうキャラがいないとこういう話が書けないのも確かなことなので、その意味では必要なキャラだとも言えます。ちなみに元広島の正田の肩書きは平成12年現在なので今どうなってるかはわかりません(笑)・・・てえことは何か、平成12年が「HPL生誕110周年」ってことやね(笑)。
前回の話を受けて、それでは第二の方向性は何か、というと、「比較的好きなことができる」という理由でこのジャンルを描いている作家である。ふじもとせいもそうだが(作者自身「突然鮭の大群が遡上したり蛇舞いがみだれ舞ったりする話」が自分の書きたい話だと認めているし・・・ちなみにどちらも『いきなり☆わんだーぷらねっと』所収)、私が気に入っている作家は大抵このパターンである。後藤寿庵の『シャーリー・ホームズ』や美衣暁の『LUNATIC NIGHT』なんかは、おそらくこのジャンルで無いと許されない作品だったのではないか、とも思える(パロディに寛容なのもこのジャンルの特徴である)。勿論、第一のパターンを兼ね備えている作家もいるわけだが。
かつて今のように<ギャルゲー>というジャンルが確立していなかったころのパソコンゲームにも、やはりこの傾向は顕著に見られたように思う(そうでもなければ『夢二』とか『ネクロノミコン』とか絶対成立しなかったはず)。そういうアナーキーな傾向こそが、私がある時期この手のゲームに耽溺していた真の理由でもあろう・・・逆に言うならば、今のパソコンゲームは私にとって「真面目すぎる」のかもしれない。贅沢な話だが。
#今でも「イツカ・カナラズ・・・」とつい口走ってしまったりして(笑)。
##あ、でも『月姫』とかはわりと好きかも(笑)。ペダンティックなところが。
###『ひぐらしの鳴くころに』まだやってません。うう。

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カバー裏を見ると確信犯っぽいのだが(黄色い楕円の謎・1)

saki
このブログ大石まさる分が多すぎる気がしないでもないですが(笑)、『流れ星はるか+』所収の「かたやき本舗」からヒロインのサキさん(短編なので苗字すらわかりません・・・当然カラーページも無いので、色指定も適当)。大石まさる名のコミックスじゃないけど、収録されてる短編の作品構造は『空からこぼれた物語』と基本的には同じだから(前後を切り飛ばして描きたいシーンだけ描く、というところが)、まあいいやね(ホントか?(笑))。こういう勢いのある、小動物的な娘さんは良いですね(ちなみに『男爵校長』ではドナさんがツボでした(笑))。
「私はポルノグラフィが大好きだ」と書いて様になるのは日本ではきっと澁澤龍彦くらいのもので(「植島啓司『分裂病者のダンスパーティー』序」(『都心ノ病院ニテ幻想ヲ見タルコト』所収))、やはりこれは、通例あまりおおっぴらに喧伝できる趣味ではないと言えよう。ちなみに私自身のポルノグラフについての関心は、もっぱらそれがマージナルな領域に存在することに依るように思う。「反復の文学」としてその「文学性」がまさに議論されるその形態に、あやかしやまじもののような妖しさがまとわりついている、ということもさることながら、マージナルであることの対蹠効果として、その社会や文化が擁護すべき価値を逆照射する効果があるところもまた、興味深いところである。
さて、私も一応こういうブログを作ってちまちまと更新してはいるが、描いているのはグラフィックイメージとしての「ネタ」のレベルでしかないので、残念ながら「描く楽しみ」について語る資格は持ち合わせていない。が、推論として述べるならば、「黄色い楕円」のついたコミックスの描き手には・・・その大半を占めるであろう商業目的のものを除くと・・・二つのベクトルが看取されるように思われる。その第一のパターンは、大石まさるもそうだと思うのだが、単純に「描くこと自体が楽しい」というタイプである。竹本泉がしばしば「水着は描いてて楽しいから」描く、といっているのも、究極的にはこのベクトルに沿った営為であろうし、やや飛躍するが、宗教画における「最後の審判」や、アングルなどが描く神話画などの何割かは、イコノロジー的な寓意の枠を超えて、おそらくこの「描くこと自体が楽しい」という動因によるものなのではないか、と邪推してみたくもなる・・・賛同してくれる人はきっと多いはずだ。
#私は身体のデッサンがなってないので苦手なんですけどね(泣)。


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電波うさぎは永久凍土の夢をみるか

komaki
※おことわり※
このブログには、竹宮ゆゆこ『わたしたちの田村くん 1・2』のネタバレが多少含まれています(例によって本筋とはほぼ無関係ですが・・・というかミステリじゃないんだからネタバレしてもいいのかな?)。
私は、旅行とか出張に行く際に移動手段の中で読む本をあらかじめ仕込んでおくのですが(旅の醍醐味とかそういうのと遠い感性で生きているので(笑))、数ヶ月前「たまにはライトノベルでも読もうかな」と、本屋のそれっぽい書架のところまで行った際に購入したのが『私たちの田村くん』でした。ちなみに購入理由は「作者のペンネームが『ゆゆこ』だったから」です・・・こんな理由で本選んだの初めてですが(笑)。でまあ、この前まんがの森に行ったら続きが出ていたので、乗りかかった船、ということでこれも読んでみました。なんつーか、30過ぎたおっさんが読むにはいろいろとキツいものがありますな・・・みんなまっすぐでいいやね(謎笑)。
昨今<ライトノベル>は一つのジャンルとして確立している感があるが、果たしてその購買層はどれくらいの厚みがあるのだろうか、と疑問に思うことがしばしばある。かつて「ジュブナイル」と呼ばれたり、「ヤングアダルト」と呼ばれたりしていたものが今の<ライトノベル>にあたるのか、というと、おそらく微妙にズレが生じるようにも思う。今回読んでみた『わたしたちの田村くん』は、作者があとがきで書いているように「剣も魔法もお姫様も超能力もスタンドも、一切出てこない地味な話」、逆に言えば純粋な「ラブコメ」の道具立てに回収され得る作品なのだが、わざわざ「進路調査票に『故郷の星に帰る』と書き続ける不思議少女系」の松澤小巻をヒロインの一人に仕立てることで、スーパーナチュラルな要素を取り込む余地を敢えて作っているようにも見える。
#もう一人のヒロイン「クールなツンドラ系」の相馬広果のエピソードにはその余地はほぼ無いが、こちらはこちらで明確に流行りモノを狙っているところがあるような。
仮に、松澤小巻のようなヒロイン造形が多く<ライトノベル>において見られるのであれば(多くは語らないが、類似の設定は良く見られる)、それは、現在の若者(が仮に読者層なのだとして)が惹かれるドラマトゥルギーとしての恋愛が、従来の「ラブコメ」の道具立てにおいては回収しきれないような、「非日常」を導入しないと語り得ない次元へと異化してしまっていることの象徴なのかもしれない、などとふと考えたりもする。それほどペシミスティックになる必要はないのかもしれないけれども。


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