メタゲームという「ゲーム」の果てに

Netopoyochan_6
最近ネット界隈で話題の電子書籍『ねとぽよ』の第2号を文学フリマで買って来ました。第1号もめっぽう面白かったのですが、2号もなかなか興味深い内容で、かつ、その試み自体も非常に興味深かったので、多少思ったことなどを書き連ねてみます…エントリを書くこと自体が自己目的化している気もしますが、まあそこはそれ。

※おことわり※
この記事には、以下の作品についての(致命的ではありませんが)ネタバレが若干含まれます。未読/未プレイの方はその旨ご了解ください。
『ひぐらしのなく頃に』『ひぐらしのなく頃に解』
『うみねこのなく頃に』『うみねこのなく頃に散』

『ねとぽよ』第2号は実に様々な内容を含むが、その多様なコンテンツを一括りにするキーワードは、明示されているようにやはり「ARG(Alternative Reality Game)」であろう…その語がシンボリックに示すように、このキーワードに導かれたそれぞれの記事は「ゲーム」と「リアル」の「代替可能性」についての思考に、読者を否応無しに巻き込んでいく力を持っている。しかし、私にとって印象深かったのは、本書の冒頭のARGに関する理論と実践についての記事と、本書の末尾の大塚英志へのインタヴューとの間に見られる(ように思われる)これらの語の用法の位相の差異であった。
大塚が適切に答えているように、「ゲーム」と「リアル」に関する理論は80年代においておおよそ構築されているのであれば、上述の位相の差異は「ただインターネットだけがなかった」ことに起因して生じたと理解することが出来るだろう…このことに関連して興味深いのは、『多重人格探偵サイコ』において大塚自身が仕掛けたような「虚実の曖昧さを前提と」した、すなわち「プロレス」的な「ゲーム」によるフィクションへの「リアル」の導入の仕掛けの現代日本社会における効果についての懐疑的な視線と、その要因として言及される「「虚」と「実」の境界線」への「インタビュアー」、すなわち「ねっとぽよく」たちの「執着」である。
補助線として参照するべきは、『リアルのゆくえ』において大塚が隠そうとしない東浩紀への「苛立ち」であろう。「世代論にしていいのかは分からないけれど」と慎重な留保をつけつつ「メタ的な場所」を「当事者にならない自由な場所」として消極的に解する大塚にとっては、(少なくとも当該対談当時の)「メタ物語的な読者/プレイヤーをいかにして物語のなかに引きこむか」という構造に関心を向ける東のスタンスは「居直り」に映らざるをえないことになるのだろう。しかし、物語の構造分析を踏まえてその「動員力」への注意を喚起する大塚と(『物語消滅論』)、ゼロ年代のメタリアルフィクションの典型である『ひぐらしのなく頃に』の「物語のご都合主義とはまったく別の水準」での「非現実的・多幸的」な部分を指摘する東の懸隔は(『ゲーム的リアリズムの誕生』)、少なくとも、フィクションにビルトインされた「ゲーム的」な仕掛けについての関心を共有し、「ゲーム」と「リアル」の関係を分析するという局面においては、それほど大きくはないように見える…大塚と東の距離は、ある意味歴史的な問題であり、構造的な問題ではないように私には思われるのである。
むしろ、この点(「「虚」と「実」の境界線」)における構造的な差異は、東とその次の世代の思想家たちの間にこそ顕著に現れているように見える。例えば、東が「メタリアル・フィクション」として取り上げた『ひぐらしのなく頃に』と、その次に展開された作品である『うみねこのなく頃に』の間には、作者自身が図らずも語っているように、前者は「読み物」、後者は「純粋に読者との「バトル」」という構造的な差異が存在する。そうであるならば、後者における「リアル」の仕掛け、すなわち「ゲーム」は、前者のように作品の中にビルトインされておらず、作品の外に拡散される形で配置されていることになるだろう…村上裕一が適切に指摘するように、「正解」が(メタリアル・フィクションとしてすらも)存在しない『うみねこ』は、もはや「ゴースト」的な想像力によってリアルが補填されるようなメディアなのである(『ゴーストの条件』)。この想像力は、宇野常寛が分析するような、メタリアルな「ゲーム」のルールが自足せずに無限に追加されていく「カードゲーム型」の想像力、<現実>をタグづけすることで「リアル」を補填する「拡張現実」としての想像力と近接している(『リトル・ピープルの時代』)。そして言うまでもなくこの転換は、80年代の大塚に欠けていたインターネット環境によって転轍されたものである(濱野智史『アーキテクチャの生態系』)。
私は、敢えて「戦後啓蒙」を語り直そうとするような理念としての「実」、あるいは、全てが「ゲーム」の果てである以上は全てを「ガチ」として捉えるという現状認識としての「実」のどちらからも距離を取り、限界を引き受けつつもメタゲームの「空虚さ」に立ち向かっていた東の姿勢に一定の共感を抱く…この問題を世代論で語るのは容易いが(私は東とほぼ同世代である)、そのような「外部」を設定するかどうかはある意味倫理的な問題なのかもしれない。

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惑わず行けよ、行けばわかるさ

Nao_makoto_2
最近年に数回しか更新してませんが、まあこれくらいはネタをかましておこうかと…というわけで、『スマイルプリキュア』のキュアマーチと『美少女戦士セーラームーン』のセーラージュピターを描いてみました。後者はちょうど20年前なわけですが(まこちゃんの登場は9月だそうですが…)、ワタクシ、五人組のチームだとこの立ち位置が好きなんですよね。どっちもポニーテールなのも興味深いところです。
#しかしまこちゃん、登場回のサブタイトル「恋する怪力少女、ジュピターちゃん」なのな…。

