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June 2005

「メガネ」と「メイド」は俳句の季語にあたることになるのか(表徴の<帝国>・2)

kokuri
桑原ひひひ『きつねさんに化かされたい!』から、きつね娘こくり。例によって内容全然知らないままにネタとして帯だけで購入(アオリは「メガネ&メイド好きなアナタには特にオススメ!」(笑))。しかしこの作品、こくりのメイド服(といっても化けてるだけなのでいろいろパターン豊富)と一連のメガネネタを除くといっそ清々しいほどに内容が減衰します・・・生あぶらあげをそのままはぐはぐ食べるシーンはちょっとツボだったけど(笑)。
#しかし、こくりの母の葉子が「妖狐」と間違われたとき(といっても九尾の狐だから妖狐には違いないのだが)、火を噴くのを期待してしまった私はもはや年寄りですなあ。
購入してざっと目を通してみたのだが、昨年末に出版されたバルトの『表徴の帝国』の新訳の邦文タイトルが『記号の国』となった経緯についてはどうやらとりたてて言及が無いようである(あるいは、著作集に収められた他の訳文との整合性のためかもしれない)。しかし、原題が"L'Empire"であって"L'Etat"でない以上は、やはりここはタイトルに<帝国>を読み込みたいところである・・・とはいえ、先にネグリ=ハートの<帝国>の概念について言及したのは、この概念がグローバリゼーションを前提とした<ネットワーク>と親和性が高く、そこでは物理世界における生産に代わって「非物質的生産」が語られる、という局面に思考が跳躍したからに過ぎないのだが(市田良彦「貨幣の帝国的循環と価値の金融的捕獲」(『非対称化する世界 <帝国>の射程』所収))。
ともあれ、『記号の国』として『表徴の帝国』を再読して改めて思ったのだが、バルトが語る「エクリチュールの国」日本のあり方は、昨今の<萌え>についての言説に極めて近接している印象を受ける。日本食を前にした時、都市に降り立ったときの「中心のなさ」の観察もそうだが(バルトによれば、すき焼きが「果てしなく長い時間がかかる料理」なのは、調理が難しいからではなく「始まりをしめすものしかない」からである(笑))、やはりもっとも近似性があるのは俳句についてのフラグメントであろう。「すべてのものを意味で湿らせてしまう」西欧文化と対蹠的な、「言葉に節度をもたせる」ことによって立ち現れる「言葉の中断」という様式・・・そこには「シニフィアンの支配があまりにも大き」いからこそ生じる独特の鑑賞形態が描出されている。この観察がオリエンタリズムに彩られた印象論としての「日本論」であることは勿論だが、しかしこの鑑賞形態こそは、まさしく<萌え>的なタームを前にした際の我々の振る舞いを正しく言い当ててはいないだろうか?
#少なくとも西欧人は、帯に「メガネ」とか「メイド」とか書かれただけで内容空虚なことが判りきっているマンガを敢えて購入したりはしないだろうなあ(笑)。

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バルトは多分全日のファンになっただろう(表徴の<帝国>・1)

