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西川魯介はある種の天才であろう

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さて、「眼鏡」である。記号としての使い易さからか、「萌え」という概念が創出される以前から、特定のカテゴリとして存在してきたことは夙に指摘されるところであるが、そのベクトルにポジティブなもの、ネガティブなものを混在させながら、さまざまな「眼鏡っ娘」が描かれ続けていることは今更くどくどしく述べるまでもないであろう。これが「萌え」という記号化の過程で、それこそ無数の意味づけを与えられ、「眼鏡っ娘」という一つのジャンルにまで拡大しているのが現状である。
西川魯介は以上のようなムーブメントの中で、いわば確信犯的に「眼鏡」を記号として提示するわけだが、西川作品における「眼鏡」のあり方は、作品を追うごとに(『屈折リーベ』→『SF・フェチ・スナッチャー』→『野蛮の園』)、「自明」化しつつあるようにも見えた。しかし、『野蛮の園』の2巻に及んで、そこにいわば「原点回帰」とも言える状況が生じたらしく思われる。それが「全身図書委員長」水野女史の登場である。「図書委員長」という役職は、一ジャンルとして拡大し、多様化を極めた「眼鏡」の「萌え」記号としての意味に、きわめてクラシカルなベクトルを再定位するものである。作中のボルヘスへの言及を引くまでもなく、図書館とは「知」の蓄積を担う場であり、その「場」に仕える図書委員長はいわば「記憶の森の乙女」(by谷山浩子)としての神聖性を帯びるのであるから。この「知」のトポスを担う者のアトリビュートとしてこそ、やはり「眼鏡」はふさわしいと思われるのである。というわけで、「眼鏡っ娘」の王道として「萌え」時代の先駆け的な存在であったココア姫について次に述べることにしましょう。
まあそもそも、西川作品自体が、きわめてペダンティックな「知」の迷宮なわけですがね(笑)。「キャプテン酋長」には笑いましたよわたしゃ。「谷ん家の怪」とか。たまらんね。

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