『美少女戦士セーラームーン』のアニメ版が放映を開始した1992年、私は当時大学生であったが、「なにやらとんでもないものがはじまったな」と感じたのを印象深く思い出す(まあ、その前に放映されていた『きんぎょ注意報!』も見てはいたのだが)。その文脈はさまざまであったと思うが、今思い返して見ると、その感慨は「ともかく画面が女の子だらけだ!」という大変身も蓋もないものであったと記憶している。勿論、『ガルフォース』(1986年)のような例外もあったが、やはり『セーラームーン』は、その後のアニメに登場するキャラクターの男女比を決定的に変動させる、大きな節目として機能していたように思われる。
この頃の私はコミケにも足を運んでいたが、『セーラームーン』の同人誌は(無論男性向けのものも山のようにあったが)、女性が手がけるものも比較的多く、そこに、いわゆる「鎧もの」の想像力が流れ込んでいることはすぐに見て取ることが出来た。私などがことさらに指摘するまでもなく、このことが、その後の百合的な想像力の豊穣な展開につながっていったことは明らかであろう…そこから、『エヴァンゲリオン』という峻厳な山嶺を経て、ヘテロセクシュアルなセクシュアリティそのものの自明性を根本から問い直す『少女革命ウテナ』(1997年)が世に出るまでには、わずか5年しか要していない。
#『セーラームーン』の自己言及的なシミュラークルである『セーラースターズ』が『ウテナ』の直前まで放映されていたことは(1997年2月まで)、この点で興味深いように思われる。
『ウテナ』から更に15年を経た現在、『けいおん!』が戯画的に描き出すように、セカイからはヘテロセクシュアルな恋愛は周到に排除され、時間が止まったような日常の戯れの中の微細な人間関係の「差分」のような形で、キャラクターたちのコミュニケーションは紡がれているようにみえる…「キミとボク」の異形な近接関係を描くかに見えた「セカイ系」的想像力は、おそらく、『エヴァ』のトラウマが『ヱヴァ』へと変化する中で治癒されたのだろう。その一方で、虚淵玄が『まどか☆マギカ』において描く少女たちの葛藤は、『Fate/Zero』において示されているように、セクシュアリティの差異を不問に付す、純化されたホモソーシャル空間の反転像でもある。彼女たちがいる「いまここ」が、ユートピアなのかディストピアなのか、私にはわからない。

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遅ればせながら謹賀新年

Amimami3
ものすごく間が開いてしまい、かつ、けっこう時宜を逸してしまいましたが、ともかくも2012年、新春のご挨拶を申し上げます。みなさまにとって今年が良い年でありますよう…というわけで、干支とは特段関係がないのですが、ふと思い立ったので『アイドルマスター』の亜美真美にビキニアーマーを着せてみました。いや、ワタクシにわかファンなのですけれど、アニメ版はすばらしい出来でした。ちょうど村上裕一さんの『ゴーストの条件』が刊行されたので、ニコ動をアホほど見たということもありますが(詳しくは後述します)。
#いつも、下絵を描いて塗る段階で「こんな面倒なデザインにするんじゃなかった」と思うんですよねビキニアーマー。
##あ、これをご覧になっている仕事関係の方でご希望があれば、もれなく来年にはこの種の絵柄で職場テロを仕掛けさせていただきますのでご一報ください(笑

太田省一は、戦後日本の「アイドル」の歴史について通史的に把握しようとする試みの末尾でAKB48に言及し、握手会や総選挙といった手法が採用されることによって「アイドルとファンとは運命共同体と化してしま」うため、それまでテレビの内部で振舞っていたアイドルと視聴者の間に存在していた「批評的視線は弱められてしまう」と述べ、その根源的な要因を、AKB48が批評的視線を生み出していた「テレビからも遠く隔たった存在である」ためではないかと指摘している(『アイドル進化論』)。太田のフィールドがテレビという非対称性のあるメディアを自明の存在とする1970年代論であることからすると(『テレビだョ!全員集合』)、この評価自体はおそらく正当なものだが、『アイドル進化論』においてはCGMとしてのヴァーチャルアイドルにも言及していただけに、両者の関係性についての考察を禁欲しているところが惜しまれる(太田自身は「90年代に入る頃から、アイドル文化を時間軸に沿って示すことが困難で、また無意味な情況になってきた」と率直に述べている(前掲『アイドル進化論』))。
「現代におけるn次創作的なキャラクター文化の極北」にあるものがAKB48であると指摘する宇野常寛は、「一次情報と二次創作の担い手の逆転こそが、AKB48のキャラクター生成システムの本質」であり、そのシステムの自己言及性によって「AKB48は半ばキャラクター消費の永久機関と化している」と(その射程をどこまで普遍化出来るかどうかは一応別として)適切に指摘している(『リトル・ピープルの時代』(補論))。ここで宇野が「システム」という用語を選択していることは、勿論、自己言及性をその内部に畳み込んでいる社会システム理論への目配りであり、AKB48が単なる(一人ひとりのアイドルたちという)「要素の集合」ではなく動的な現象であることを指し示している。そしてこのダイナミズムが、テレビのような非対称性のある「マスメディア」ではなく、いわば「生態系」のようなざわめきを内包するインターネット空間というリソースを前提としていることも言うまでもないであろう(濱野智史『アーキテクチャの生態系』)。そして、その「クラウド化」した想像力がn次にメタ化していけばいくほど、おそらくその「仕掛け人」としての秋元康の「作家性」は限りなく希薄になっていくであろう(村上裕一『ゴーストの条件』)。
太田と宇野の間にあるメディア理解の断層は、そのまま、19世紀的な社会科学と20世紀型社会科学との断層を反映したものであるだろう(宇野が古典的な権力の表象としてしばしば参照する『1984年』が採用していた監視システムは「テレスクリーン」であった)。その意味では、我々はもはや「テレビ的なもの」としてアイドルを取り扱うことはできない。山之内靖が指摘するように、我々が、ヘーゲル的な「階級社会」ではなく後期ルーマン的な「システム社会」を生きているのであるとしたら(『システム社会の現代的位相』)、AKB48というオートポイエーティックなシステムは正しく、社会に適合した「アイドル」のダイナミズムを表象しているように思われる。
#この点、古典的な(メディアの非対称性が有効であった時代の)アイドル像を戯画化する『アイドルマスター』が、ソーシャルゲーム(通称「モゲマス」:詳しくはこの記事を参照されたい)として消費者の無限の欲望をダイナミックに拾い上げようとしていることは象徴的に見える。
そうであるとするならば、この「システム社会」において敢えて「労働賛歌」という楽曲を提示して、身体性をもって弁証法的に振舞おうとするももいろクローバーZの試みは、ベタな古典回帰として解釈するしか無いのかもしれない。宇野がやはり適切に指摘するように、身体性はシステムと対抗するものではなく、両者は「結託」しているのであるとすれば、なおさらである(小林よしのり・宇野・中森明夫「AKBこそネ申である」(『夏休みの終わりに』所収))。ももクロを評価する立場とは、つまるところ、システム化する前の弁証法的な世界、つまり「歴史の終わり」以前の時代へのノスタルジーによって駆動されているのだろう。それが単なるノスタルジー消費にとどまらないムーブメントになる可能性はおそらく限りなく低い…しかし、その可能性がゼロではないとしたら、その地平を見てみたいという欲望を掻き立てられるのは、私がもう年寄りだからだろうか。