sawachika
「お嬢」こと沢近愛理のフィニッシュブロウ、正調シャイニング・ウィザード。体育祭の時にもなかなか良いキックを放っていたので、機会があればきっとスコーピオライジング(シャイニング式カカト落とし)くらいは習得しそうだ(笑)。しかしこの『School Rumble』、一応ラブコメっぽく始まったのに巻を追うごとに話が混迷を深めているように見えるのは私だけだろうか・・・というか作者たぶん話まとめるつもりないんだろうなきっと(笑)。
#「ラブコメっぽく始まった」と書いたけど、1巻目から天満は既に流鏑馬してたなそういえば(笑)。
#ちなみに「シャイニング・ウィザード」は全日本プロレスの社長、武藤敬司のフィニッシュブロウ。相手が片ヒザをついている状態のときに、もう一方のヒザを踏み台にして相手の側頭部にニーを入れるというえげつない技。タッグパートナーを踏み台にしたりとか、いろいろパターン豊富。「シャイニング式」はここから派生したカテゴリで、片ヒザをついた相手に走りこんで仕掛ける技の総称。シャイニングトライアングル(シャイニング式の三角締め。新日の中邑真輔が使う)とかがあります。
<帝国>と表記すると、ネグリ=ハートの議論を念頭に置く、という慣行が、どうやら社会科学の領域では出来上がりつつあるようである。そこで、どうせならこの「帝国」というコトバをタイトルに持つロラン・バルトの著作をもじっていろいろ語ってみようかと思い立った次第。まずさしあたりは「レッスルする世界」(『神話作用』所収)にまつわるプロレスの話から。
数年前に『現代思想』が総特集でプロレスを取り扱った際、多くの論者が下敷きとしたのがこの「レッスルする世界」である。そこには、<強さ>の基準が規定のルールによって定められる「総合格闘技」の浸食から、プロレスのまさしく「神話」性を守ろうとする意図が様々に透けて見えるが、論者たちが守ろうとしたこのプロレスの「神話」性こそが、まさにバルトの関心を引いた局面であるとも言える・・・プロレスがエクリチュールであるなら、そこには観客(解釈者)が不可欠である。理論上は観客がいなくとも<強さ>の基準を判定し得る「総合格闘技」との決定的な違いはおそらくこの部分であろう。もっとも、「総合格闘技」がメディアに乗って伝達されていく過程は、その<強さ>の基準が相対化される、いわばエクリチュール化する過程だとも言えるが。
ところで、バルトの論は当時のアメリカンプロレスを素材としたものである。周知のように、現在のアメリカン・プロレスは、マイクパフォーマンスや入場シーンなどの演出を一つのパッケージとして成立しているものだが、これに対して日本のプロレスは競技性が高い、という比較がしばしば行われる。WWEスーパースターズたちのフィニッシュブロウが、リング外で繰り広げられるコンテクストの部分で認定される度合いが高いことを考えれば(「ピープルズ・チャンピオン」ザ・ロックのフィニッシュブロウである「ピープルズ・エルボー」が象徴的である)、日本のプロレスラーは、リング外のコンテクストに頼らずに、リング内の「記号」としてのフィニッシュブロウの説得力を磨かなければならないということになる。もしバルトが日本のプロレスを見ていたら、きっと面白い比較の論を展開したであろうことは想像に難くない・・・何故なら、バルトはまさしくこのような「記号の国」である日本に「恋をした」のだから(←というアオリが『表徴の帝国』の新訳『記号の国』(バルト著作集7巻)の帯に書かれていたのです(笑))。しかし皮肉なことに、日本のいわゆる「コンテンツ産業」が世界に拡大していく様は、ネグリ=ハートが用いる意味で、ある意味<帝国>的であるようにも見える・・・日本文化(のとりわけ「萌え」的な部分)の<帝国>性について、バルトは1970年の段階で、”L’empire des Signes"として正確に予見していたのかもしれない。


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やはり決め手はヘッドドレス(ZUN帽)か(光は東方より・8)

kaguya-eirin1
前作の幽々子さま以上にボスキャラとしてのカリスマに欠けるとの声が多い輝夜・・・確かに描いてみるとちょっと特色に欠けるところがあるような。しかしこれは多分輝夜のせいではなくて、周囲のキャラが濃すぎるということなのではないかとも思います。あとは、おそらく偶然生まれてしまった「えーりん!えーりん!」のせいで永琳のキャラが立ち過ぎた、というのもあるでしょうなきっと(しかし実際描いてみると永琳はとてつもないカラーセンスである・・・一応、易経の思想にのっとったものなんだろうけど(笑))。それはそうと、弓と矢はアルテミスのアトリビュートを意識してるのかな。
以前のブログで、『永夜抄』における月のイメージの雑居性のようなことについて若干言及したが、『永夜抄』世界には、竹取物語にも端々に見られる中国(紅美鈴ではない念のため(笑))神仙思想の流入が、永琳を媒介としてかなり直裁に見られるように思う。周知のことだが、竹取物語には「五つの難題」の一つとして語られるものと、「不死の薬」との掛詞となっている富士山に見立てられた、物語の帰結となるものの二つの「蓬莱山」が登場する。このうち後者は、直接に徐福伝説と結びつくものであるが、『永夜抄』の物語構造においてはこの両者はおそらく矛盾無く結びついているのだろう・・・徐福伝説には、おそらく南方より流れ来る「マレビト」のイメージが重なるのだろうから、ひょっとすると『花映塚』の出世頭、ミスティア・ローレライの出自は案外、水妖としてのローレライの方なのかもしれない。スエズ運河はないだろうから喜望峰回りになるが(笑)。
#十中八九は「夜雀」・・・というか山田章博だとは思うが(笑)。
いずれにせよ竹取物語は、<実世界>-<月世界>という二元構造の中でこそ成立する物語であり、その周縁部に「五つの難題」(騎士物語における挿話としての「クエスト」にあたるだろうか)を配置し得るマージナルな領域が展開する構造を持っているが、『永夜抄』はそもそもが<実世界>とは無縁な衆生が住まう幻想境と<月世界>との関係の中で進行する上に、「五つの難題」は弾幕として物語内に回収されてしまう。断片としての西行伝説と桜のイメージが奇跡的に融合して新たな物語性を帯びることとなった『妖々夢』と比べると、実世界(育ての親)との切断、という部分にカタルシスの多くを負う構造を持つ竹取物語は、<東方>シリーズのイメージソースとしてはあまりに「物語」でありすぎたのかも知れない。

