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October 2004

<ドメスティック>な暴力

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この前の日曜日に『ガキの使い』を見ていたら、「松本さんがかつてやっていた『ドメスティックパン屋』とはどんな店だったのか」という質問に松本が答えていた。松本の当初の答えは「客が入ってきたら待ち伏せしてフランスパンで殴る」といった類のものだったが、途中で「いやドメスティックの意味わからんし」と、客に(空気に?)笑いを委ねる方向を取ったのが興味深かった。おそらく客席の多くが、「ドメスティック」の意味が少なくとも松本が当初ギャグに用いた文脈ではないのではないか、と感じている空気になったということなのだろう。笑いにおいて間主観性を重視する松本(と私は理解しているのだが)にとっても、ライブとは空気感なのだなあ、と思った瞬間であった。『一人ごっつ』はブラウン管を介してしか成立し得ない笑いの形式だったのかもしれない。
しかしさらに興味深かったのは、客席から「家庭内」という訳語が提供されたことである。松本の当初のイメージからも理解されるように、日本人にとって「ドメスティック」という英語は「家庭内暴力」とかなり緊密に結びついて浸透しているようなのである。周知のように、domesticとはラテン語のdomesから来る言葉で、「家庭」「家政」などを意味する言葉であるが、私にとっては何よりも、この形容詞はservantと結びついて、正確な意味での「メイドさん」を表現するために欠かせない語である(maidは尾辞として用いられることが多いのは言うまでもない)。まあそもそもが「暴力」とは結びつきにくいコトバのはずなのだが、これが起きるのが悲しい現実ということなのであろう。しかしDVから離れるとしても、メイドさんには最近どういうわけか「暴力」的なオーナメント?と共に描かれる確率が高いようにも思う。「ミシン台にこうもり傘」の顰に倣って、取り立てて意味を求めないほうがよいのかもしれないが、生活空間を重畳的に持つ、ということが「護衛」という連想を働かせるのだろうか。この間まで見ていた『MADLAX』のエリノアもそうだったし。てなわけで『ジオブリーダーズ』を手元に置きながらちょっと描いてみたのだが・・・うーむ、もっとゴツい武器なら絵的にはありかも、というのが正直な感想ですな。ああ、それで『スパイラルなみ』には共感できたのか。納得。
ちなみに「家庭内」という訳語を示された松本は「・・・おかんのパン屋、ってボケようがないやん」と言っていた。ある意味<ドメスティック>を判っている回答である(笑)。

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フーコーの眼鏡(あるいは逆光の勝利)

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いい加減眼鏡から離れるべきだとは思うのだが。
例によって深夜に怒涛のごとく放映されているアニメの中から、今期はなんとなく『舞-HIME』を見ているのだが、定番の学園ものとしてやはり定番のように「学園の情報通」なるキャラクタが登場していてなんだか安心したような気分になった。学園もので話を進めるためにはやはり必須のギミックであろう。『クトゥルフの呼び声』をプレイするときには一人は新聞記者が必要だったり、『ウルトラQ』をリメイクするにはユリちゃん役がいないとシリーズとして収拾がつかなくなる、とかいうようなものである(にしてもエンクミはどうかと思うが・・・10年くらい前の映画版はどうだっただろうか?ちょっと覚えていない)。
ところで、『舞-HIME』においては眼鏡装着者は「学園の情報通」ではなく「生徒会書記」(かな?よくわからない)なのだが、学園ものにおいて眼鏡率の高い役どころとしては、「風紀委員」というのがある(最近では太田虎一郎『かるき戦線』において「マンガみたいな風紀委員」が登場していた)。あとは「学級委員」もこの類型だろうか。いずれにせよ、学校という閉鎖され、監視された権力空間(フーコー的な<近代>空間、ってことですなつまり(笑))において従うべき上位規範と眼鏡の結びつきが示されたものであろう。「生徒会長」には眼鏡装着者があまり見られないのも、あるいは、学園ものにおける「自治」と「規範」との関係をさし示すのかもしれない。逆に、『舞-HIME』における生徒会書記は、生徒会という学校の中に括り込まれた規範構造への従属を示す記号、とも解釈できよう。
しかしまあ、蔦子さんは正統派「学園の情報通」で、話をしっかり駆動する立場だが、光画部は情報がどうとかいうのとはまったく別問題であろう。『究極超人あ~る』はわれわれ世代の文系部活動の共通理解といったところだったのだが、今はさしずめ『げんしけん』なんだろうなあ(笑)。見てないけど。
・・・今これを書きながら『舞-HIME』の今週分を見たら、とてつもなくダメな話になっていた。ダメさ加減もなんだかちょっとクラシカルだったのがなかなかに(笑)。