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多層乖離のディケイド

Mayuri
※このブログには、以下の作品についてのネタバレが多少含まれています(大したことはありませんが)。未見/未プレイの方はご覧になってからどうぞ:『ひぐらしのなく頃に』『涼宮ハルヒの憂鬱』『Steins; Gate』
ずいぶんと間が空いてしまいましたが(ちょっと忙しかったもので・・・)、昼間仕事しながら「花澤香菜のひとりでできるかな?」を聞いていたら、なんだか花澤香菜ヴォイスで「トゥットゥルー♪」という声が聞こえてきた気がしたので、まゆしぃを描いてみました。私アニメから入って、途中からパソコン版で後追いの形でゲームをプレイしたのですが、この作品のリアルはまさしく「ゲーム的」なところに宿っている気がしますね(岡部がタイムリープとDメールを駆使して時間跳躍するようにアチーブメントを回収することになるので)。勿論アニメ版にも工夫が凝らされていて楽しいですが・・・うん、そのアップルパイはないぞクリスティーナよ!w

先の記事において指摘したように、ゼロ年代を特徴付けるコンテンツが「ループもの」であることには大方の了解があるように思われる。しかし、その隆盛には、東が『ゲーム的リアリズムの誕生』において示した「メタ物語的プレイヤー」の実装によるリアリティというモメントに加え、いま一つのモメントが加わっていたように思われる。
「ループもの」がどのようにその「ループ」を脱却するか、という方法論については、おそらく、いくつかの類型に分けることが可能であろう。日本のオタク系コンテンツに重大な影響を与えた「ループもの」である『ビューティフル・ドリーマー』は、かつての、高度経済成長の(あるいは「政治の季節」の)残り香を受ける形で構築された「終わらない祝祭性」を演出することで、成長や実存からの「逃走」についての肯定と否定のアンヴィバレントを見事に描いて見せた(スーザン・ネイピア『現代日本のアニメ』)。これに対し、ゼロ年代の「ループもの」の主流は、東が評価する『All you need is kill』などの作品構造が備える「ループの経験者の孤独」を媒介とした「生の一回性」についてのメッセージを中核に据えるものが多い…言うまでもなく、『Steins; Gate』もその一つである。
#『魔法少女まどか☆マギカ』もこの類型に含まれるかもしれないが、個人的な印象としては、この作品はむしろSF的なセンス・オブ・ワンダーに力点があるようにも見える。
ところで、ゼロ年代の「ループもの」の中には、明瞭にその「脱出」の処方箋を示すことによりメッセージ性を備えるものも散見される。その一つの方向性は、やはり東が指摘するように、竜騎士07の『ひぐらしのなく頃に』(及び、やや視角を変えてはいるが『うみねこのなく頃に』)において示される「あまりにも非現実的で多幸症的」な、ある種楽観的な処方箋である。「誰かが悪役にならないと終われないのでしょうか?誰かを敵にしないと、物語は解決しないのでしょうか?」と読者に問いかけ、「誰とも争う事がなく、誰も敵にならない」というあまりにもナイーヴなハッピーエンドへの到達可能性の模索を「ここまで『ひぐらし』の世界について来てくださった貴方なら大丈夫」と後押しする作者の姿勢には、ある意味極めて普遍的なヒューマニズムが横溢している(コミックス版『ひぐらしのなく頃に解 祭囃し編7』へのコメント)。
もう一つの方向性は、『涼宮ハルヒの憂鬱』のアニメ第二期においてパフォーマティヴに演出された「エンドレスエイト」である(無論このエピソードは原作に準拠しているが、実際に8回ほぼ同じ話を繰りかえして視聴者に提示したアニメ版の方が批評性が高いように思われる)。「SOS団みんなで夏休みの宿題をする」ことでループが閉じられる、という処方箋は、宮台真司的な「おわりなき日常」のサヴァイブのための「まったり革命」、あるいは、『リトルバスターズ』や『Angel Beats!』のような近時の麻枝准作品に看取される「コミュニティにおける承認」を志向しているように思われるが、「キョン自身も心のどこかで『別にこのままでいいや』というような気持ちがあったのではないでしょうか?」「ずっとアニメをつくっていたいなぁ。600年くらいどうってことないです」といった声が聞かれるところからすると(『Newtype』25巻14号(絵コンテ・演出:石原立也コメント))、製作側にもこのモメントは共有されていたようである・・・ただし、この企画はコンセプチュアルに過ぎたため、エンターテインメントとしての枠を逸脱してしまった感も否めないが。
いずれにせよ、ゼロ年代において「ループもの」が好んで製作され、受容されたことにはいくつかの理由があることは確かであるように思われる。しかしここでは、ループものが構造的に持っている「シミュラークルへの親和性」に着目したい。「ループもの」はかなりの領域で「セカイ系」と重なるところがあるが、前島賢が適切に指摘するように、「セカイ系」作品は長編展開が難しく、かつ、「物語消費」を排除しているというコンテンツ的な限界を内包している(『セカイ系とは何か』)。しかし、「ループもの」としての構造を備えることで、「セカイ系」作品もこの限界を易々と越境できることになる・・・すなわち、「あり得たかもしれない別のループ」としてシミュラークルを作成することが容易であるが故に、理論上は無限に(!)作品の外延を引き伸ばしていくことが可能になるのであり、更に、その枠組みにおいては「物語消費」だけでなく「データベース消費」さえも「ループ」に解消可能となるのである(『ひぐらしのなく頃に』における『燕返し編』や、『Steins; Gate』における『比翼連理のだーりん』など)。
しかし、とりわけ「データベース消費」を「ループ」に位置づけることには、一抹の不安がまとわりつくことも確かである。とりわけ、上述の「スピンオフ」がオフィシャルなものとして作成されていることには注意を払っておきたい。東が「データベース消費」を行う「動物」と化したオタクたちを必ずしも否定しないのは、それが「物語」を読み込む「私」という(動物化したとはいえ強固な)「主体」を前提としていたからではなかったか・・・「作者の死」を正面から引き受ける、データベースに蠢く「動物」たちの可能性は、<オフィシャルなシミュラークル>という矛盾きわまるコンテンツが偽装する「オリジナルのアウラ」によって摘み取られはしないか。このことはおそらく、コミケにおいて企業ブースがその動員力のウェイトを高めていることと無縁ではないであろう。コミケにおいて「オフィシャル」なシュミラークルに耽溺する彼らには、(「動物」としてであれ)果たして「主体」が読み込めるのだろうか?