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ブルマーと吸血鬼

bloomergirls1
こういうキャッチー(死語)なタイトルは大抵西川魯介が出典です・・・アヤしげな記憶に頼りつつ、これは『エルマーのぼうけん』シリーズのうちの一冊かなあ、と漠然と思っていたのですが(このシリーズでは『エルマーとりゅう』が印象に残ってます。なんかドラゴンが横縞でやたらポップだった(笑))、今ぐぐってみたらそんな巻はありませんでした(笑)。元ネタ何だろ?
先日、本屋の社会学のあたりをぶらぶらしていたら、高橋一郎他『ブルマーの社会史 女子体育へのまなざし』(青弓社)なる本を見つけたので、購入してざっと目を通してみた。基本的にはフェミニズム論・ジェンダー論の視点から、およそ100年に亘る近代日本のブルマーの歴史を多角的に分析するものだが、この手のテーマの本がいたずらに攻撃的な論調になりやすいのにも関わらず、序文でこのタイトルに対する「いかがわしく気恥ずかしい」という自認の弁があったのが好印象であった。内容も比較的価値中立的で、教えられるところが多かったが、興味深かったのは、大正期にブルマーが帯びることになった「脱女性性」のベクトルが、当時の女学生向けの雑誌において、「運動選手への同性愛的まなざし」へと連続していくという文脈である。確かに、ジェンダー論の前提である<近代>の担い手としての男性に特権的に認められていた「運動」の価値(おそらくヘーゲル的な「労働」概念のパラフレーズであろう)が、ブルマーを通じて女性に付与されることにより、そこには擬似的にヘテロセクシュアルな関係が構築される可能性が現出する。しかし、かつてこのブログでも取り上げた「エス」の系譜は、そもそもがヘテロセクシュアルな関係性のみを前提しない、あるいはむしろそれを嫌忌さえする概念ではなかったか?
#ちなみにイラストは、『女学雑誌』第24巻第11号(1924年)に掲載された「庭球選手とのローマンス閃く応援旗の波」と題する読者からの投稿小説の挿絵をそれっぽくアレンジしました(さすがに原典にあたる労力を使う気にはなれなかったので、元絵がカラーかどうかもわかりません・・・昔の職場だったらわりと気軽に確認できたのですが(泣))。
ところで、仕事に使う本は職場に持って行ってしまうため、今私の自宅の本棚のラインナップは、コミックス以外はなんだか妙なものばかりになってしまっている。試みに並べてみれば、『夜想 特集<ゴス>』、ブラム・ダイクストラ『倒錯の偶像』、堀田純司『萌え萌えジャパン』、ササキバラ・ゴウ『<美少女>の現代史』、『Call of Cthulhu』ルールブック(何故(笑))、そしてアレクサンドル・コジェーヴ『ヘーゲル読解入門』(←これは借り物ですが)。少なくとも一つ言えるのは、突然誰かに踏み込まれるような状況にだけは陥らないようにしよう、と強く自戒すべきだ、ということであろうか(笑)。

