バルトは多分全日のファンになっただろう(表徴の<帝国>・1)

「お嬢」こと沢近愛理のフィニッシュブロウ、正調シャイニング・ウィザード。体育祭の時にもなかなか良いキックを放っていたので、機会があればきっとスコーピオライジング(シャイニング式カカト落とし)くらいは習得しそうだ(笑)。しかしこの『School Rumble』、一応ラブコメっぽく始まったのに巻を追うごとに話が混迷を深めているように見えるのは私だけだろうか・・・というか作者たぶん話まとめるつもりないんだろうなきっと(笑)。
#「ラブコメっぽく始まった」と書いたけど、1巻目から天満は既に流鏑馬してたなそういえば(笑)。
#ちなみに「シャイニング・ウィザード」は全日本プロレスの社長、武藤敬司のフィニッシュブロウ。相手が片ヒザをついている状態のときに、もう一方のヒザを踏み台にして相手の側頭部にニーを入れるというえげつない技。タッグパートナーを踏み台にしたりとか、いろいろパターン豊富。「シャイニング式」はここから派生したカテゴリで、片ヒザをついた相手に走りこんで仕掛ける技の総称。シャイニングトライアングル(シャイニング式の三角締め。新日の中邑真輔が使う)とかがあります。
<帝国>と表記すると、ネグリ=ハートの議論を念頭に置く、という慣行が、どうやら社会科学の領域では出来上がりつつあるようである。そこで、どうせならこの「帝国」というコトバをタイトルに持つロラン・バルトの著作をもじっていろいろ語ってみようかと思い立った次第。まずさしあたりは「レッスルする世界」(『神話作用』所収)にまつわるプロレスの話から。
数年前に『現代思想』が総特集でプロレスを取り扱った際、多くの論者が下敷きとしたのがこの「レッスルする世界」である。そこには、<強さ>の基準が規定のルールによって定められる「総合格闘技」の浸食から、プロレスのまさしく「神話」性を守ろうとする意図が様々に透けて見えるが、論者たちが守ろうとしたこのプロレスの「神話」性こそが、まさにバルトの関心を引いた局面であるとも言える・・・プロレスがエクリチュールであるなら、そこには観客(解釈者)が不可欠である。理論上は観客がいなくとも<強さ>の基準を判定し得る「総合格闘技」との決定的な違いはおそらくこの部分であろう。もっとも、「総合格闘技」がメディアに乗って伝達されていく過程は、その<強さ>の基準が相対化される、いわばエクリチュール化する過程だとも言えるが。
ところで、バルトの論は当時のアメリカンプロレスを素材としたものである。周知のように、現在のアメリカン・プロレスは、マイクパフォーマンスや入場シーンなどの演出を一つのパッケージとして成立しているものだが、これに対して日本のプロレスは競技性が高い、という比較がしばしば行われる。WWEスーパースターズたちのフィニッシュブロウが、リング外で繰り広げられるコンテクストの部分で認定される度合いが高いことを考えれば(「ピープルズ・チャンピオン」ザ・ロックのフィニッシュブロウである「ピープルズ・エルボー」が象徴的である)、日本のプロレスラーは、リング外のコンテクストに頼らずに、リング内の「記号」としてのフィニッシュブロウの説得力を磨かなければならないということになる。もしバルトが日本のプロレスを見ていたら、きっと面白い比較の論を展開したであろうことは想像に難くない・・・何故なら、バルトはまさしくこのような「記号の国」である日本に「恋をした」のだから(←というアオリが『表徴の帝国』の新訳『記号の国』(バルト著作集7巻)の帯に書かれていたのです(笑))。しかし皮肉なことに、日本のいわゆる「コンテンツ産業」が世界に拡大していく様は、ネグリ=ハートが用いる意味で、ある意味<帝国>的であるようにも見える・・・日本文化(のとりわけ「萌え」的な部分)の<帝国>性について、バルトは1970年の段階で、”L’empire des Signes"として正確に予見していたのかもしれない。
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