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匙は投げられた(村上春樹的な意味で)

Charlotte
・・・もはや祝うのが憚られるような年齢の誕生日に自分で自分に誕生祝いのメッセージを描くという、年に一回しか出来ない自虐ネタをかましてみましたよ!絵柄はあまり深い意味はないのですが『インフィニット・ストラトス』のシャル。是非花澤香菜さんにフランス語でお祝いしてもらいたいですね!(←痛いことこのうえないw)・・・このブログなんと6年半もやっているのですが、その間の顕著な変化として「声優に詳しくなった」ということが挙げられそうです。もうダメですな。

私はあまり村上春樹の良い読者ではない。というのは、もとよりその作品の全てに目を通しているわけではなく、主として巷間で他の作品への影響が明確であるとされる場合に遡及して読むことがほとんどだからである(例えば『灰羽連盟』と『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』のように)。そして多くの場合、遡及の元となった作品のバイアスによって作品を鑑賞してしまうためか、読後感としてはなんとなく物足りなさを感じることになる・・・とはいえこれはもとより、氏の作品の完成度が低いからではなく、私自身の読書経験がいわゆる「文学」の周縁にあるジャンルに偏っているからであり、「SF/ファンタジーとしては奇想性に欠ける」という、いわば難癖に近い感想であることは自覚している。
#例外的に比較的共感を持って読んだのは、学生時代に読んだ『1973年のピンボール』だった。今は絶版となった「福武文庫的なもの」として受け止めたように記憶している。
『回転木馬のデッド・ヒート』に収められた短編「プールサイド」についても、(過去に読んだような覚えもあるが)実のところ東浩紀の『クォンタム・ファミリーズ』から遡及して最近読み直したもので、作品自体にはやはりなんとなく物足りない感覚を覚えたが、(これは先行して読んでいた)グレッグ・イーガンをはじめとする量子論を素材とするSF作品において展開される世界観などとの対照を踏まえて、『クォンタム・ファミリーズ』の作中において示された「35歳問題」にまつわる解釈を感慨深く反芻させられた(このような自己省察へと導かれたという点で、私は『クォンタム・ファミリーズ』をSF的な想像力を優れて私小説的な問題系へと接続する作品として読んだのだと思う・・・個人的には、性的な道具立ての用いられ方がややあからさまなのではないか、という違和を除いては面白く読んだ)。
私は数年前に「人生の折り返し点」を過ぎたが、(東の表現を借りると)「仮定法の亡霊」に悩まされることはあまりないように思う。勿論、私が認識している「自己同一性」が、実際には「記憶」を物語ることによって構成されたフィクティヴなものであること、言い換えれば「人格的自己同一性の概念的構成に物語的自己同一性が介入すること」(ポール・リクール『他者のような自己自身』)については(それこそメタ的な問題として)自覚的であるつもりであるが、このことは一方で、認識論的次元としては時間が不可逆であることについても(素朴な経験論に留まるものではなく、例えば、根っからの文型人間の頭で理解出来た範囲でのカオスや複雑系の理論などの知見から)自覚的であるということを反映しているのかもしれない。思うに、ゼロ年代を特徴付けるコンテンツが、やはり東が指摘するように「メタ物語的な読者/プレイヤー」の存在を前提とした所謂「ループもの」であったとするならば(『ゲーム的リアリズムの誕生』)、上述の後者のモメント、すなわち、時間の不可逆性についての自覚から距離をとることについて、ゼロ年代には一定の「リアル」が備わっていたのかもしれない・・・このことは勿論、所謂「大きな物語」の失効が現前したことや、ソーシャルメディアの発達を始めとする技術革新と無関係ではない。
しかし翻って来し方を省みるに、上述のような自己同一性の物語的構造と認識論的な時間の不可逆性の組み合わせによって「この人生」の一回性を認識する、といった手続きを踏む以前の問題として、そもそも「人生の折り返し点」を自覚するほどに強固な近代的「自我」があったか、と問われると、にわかに首肯しかねるようにも思われる・・・不惑に王手をかけた段階で改めて読み返してみたのだが、少なくともこのブログを開設した6年半前よりも私は確実に、それはもうすがすがしいほどにダメな人間になっているが、それを意図して選んできたか、と言われると、にわかには即答しかねるからである。

