旧世代眼鏡の滅亡に捧ぐ

この手の資料が今ほとんど手元にないので、かろうじて参照できた『別冊宝島421 空想美少女大百科』(1999年)によると、『NG騎士ラムネ&40』は1990年、『サクラ大戦』は1996年だったそうである。おなじあかほりさとる作品で、ほぼ同じ系譜に属すると理解されるココア姫と李紅蘭(<特徴的な口調>と<理系>、OVAではココアは三つ編みになるしね)、しかしこの6年の間に、かつての反射係数の高い眼鏡はほぼ絶滅したと言って良いようである。
通説的な見解では、ココアが使っているような反射係数の高いタイプの眼鏡は、少女マンガにそのルーツを辿ることが出来るとされる。ここで再び『しましま曜日』における竹本泉の言を引くと、眼鏡=おしゃれでない、というのは「大昔の少女マンガ」のイメージなのだそうであるが、このとき付されているヒロインの宮崎ゆかりのイラストの眼鏡の反射係数が、「アカデミックなゆかり」と「よれよれなゆかり」で使い分けられていることは極めて興味深い事実である。すなわち、竹本作品においては、反射係数の高い眼鏡は、ネガティブなイメージを強調するために敢えて用いられている、戯画化された「記号」なのである。
近来の「萌え」が「記号」としての意味合いを持ち、それが読み手に極めて強い負荷をかけるタイプのコミュニケーションである、ということは、東浩紀などの論者によってしばしば指摘されるところであるが(『動物化するポストモダン』)、「記号」に解釈を与える情報の蓄積が読み手側に十分に期待できるのであれば、作り手側が「記号」を敢えてカリカチュアライズする必要性もまた低くなる。上記6年の間に生じた眼鏡の「技術革新」は、読み手が「眼鏡」という「記号」に与える解釈の前提となる情報を十分に蓄積した、ということの皮肉な反映であるのかもしれない。
なお、なんだかんだと言っても、私にとって眼鏡のアーキタイプはやはりココアなのだが、これはどちらかというと、極めて私的な「原体験」の問題に帰着するのだろう。眼鏡のことばかり書くのもどうかと思うので、この点これ以上記述するのを避けることをお断りしておきたい(笑)。
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