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果たしてどの歌がJASRACにひっかかったのか

tamago
一番多く歌詞が掲載されてるのは確実に「六甲おろし」なわけですが(笑)、「赤鬼と青鬼のタンゴ」も怪しい・・・まさか童謡「せいくらべ」(p88)か、はたまた「ルパン三世」第一部ED(p94、「あし~もとに~」しか書いてないが)なのかっ?(笑)
イラストは『市立鋳銭司学園高校放送部』の歌姫?一年生の秋鹿たまごです(バックに流れてるのは作中作『超文豪オーガイザー』のEDテーマ)。この作者、私とツボが似てるらしく「時間は迫るわ気はあせるわ」(←「アスレチックランドゲーム」というボードゲームのTVCFソング、多分10数年前だ(笑))、「沖原先輩の後ろに絶対王者の影が見える!!」(←今は力皇にベルト取られたけどNOAHの小橋のこと)、そして散りばめられるクトゥルーネタ、なんだか他人とは思えない感じがしますな。
#しかし、小金井の秘密結社くまくま団で敵同志となって再会した恋人たちの結末や、マスカットきび団子クラッシュを受けてしまったパラノイヤ侍の運命、更には、ほとんど語られてすらいないてんぷらうどん大帝の魔の手がいったいどうなったのかすごく気になる(笑)。
『まんがタイムきらら』連載の四コママンガは結構見極めが難しいのだが、半端に「萌え」を導入するよりこの『鋳銭司学園』のようにギャグに徹するのも差別化としては有効なように思う。ところで、最近他にギャグマンガを殆ど読んでいないのでこのあたりの呼吸がよくわからないのだが、作中で「ところでこのバットにはどうして「粉砕」と書いてあるんですか」という台詞があったのには多少驚いた。そもそもこの元ネタの『究極超人あ~る』自体が、「医者はどこだ」のような、出典をその場では明らかにしないパロディを比較的初期に導入した作品だったような印象があるのだが、既に『あ~る』がパロディになる、つまりパロディがメタ化している構造がここで明瞭に示されているからである・・・まあ単純に私が年を取ったということなのかもしれないが(笑)。
#江川卓が司会してる『うるぐす』の中の「競馬学園」はかなり確信犯的なエヴァのパロディだが、あの活字配置がそもそも角川の横溝映画のパロディだということは忘れられてるんだろうなあ・・・。

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ネギは真夜中の庭で

nodoka
前にもネタにしましたが、巻が進んだので再び『ネギま』から。このマンガさすがに分業体制なので、スタッフ内で知識を補い合っているのでしょう、ところどころに小ネタが散りばめられてます(同じページのゲド戦記(1巻)はメジャーなネタですが)。詠唱される呪文の外国語も専門にチェックしてる人がいるんだろうなきっと・・・でないと、ラテン語はともかくギリシャ語はまずムリだ(笑)。
#岩波書店がこれで再販かけたりしないだろうか・・・と思ったら、2000年に再販されてました(笑)。
##背景がポリゴンってのも凄まじい話だが(笑)、そうでもしないと週刊連載はムリなのかな。
話が進むにつれて各キャラクターの秘められた能力が明らかになり、なおかつ学校のありかた自体がだんだんとエスカレートして来たため、なにやら往時の<蓬莱学園>のようになりつつある『ネギま』。これもまた『舞-HIME』よろしく、忍者に幽霊にアンドロイドにマッドサイエンティスト、その他にも人外の輩がうじゃうじゃいる結果として、普通の中学生がにわかには絡みにくい話が多くなってきているような気が・・・コミックスでしか買っていないのだが、10巻の最後からついに武術大会が始まってしまったし(笑)。
それでも、さすがにその道のスペシャリスト赤松健(←高校時代パソコンで相性占いはハマり過ぎ(笑))、31名のクラスメートを被らないように設定するだけでも大変だろうに、かなりの数のキャラクタをそれなりにストーリーに絡ませる努力を払っているのは流石である。メインストーリー(魔法関連の話)に絡んでこないキャラは思い切ってゲストキャラ扱いにしてしまう、というのもなかなか上手い手である(これもなんとなく<蓬莱学園>時代のPBMを思い起こさせる手法である・・・少なくとも無意味に富士山に登ったりしないだけマシ(笑))。
#ちなみに、本筋にもほどよく噛んで来るという意味でも、のどかと夕映の図書館コンビはかなり美味しい役どころですが、ここまでストレートに狙った設定をされると、逆に乗ってしまいたくなりますな・・・ガンバれ自称「トロくてドジで引っ込み思案」な娘さん!(←思いっきり乗せられてます(爆))

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