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遠近法への壮大なる挑戦、それがプリキュアオールスターズ

Hibiki_2

まずは、今回の震災で被災された方々に心よりお見舞い申し上げます。

私横浜に住んでるのですが、輪番停電の実施されている街は暗く、夜になると人通りもまばらですが、こういうときこそプリキュアの暖色系チームの出番なわけですよ!・・・というわけで『スイートプリキュア♪』の赤い方、「爪弾くは荒ぶる調べ!」でおなじみの北条響。歴代プリキュアの眉の太い方が好きですね私は。しかし、『プリキュアオールスターズ』は、頭身の違う歴代プリキュアが一堂に会するので、なんだか一瞬眩暈がするのですよw
#べ、べつに『夢喰いメリー』が休止だったんでおなか成分が足りなかったわけじゃないんだからねっ!(←自爆)

第1作『ふたりはプリキュア』が2004年2月に放映が開始されており、この2月から放映されている『スイートプリキュア♪』はシリーズ通算第8作にあたることを考えると、「プリキュア」シリーズがゼロ年代からネクスト・ディケイドにかけての女児向けアニメコンテンツとして引き受けてきた役割は非常に大きなものがあることが伺える(本ブログでもこの記事この記事で取り上げている)。しかし、「プリキュア」シリーズの前提となる90年代のこのカテゴリの主要コンテンツが、「美少女戦士セーラームーン」シリーズ(1992年3月~1997年2月)と「おジャ魔女どれみ」シリーズ(1999年2月~2003年1月)の2つの文脈を持っていることは、このシリーズの持つ性質の重層性を象徴的に示しているように思われる。
「プリキュア」シリーズの直接の参照系は、第1作のプロデューサー鷲尾天が「日本中の女の子を虜にした、大金字塔」であり「意識しなかったとすれば嘘になりますね」と率直に述べているように、「セーラームーン」シリーズであろう。この方向性に沿って、同じく第1作のシリーズディレクターの西尾大介は、その鷲尾の企画書にあった「女の子だって暴れたい」というキャッチコピーと、中国の武侠小説に出てくる女侠のカッコよさを組み合わせることを目指したという(『プリキュアぴあ』所収インタヴュー)。この方向から導かれる類型は、端的に(斎藤環の言うような)「戦闘美少女」であろう。一方、とりわけ「プリキュア」シリーズの中でも第3作の『ふたりはプリキュア Splash☆Star』と第7作の『ハートキャッチプリキュア!』には、「おジャ魔女どれみ」シリーズにより発展的に継承されている、東映アニメーションにより先鞭がつけられ、『魔法のプリンセスミンキーモモ』からスタジオぴえろの一連の作品によって構築された「魔法少女」類型の影響が濃いように思われる。
基本的に「戦闘美少女」の類型であるプリキュアシリーズにおいては、異世界から訪れる「妖精」(と呼ばれるマスコットキャラクター)がプリキュアに変身するための超自然的な力を少女たちに付与する、という構造が採られており、「魔法少女」ものにおいて、日常を変容させるファクターとして超自然的な力がアイテムを通じて「魔法」として顕現する、という側面はあまり強調されない。このことはあるいは、併行して放映されていた平成仮面ライダーシリーズ(『ふたりはプリキュア』は『仮面ライダー剣』と同時期である)が変身ヒーローとしての正義の多元性に絡め取られた結果として、勧善懲悪的なドラマトゥルギーがプリキュアシリーズに求められた、という皮肉な事態を反映しているのかもしれない。
しかし上述のように、プリキュアシリーズの中でも、『Splash☆Star』と『ハートキャッチ』には「魔法少女」類型に引き寄せられた側面がある程度看取される。前者については、シリーズディテクターの小村敏明が「『世界名作劇場』みたいな、家族を中心とした暖かい話がやりたかった」と述べており(前掲『プリキュアぴあ』)、このことがエヴリデイマジック(ローファンタジー)の構造を持つ「魔法少女」ものとの親和性を高めたようにも推測されるが(同作のモチーフが「精霊」であることも影響しているのかもしれない)、後者については、周知のようにスタッフ構成そのものに「おジャ魔女どれみ」との連続性がきわめて強い。すなわち、プリキュアシリーズは、基本的には「戦闘美少女」の構造を取りながら、間歇的に「魔法少女」類型へと接近する場合が見られるのである。とりわけ「魔法少女」的であった『ハートキャッチ』を踏まえて、『スイートプリキュア♪』がどのような構造を見せるかに注目したい・・・これは勿論、「魔法少女」類型を根源から揺るがそうとする『魔法少女まどか☆マギカ』とも密接に関連する問題である。

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厚生労働省は一度ポン・デ・リングの成分表をチェックすべき

Merry
異世界からやってきた来訪者がミスドのドーナツ、特にポン・デ・リングに示す執着は異常なので、ひょっとしたら何かそういう成分が混入されてるのかなあ、と思ったものですから・・・というわけで、これもミスドにご執心の『夢喰いメリー』のメリー・ナイトメア。ああ、でもこの種の仕事が厚生労働省の管轄なのは『ジオブリーダーズ』の世界だけか?(『喰霊』だと環境省ですね)