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旧世代眼鏡の滅亡に捧ぐ

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この手の資料が今ほとんど手元にないので、かろうじて参照できた『別冊宝島421 空想美少女大百科』(1999年)によると、『NG騎士ラムネ&40』は1990年、『サクラ大戦』は1996年だったそうである。おなじあかほりさとる作品で、ほぼ同じ系譜に属すると理解されるココア姫と李紅蘭(<特徴的な口調>と<理系>、OVAではココアは三つ編みになるしね)、しかしこの6年の間に、かつての反射係数の高い眼鏡はほぼ絶滅したと言って良いようである。
通説的な見解では、ココアが使っているような反射係数の高いタイプの眼鏡は、少女マンガにそのルーツを辿ることが出来るとされる。ここで再び『しましま曜日』における竹本泉の言を引くと、眼鏡=おしゃれでない、というのは「大昔の少女マンガ」のイメージなのだそうであるが、このとき付されているヒロインの宮崎ゆかりのイラストの眼鏡の反射係数が、「アカデミックなゆかり」と「よれよれなゆかり」で使い分けられていることは極めて興味深い事実である。すなわち、竹本作品においては、反射係数の高い眼鏡は、ネガティブなイメージを強調するために敢えて用いられている、戯画化された「記号」なのである。
近来の「萌え」が「記号」としての意味合いを持ち、それが読み手に極めて強い負荷をかけるタイプのコミュニケーションである、ということは、東浩紀などの論者によってしばしば指摘されるところであるが(『動物化するポストモダン』)、「記号」に解釈を与える情報の蓄積が読み手側に十分に期待できるのであれば、作り手側が「記号」を敢えてカリカチュアライズする必要性もまた低くなる。上記6年の間に生じた眼鏡の「技術革新」は、読み手が「眼鏡」という「記号」に与える解釈の前提となる情報を十分に蓄積した、ということの皮肉な反映であるのかもしれない。
なお、なんだかんだと言っても、私にとって眼鏡のアーキタイプはやはりココアなのだが、これはどちらかというと、極めて私的な「原体験」の問題に帰着するのだろう。眼鏡のことばかり書くのもどうかと思うので、この点これ以上記述するのを避けることをお断りしておきたい(笑)。

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西川魯介はある種の天才であろう

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さて、「眼鏡」である。記号としての使い易さからか、「萌え」という概念が創出される以前から、特定のカテゴリとして存在してきたことは夙に指摘されるところであるが、そのベクトルにポジティブなもの、ネガティブなものを混在させながら、さまざまな「眼鏡っ娘」が描かれ続けていることは今更くどくどしく述べるまでもないであろう。これが「萌え」という記号化の過程で、それこそ無数の意味づけを与えられ、「眼鏡っ娘」という一つのジャンルにまで拡大しているのが現状である。
西川魯介は以上のようなムーブメントの中で、いわば確信犯的に「眼鏡」を記号として提示するわけだが、西川作品における「眼鏡」のあり方は、作品を追うごとに(『屈折リーベ』→『SF・フェチ・スナッチャー』→『野蛮の園』)、「自明」化しつつあるようにも見えた。しかし、『野蛮の園』の2巻に及んで、そこにいわば「原点回帰」とも言える状況が生じたらしく思われる。それが「全身図書委員長」水野女史の登場である。「図書委員長」という役職は、一ジャンルとして拡大し、多様化を極めた「眼鏡」の「萌え」記号としての意味に、きわめてクラシカルなベクトルを再定位するものである。作中のボルヘスへの言及を引くまでもなく、図書館とは「知」の蓄積を担う場であり、その「場」に仕える図書委員長はいわば「記憶の森の乙女」(by谷山浩子)としての神聖性を帯びるのであるから。この「知」のトポスを担う者のアトリビュートとしてこそ、やはり「眼鏡」はふさわしいと思われるのである。というわけで、「眼鏡っ娘」の王道として「萌え」時代の先駆け的な存在であったココア姫について次に述べることにしましょう。
まあそもそも、西川作品自体が、きわめてペダンティックな「知」の迷宮なわけですがね(笑)。「キャプテン酋長」には笑いましたよわたしゃ。「谷ん家の怪」とか。たまらんね。

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のんのんじーに筆を起こして眼鏡に及ぶ

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一週間ほど前に本屋に行ってみたら、竹本泉『トゥインクルスターのんのんじー』の2巻?が発売されていた。どうして今頃、とも思うのだが、それよりも気になったのが、豪華ゲスト陣の多くが、のんのんじーを「眼鏡」のカテゴリで把握していたことだ。『トゥインクルスター・・・』は竹本スペオペの王道(「レディ・タンポポ」とかね)に繋がるものだと思うのだが。
前々から思っていたのだが、竹本泉のキャラクターは所謂「萌え」の記号を使っている場合でも、グラフィックイメージに起こすとそこで記号は消失し、「竹本泉キャラ」(作者自身の言葉を使えば「いつもの感じ」)という別のカテゴリに分類されるものになってしまうように思う。しかし皮肉なことに、竹本泉に影響を受けた次代の作家たちは(意図的にせよそうでないにせよ)竹本泉によって使用されていた「記号」をまさしく「記号」化して、自在に道具として用いているのだ。これは「世代」の問題でくくることが出来る問題なのか、それとも作家の個性の問題なのか、興味深いところではある(あさりよしとおや中村博文の絵が比較的「記号」化していないところを見ると、個性の問題かもしれない)。さしあたり今問題にしたいのは「眼鏡」という記号であり、眼鏡といえばやはり外すことが出来ないのが西川魯介であるから(多分)、次は『野蛮の園』について語りたいところである。
・・・にしても、きゃおりちゃんにそんなカッコさせちゃだめだろ作者!と猛烈な抗議をしておきたい(笑)。

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