オードリー・ビアズリーがオスカー・ワイルドの『サロメ』に寄せた挿絵は、世紀末イギリスの退廃を反映した作品として夙に有名であるが、その中に「stomach dance」と題された一枚がある。異国趣味に溢れたその作風から推すと、おそらくここで描かれているのはベリーダンスであると思われるが、ある展覧会の図録において、この絵にそのまま「腹踊り」との邦訳が附されていて妙な違和感を持ったことを記憶している。
表意文字としての日本語の持つ語感の中で、部首として「にくづき」を持つ漢字の語感には独特のダブル・バインドがあるように思われる・・・直裁に身体について指し示してしまうという「明瞭にされるべきもの」のベクトルと、その直裁さ故に含意される「秘匿されるべきもの」のベクトルの解離とでも言えようか。これはすなわち、我々が「身体性」を言語によって指し示そうとすること自体が孕む解離であるとも考えられる。
このことについて近時接した素材として、谷川流『涼宮ハルヒの憂鬱』の公式スピンオフ作品である、ぷよ『長門有希ちゃんの消失』を例示しよう。作中、ちょっとしたハプニングで長門の腹部を目撃することになったキョンに対して、この作品世界での長門は「私のお腹どうだった?」という「とんでもなく地雷臭がする質問」を投げかけているのである(1巻、33-34頁)。はたしてこの問いに正解はあるのだろうか。
個人的な感覚としては「お腹」の良し悪し、という質問は、まず一義的には「腹具合」の良し悪しに結びつく問いであり、そのフォルムや(狭義の)肉付きの良し悪しについての問いではないように思われる。それゆえこれは、スピンオフ作品たる『長門有希ちゃんの消失』版の長門の天然な部分と、なおかつ、作品世界自体が持っている微妙可笑し味を絶妙に表現したやりとりであると言えよう。この問いに対する、キョンの「いや特に問題ないんじゃないか?俺腹属性無いし・・・」(35頁)という応答もまた、その上滑りした部分も含めてよく出来ている。
しかし、ひょっとすると巷間では既に「腹属性」という概念が既に人口に膾炙したものであるという可能性も捨て切ることが出来ない。もしそうであるとすれば、「ツンデレ」類型と同じように、この概念によって多くの微細な価値観を持つ者たちの対話可能性を視野に入れることが出来る(勿論、微細な差異ゆえに分かり合えないこともあり得るが)・・・『よつばと!』の風香の肉がちょっと余ってるウェストと、『とある科学の超電磁砲』の佐天さんのいつも丈が足りないらしいセーラー服の上着について、識者が同じ概念で共に語り合う未来が、ここにはあるのかもしれない。

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サイエンスの幽霊

Shiori2
どんなキャラでもバニースーツを着せれば大抵干支に引っ掛けることができる、という意味では、十二支の中でもっともお手軽なネタなのではないでしょうか。というわけで、まったく何の必然性もありませんが『神のみぞ知るセカイ』に登場する<文学少女>の理念型、汐宮栞など一筆書いてみました・・・しかし年明け早々これでは、今年もきっとろくな一年にならないような気がしてなりません(笑
#まあ、2010年は花澤香菜無双であった、ということでもあるでしょうか。箱根駅伝でもご活躍だったそうですし。

17世紀のヨーロッパにおいて生じた所謂「科学革命」の帰結として、我々は「世界(自然)という書物」を読み解く「文法」としての科学、すなわち「自然科学」を手に入れた。ガリレオ、ベーコン、デカルトら「近代知の確立者」たちが好んで用いたというこの比喩は、一つには、「自然科学」がそれまでの経験論を超越した「言語ゲーム」としての幾何学的言語を必要としたことを、そしてもう一つには、その「言語ゲーム」によって「世界(自然)という書物」の著者であるはずの神や造物主の概念が解体され<世俗化>されたことを含意している(野家啓一『〔増補〕科学の解釈学』)。「科学革命」からやや時代が下ると、政治学や経済学などの「社会科学」が発生してくるが、そのあり方は基本的には「自然科学」寄りのものであったとされる。19世紀初頭の草創期の「社会科学」とは、前近代社会から意図的に距離を置き、「科学的」精神に従って近代社会を構築しようとする、西洋近代に固有の学のあり方であった。一方、伝統的な神学・法学・医学の基礎をなす「知識それ自体のための知識」としての「ヒューマニティーズ」のあり方は、この「科学革命」の影響を受けて再編されつつも「自然科学」と対置される形で「人文学」として維持される・・・ヒュームの提示する経験論に対して批判を反復することで「道徳」についての省察を深め、「自由で尊厳性をもった理性人」という近代的人間像を呈示することで近世自然法論から開放されたカントの思惟は、その好例であろう(笹倉秀夫『法思想史講義(下)』)。富永健一は、「知識それ自体のための知識」のあり方を示す呼称であった「arts and science」のうち、後者を「自然科学」、前者を「人文学」に振り当てた上で、「人文学が方法的に「科学」とは区別される」が故に「少なくとも半分くらいは「科学」である社会科学が人文学とは方法的に違う」という立場から、敢えてこれに「人文科学」の呼称を充てないと述べている(『現代の社会科学者』)。
富永の整理に従うならば、発生論的に我々が理解している「科学」の区分、すなわち、まず「自然科学」と「人文科学」が分離し、後者が「狭義の人文科学」と「社会科学」に分離するというものではなく、方法論的な区分として、「自然科学」と「社会科学」の間の近接と、「人文学」との方法論的な差異が描き出されることになり、伝統的に文学部において講じられる学問、例えば「文学」は、この区分から言えば「科学」から方法論的に遠く、19世紀以降独立の学部を構えて講じられる政治学や経済学、すなわち「統治」についての学は、「科学」に近いということになる・・・この19世紀的な「科学」性、すなわち、実験し観察する対象への視線を司る「自然科学者」と、人間関係を自然科学モデルを援用して統御する「組織の長」を表象する記号が「眼鏡」であることは、もはや多言を要しないであろう。
もっとも、19世紀後半から「科学革命」により構築されたパラダイムは揺らぎ始めており、現在においてこのあり方は自明のものでは無くなっている。世界は既に、読み解かれる一定の文法を持つ「書物」ではなく、メタ化された「解釈」へと開かれた「テクスト」となった(野家前掲『科学の解釈学』)・・・「近代的科学者」の理念モデルとしての「ラプラスの魔」が消え去るとき、19世紀型パラダイムにおける表象としての「科学的眼鏡」もまた、消え去る運命にあるのかもしれない。

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訳者名が本当にペンネームなのか気になるところです

Sayori
「作者不詳」はまあともかくとして訳者「行方未知」ですから、ペンネームじゃなかったらえらいことですが、ありそうなだけに怖いところです・・・というネタは、ヴィクトリアンポルノの名作?『閉ざされた部屋』の話です。金子國義のカヴァーの方が有名かも知れませんが、これ原題「Man with a Maid」と大変身も蓋もないタイトルなのです。イラストには、1996年の<殻鳥インパクト>(←今適当に思いついた言葉ですw)以前の美少女ゲーム業界におけるメイドさんの立ち位置をある意味非常にシンボリックな形で代表していると思われる、1993年の『禁断の血族』(シーズウェア)に登場するメイドのさよりさんを描いてみました・・・この頃はまだ、ヘッドドレスはメイドさんの記号として確立していなかったようですね(1989年の『ランス』(アリスソフト)や1991年の『スイートエモーション』(ディスカバリー)では後に「ホワイトブリム」と呼ばれるようになるものを付けているようですが、同じアリスソフトの『D.P.S.sg set.2』(1991年)に登場する「小間使い」のテスはヘッドドレスをつけていません)。

久我真樹さんが同人誌において長年にわたって蓄積された仕事が、先般『英国メイドの世界』(講談社)として上梓された。その意義については今更私のようなものが改めて述べるまでもないであろうし、その充実した内容についてもやはり、今後必ず読み継がれるであろう記念碑的な業績であることだけを記しておけば足りるであろう(なので、もし仮に、この文章を目にしていながらまだ落掌していないという御仁は、今すぐに書店に走るべきである)。そこで、その内容に関する評釈や史資料の取り扱いについての言及は専門家に委ねることとし、ここではもっぱら私的な回顧の形で、同書のコンテクストの一部と理解され得る、前世紀末の所謂「美少女ゲーム」におけるメイドの表象について散漫に触れて見ることとしたい。
東浩紀の『動物化するポストモダン』をはじめ、多くの先行業績が現代日本のオタク文化におけるメイドの表象の起源として掲げている『黒猫館』は1986年に作られたOVAであるが、同作は1993年にゲーム化もされている(フェアリーダスト)。ゲーム版『黒猫館』が発売されたのと同じ年には、上述の『禁断の血族』及び『河原崎家の一族』(シルキーズ)、翌94年には『アラベスク』(フェアリーテール)も発売されており、草創期の「美少女ゲーム」におけるメイドの表象はほぼ固定されたように思われる。すなわち、これらの所謂「館物」の作品で描かれるのは、いずれも、古い洋館を舞台にした退廃的な物語であり、そのデカダンスを表象するイコンとしてメイドというキャラクター類型が用いられていたとまとめることが許されよう。そして、そのデカダンスの参照先の一つとしてヴィクトリアンポルノが選ばれたことには、この時代が「生-政治」によってセクシュアリティのコードが解離を見せていたということとあわせて(フーコー『知への意志』)、その解離と反復の故に、同時代のポルノグラフィが反文学性を色濃く刻印されたからであるとの理解も可能かもしれない(「『我が秘密の生涯』のような作品を取り上げ、そこから性的ファンタジーという上部構造を剥ぎ取ってしまうなら、その下にじかに、無意味な空虚が、つまり、人生が無の上に基礎づけられ、それを支えるものなど何もないという意味が見てとれるはずだ」(スティーヴン・マーカス『もう一つのヴィクトリア朝時代』))。
この「反文学性」はおそらく、日本社会においては、「実存」に対して懐疑のまなざしが向けられていた60~70年代からマージナルな想像力として引き継がれたものであるが、私にとってそれはなによりも(もっぱら河出文庫に収められた)澁澤龍彦や種村季弘に代表されるような想像力であった。高校生の時分から両氏のエッセイを読み漁り、かつ、その編による幻想・怪奇小説に耽溺していた私にとっては、1990年代初頭の「美少女ゲーム」の世界はそのようなものの延長線上にあった・・・そして、その中でもとりわけ実験的な『狂った果実』や『ドラキュラ伯爵』(いずれもフェアリーテール)などの作品にデカダンスの表象としてのメイドが登場することに関しては、私は特に違和感を覚えなかった。
#付言すれば、1980年代後半からミステリにおいて展開された「新本格ムーヴメント」への共感も、このデカダンスへの親和性から説明出来そうである・・・ネクスト・ディケイドの若人に対しても伝わるように述べるならば、例えばそれは、奇しくも同じ1986年を舞台とする『うみねこのなく頃に』の大時代な舞台設定とメタ的なナラティヴへの共感に近いものがあるのかもしれない。
逆に私は、その後の「メイドさん」シーンを塗り替えることになる『殻の中の小鳥』にはある種の違和感を覚えたように記憶している。今思い返すと、この違和感の一部は、90年代半ばになってデカダンスを標榜することの空虚さそのものにも拠っていたのであろうが(言うまでもなく、1996年は『エヴァンゲリオン』の年であり、日本社会に大きな「断層」が生じた年である)、近時、同作に携わったクリエイターの回顧を読む機会があり、上記の違和感について一定の解釈を得ることが出来た。すなわち、同作は「館物」への明瞭なアンチテーゼとして作られており、なおかつ、ヴィクトリア朝イメージが「ハリウッドが作ったイメージ」であることを自覚した上で、そのイメージを再構成して周到に利用しているというのである(「栄夢・新井和崎インタヴュー」『美少女ゲームクロニクル』)。つまり、「メイドさん」なるものの表象には、かつて私が耽溺したデカダンスや「反文学性」は最初から含まれて居なかったのである・・・その後の「メイドさん」現象に対する私のスタンスが、耽溺すべきものではなく、その表象の記号的戯れを観測する対象へと徐々にシフトすることとなったのも(先に引用した記事の前後に書き散らした一連の記事、とりわけ、「メイド論的転回」(笑)とでも呼称すべき暴論を展開して、墨東公安委員会さまから適切な批判を史学の立場から頂戴したこの記事などを参照されたい)、おそらくこのためであったのだろう。
ともあれ、上述のインダヴューの中で「当時、コスチュームの一つでしかなかったもので、本を開けばメイドの原点がイギリスかアメリカかってわかるんですけど、新井〔和崎〕が「メイドはイギリスのもんなんだよ」って定義したら世の中がそうなっちゃった」と述べられている状況の延長線上に2010年の今があるとしたら、『英国メイドの世界』はそのあり方を検証する格好の素材となるはずである。重ねて、一読を薦めたい。

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「むねあきらぁ~」の「ら」あたりの巻き舌具合が巧の技です

Yukimura
なにやらずいぶんと間が空いてしまいました(むやみと忙しかったもので)・・・私MXで視聴してるのですが、途中で『えむえむっ!』のCMが挟まることがあり、やはり釘宮理恵は伊達にツンデレ歴を重ねていないなあ、としみじみ感心するところしきりなのです。というわけで、『百花繚乱 サムライガールズ』から真田幸村。しかし私の書架にはこの種のマンガがやたらとあるので(一部ネタにもしました)、最近戦国武将の名前が加工なしで女性名として使われていても何の違和感も感じなくなって来ました。我ながら末期症状だと思います(笑

(文脈が混乱していたので加筆修正しました:2010.11.27)
マイケル・サンデルの『これからの「正義」の話をしよう』が、日本でもある種不可思議なまでに話題となっていることの背景には、無論、皮肉なことにサンデル自身が標榜する立場とは異なり、そのパフォーマティヴな「講義」の進行の上手さへの憧憬があるように思われる。しかし、このモメントを割り引いて考えたとしても、「自分を束縛する唯一の道徳的責務を決めるのは自分自身である」という考えを「独善的」であるとして退けるサンデルの立場には、やはり一定の支持があるように思われる・・・そしてこのことは、おそらく、日本の所謂「戦後民主主義」がかなり強く、カント-ロールズ的な「自由」への負荷をかける形で「正義」を語ってきたことへの懐疑が強まっていることと連動しているのであろう。
ところで、同書において、カント-ロールズ的な「自由」に対置される形で持ち出されるアリストテレス的な「善」のあり方は、周知の通り、サンデルと同様にコミュニタリアンとしてロールズ的リベラリズムに対抗したマッキンタイアの提示する「物語的自己性」の概念を踏まえて提示されるものである。すなわち、「物語行為」という言語行為によって支えられる「自己」は、「物語行為」が時間性を帯びるが故に「伝統」や「来歴」といった概念と必然的に結びつき、そうであるが故に、「個人」は「ある歴史の一部」たらざるを得ないのである(『美徳なき時代』・・・この点、サンデルはマッキンタイアの論について思い切った抽象化を行っており、やや誤解を招くようにも思われる)。
このような形で立ち現れる「位置ある自己」の歴史性(時間性)は、構造的に、その「位置づけ」の背景となるある種の「共同性」を要請する。そして、その「共同性」を調達するものが、循環論的構造であるが、まさしく「歴史」なのである・・・この「共同性」の重要な一画としての「家郷性」について、ギリシャ人たちが「物語行為による想起・追憶としての「歴史=物語」形成作用」と結びつけていたことを、ヘーゲルは『哲学史講義』において既に指摘していたというが、そのことと、周知の『歴史哲学講義』における「国家」における「建国の歴史」の創出の必要とを考え合わせると、そこには「自分たちのくつろぐことが出来る場」の充足のための「隠蔽の装置」の存在が立ち現れてくる(鹿島徹『可能性としての歴史』)。
そうであるならば、「位置ある自己」が所属する「共同体」にとって不可欠な「来歴の物語り」が、上述の意味において恣意的であったり、フィクティヴであったりすることは、まったく不思議なことではない・・・例えば、日本という「国民国家」にとって、対外的な危機に反応するかのように、周期的に立身出世譚やサクセスストーリーをその中核とする「国民の物語」が紡がれるのも、その反応の一端として理解されよう(成田龍一『”歴史”はいかに語られるか』)。そしておそらく、ステレオタイプとしての戦国時代の表象が、例えばNHKの大河ドラマの題材として繰り返し想起されることも、このような傾向の下で理解されるように思われる。
日本という「国民国家」において繰り返し立ち現れる戦国時代の表象が強化しようとする「来歴の物語り」は、おそらく、朱子学的な垂直的権力関係と、それに付随する家父長制的マッチョイズムである。そうであるとすれば、例えば『百花繚乱』のような作品は、意図的にこのようなセクシュアリティのコードを壊乱しようとする挑戦的な試みであるようにも受け取ることが出来る(「忠」するアニメーション、という惹句はなかなか秀逸である・・・犬山道節が見たら卒倒しそうであるw)。しかし一方でこの作品には、過度に時代錯誤的な修飾がふんだんに施され(「美しい国・大日本」って・・・)、更には、第一話の冒頭に戯画化されるようなあからさまな反米感情が盛り込まれるなど、いささか困惑させられる演出も同時に散見される。
おそらくここに読み込まれるべきは、決して上述のようなコードの壊乱といった「戦略」ではなく、ネクスト・ディケイドのオタク共同体の、ある種の「保守化」の傾向なのかもしれない。しかしそうであるならばなおさら、順接的なグラマラスさを押し出すキャラが多い『百花繚乱』の中で、真田幸村のような「ロリ、ツンデレ、つるぺた、スク水等、ある意味最強の武器を惜しげもなく装備する」キャラが描出されることには、共同体の「来歴の物語り」として反復される上述の「保守化」を脱臼させる迂回路として、過去この記事この記事で若干検討したように、近時の「クール・ジャパノロジー」のキータームである「ネオテニー」をこそ読み込むべきなのではないだろうか(東浩紀編『日本的想像力の未来』)・・・この点、『戦国スクナ』のような、真正面から「かわいい」戦略として戦国時代の表象を扱う作品があることは興味深い。

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